01:趣味に打ち込んでたらフられた私
「ほのかはさ……俺がいなくても楽しそうだよね」
寂しそうに眉を寄せてそう言うと、彼は私の前から去っていった。
「そんなことないよ」と引き留めた方がよかったんだろうか――
後になってそう思ったけど、その時の私は、ただ茫然と彼の短い襟足を見つめることしかできなかった。
交際5年目になる記念日の、2週間前のことだった。
***
日曜の夜8時半、居酒屋の大部屋に大人が30人弱。
さっきラストオーダーを聞かれたのに、コース料理はまだまだ残っているし、場の雰囲気は盛り上がる一方だ。
多分このままのテンションで2次会に続くんだろう。
明日が月曜日だろうと、今日ばかりは関係ない。
年に一回の定期演奏会を終えた後の打ち上げなのだから。
みんなが演奏に関する賞賛や懺悔を口にする中、私は――
「明里さん〜〜〜」
明里さんの肩にグリグリと頭を押し付けていた。
編み込んだハーフアップの髪型がグチャグチャになっていそうだけど、今の私にとってはどうでもよかった。
「結婚しないでぇ〜〜〜」
「私もいい歳なのでね」
明里さんは私を肩で支えつつも、右手で枝豆をつまみ、左手で豪快にウーロンハイの入ったジョッキを煽った。
「あ、すみません」
明里さんのジョッキが空になったのを見て、反射的に近くの店員さんを呼んだ。
「ウーロンハイ一つお願いします」
「ありがとね」
明里さんはウーロンハイしか飲まないのを、私は知っているのだ。
「彼氏さんより私の方が明里さんに相応しいのでは……?」
「ハハハ」
至って本気な発言だったのに、乾いた笑いで流されてしまった。
明里さんは同じトランペットパートの先輩で、今日の定期演奏会を最後に退団してしまう。
その理由が――結婚だ。
結婚を機に、旦那さんが暮らしている東京に引っ越すらしい。
黒髪ショート美人の明里さんが人妻になってしまうという事実。
そして、来週から私の隣に明里さんがいないという事実が信じられない。
「来年の定演は聴きに来るよ」
「トランペット持参してちょろっと吹いてっていいんですよ」
「いやいや……」
「明里さんならできるでしょ?」
「ほのかちゃん、目がマジなんだけど」
「マジです」
真顔で詰め寄ったらさすがに引かれた。
でも、明里さんなら初見でも人並み以上に吹けるから、不可能ではないはずだもん。
「おすず、助けてー」
私のテンションがヤバいと思ったのか、明里さんが向かいのテーブルに座っていた鈴を呼んだ。
「はいはーい」
鈴は振り返ると、グラスを持って私たちの前に座った。
――東雲鈴。
私と同い年で楽器はテナーサックス。
化粧気のないこの素朴な顔で、どエロく吹く女である。
「ほのかはお酒飲めないからシラフなはずですよ」
「エッ」
「シラフです」
「逆に怖いよ……」
そう、私はお酒を一滴も飲んでいない。というか、弱すぎて飲めない。
これが私の通常運転なのである。
「てか、ほのかちゃんは? 彼氏と結婚の話しない?」
明里さんに聞かれて、昂った熱がスッと引いた。
「あー……実は、別れたんですよね」
「「え!?」」
二人は揃って大きな声を上げた。
一瞬、周りの会話が止まり、視線が集まる。
しかし、すぐに各々の会話に戻っていった。
「ちょっと! 聞いてない!」
「私も!」
「1週間前にフられまして……」
「えー!?」
別に隠していたわけじゃない。
演奏会のリハーサルや準備で忙しなくて言うタイミングがなかっただけだ。
「何で!?」
「長かったよね!?」
「『ほのかは俺がいなくても楽しそうだよね』って言われました」
「「……」」
正直に話すと、二人はなんともいえない表情をして顔を見合わせた。
気を遣われてるのを感じて、私はいつも通りへらっと笑ってみせる。
「『確かに』って思っちゃったんだよなぁ……」
実際、図星だった。
仕事は4年目で安定してるし、週末は楽団の練習。
毎日が充実していて、彼と別れた後も仕事や私生活に特に影響はなかった。
結果的に感じたのは悲しみではなく、彼に対しての申し訳なさだった。
「うんうん」
「吹奏楽、楽しいもんな」
鈴は大きく頷いてくれて、明里さんは私の肩を抱いて引き寄せてくれた。
甘んじて寄りかからせてもらうと、ポンポンと頭を撫でられる。
「私も東京行くから退団するだけで、また向こうで楽団入るつもりだよ」
「旦那さん毎回聴きに来てましたね」
「彼も経験者だったからね」
そういえば、元彼が演奏会に来たのは最初の1回きりだった。
興味のないことに付き合わせるのもどうかと思って、最近は誘ってすらいなかった。
「結婚しても楽団辞めたくないなー……」
自分のからあげにレモンを絞りながら呟く。
この先、体力の限界が来るまで、トランペットを吹くことはやめたくない。
趣味を共有できなくても、理解して協力してくれるような相手に、私も出会えるだろうか――
「ほのかちゃん結婚するのー?」
「……」
私たちの空間に、間延びした声が入ってきた。
ふわふわした茶髪に柔らかい笑顔。
人畜無害な笑顔を浮かべるこの男性こそが、我が楽団の創設者であり団長の金井蒼太、通称蒼さんである。
蒼さんは鈴の隣に腰を下ろし、目の前にあったカリカリポテトをつまんだ。
「蒼さん空気読んで」
「え? 何の話?」
ユーフォニアムを吹いている時は周りに合わせてめちゃくちゃいい仕事をするくせに、プライベートではこんな感じで空気が読めない節がある。
彼氏にフられたばかりの私に「結婚するの」だなんて、デリカシーがないにも程がある。
「蒼さんのせいで彼氏にフられたって話です」
「僕のせい!? なんかごめん!」
私が誇張して言うと、蒼さんはまんまと動揺して謝った。
まあ、私がこの楽団に入ったきっかけは同じ大学出身の蒼さんに誘われたから、蒼さんのせいでフられたと言ってもあながち間違いではない。
「蒼さん責任とってくださいよ」
「え、ほのかちゃんを嫁に貰えってこと?」
「ダメ、奏くんはオススメしない」
責任とれっていうのはもちろん冗談だけど、明里さんはばっさりと断言した。
「何でですか? けっこう優良物件だと思いますけど」
一般的な目で見たら、蒼さんはなかなかの優良物件だと思う。
身長高いし、顔も整ってるし、大手企業勤めだし。
でも、確かに私が入団してから、蒼さんに恋人の影を感じたことはない。
「蒼さんは浮いた話ないんですか?」
「んー?」
聞いてみると、蒼さんは笑顔を崩さずにグラスに口をつけた。
これはちゃんと答えてくれないやつだ。
「浮いた団費でチャイム一式買おうと思うんだけど、どう?」
蒼さんは人の良さそうな笑顔を浮かべながら言った。
「それ、絶対蒼くんのポケットマネーも使うやつじゃん……」
「チャイムっていくら? 100万する?」
「決算セールで73万だったんだよ!」
「いやそれでも……」
目をキラキラと輝かせて語る蒼さんには悪いけど、「買いましょう!」と簡単に背中を押せる額ではない。
うちの楽団が人数の割に打楽器が充実しているのは、蒼さんのポケットマネーのおかげだと、前に明里さんが言っていた。
「パーカッションの人数増えてからにしてください」
「確かに手が足りないか……」
「置く場所もないと思うよ」
「俺の部屋に置けるよ」
「どんなインテリア??」
「……あ、電話だ」
蒼さんが黒いガラケーを片手に立ち上がった。
楽団用の電話が鳴ったということは、おそらく入団希望者か演奏依頼者からの電話だ。
「……オススメしない理由わかりました」
「でしょ?」
個室を出ていく蒼さんの背中を見送ってから呟くと、明里さんが呆れ顔でため息をついた。
趣味のために10万をぽんと出し、家の一室にチャイムを保管する夫――
確かに、嫁の立場からしたらモヤモヤしてしまうかもしれない。
吹奏楽の経験がない人だったら尚更だと思う。
……なんて、趣味に打ち込みすぎて彼氏にフられた私がとやかく言う権利なんてないんだけれども。
私も、元彼の目にはそんな風に映っていたのかもしれない。
「トイレ行ってきます」
「いってらー」
脳裏に浮かんだ寂しそうな顔をリセットしたくて、私は席を立った。
***
「――ありがとうございます。じゃあ一度見学に来ていただきたいんですけど……」
トイレから戻ると、靴箱の横で電話中の蒼さんを見つけた。
左手でガラケーを耳にあて、右手でスマホを操作している。
今の言葉を聞く限り、電話の相手は入団希望者のようだ。
「楽器は……トロンボーンですね」
蒼さんに近寄り、聞き耳を立てる。
「お名前は……七海……遥斗さん」
「!」
蒼さんが確認した名前を聞いて、心臓がドキッと跳ねた。
姿勢よくトロンボーンを構える黒髪――
そして、まっすぐ射抜くような、妥協のない真っ黒な瞳が脳裏に浮かんだ。
七海遥斗くん……高校の時の後輩と、同姓同名だ。
そのうえトロンボーンを吹いてるとなると、おそらく同一人物と考えていいだろう。
「来週見学者来るよ〜。トロンボーンだって!」
電話を終えた蒼さんが教えてくれた。
「もしかしたら……高校の後輩かもしれないです」
「そうなの? 上手い?」
「すごく上手かったです」
「いいねー!」
七海くんはとても上手かった。
高校から始めたにも関わらず、音程もリズムも常に完璧。さらにセンスまであった。
でも、少し心配だ。
決して悪い子ではないんだけど……高校の時は彼の率直な性格が原因で、何度かトラブルになったことがあった。
「年明けから夏目さんも戻ってくるし、入ってくれたらトロンボーン充実するね」
「……そうですね」
意気揚々とする蒼さんに対して、私は一抹の不安がどうしても拭いきれなかった。




