引退した元軍人の俺、え!? 金銀財宝が手に入る幻のダンジョンが出た!? 女房との生活の為と言われたからには、行くしかない!
雪が背嚢に積もり、紐が肩にがっつりと食い込むのも気にせず、男は街を歩いていた。
道行く人はその風体にぎょっと眉を顰め、足早にすれ違うか、あるいは、戸窓を閉めていく。
無理もない。男の風体は、ボロボロに薄汚いのだから。しかし、よくよく見ればそのボロボロの背嚢は正規軍で手配される支給品であるというのがわかるし、外套もまた、正規軍で使用されていた物と同じであるとはわかる。首から掛けられた識別標には曹長の文字が辛うじて見える程度だ。
もしも、手入れをすればまた、再びの輝きを取り戻すのであろう。
が、男はそのような事はしない。
ぼさぼさになった髪の毛、その奥に潜む目は、馬のようにまっすぐ燃えていた。
軍人としてダンジョン攻略に参加したのは、叔父のドナルドに言われてだった。除隊後の、妻との生活の少しの足しにでもなればと、叔父が新たに始めたダンジョン攻略の事業の紹介を受け、志願し、2年を経た。年季奉公があけて帰ってこれたのだ。
「俺も銃に撃たれてなければな。行って来いよ」
ドナルドにそう励まされ送り出されたのを覚えている。
馬のようにまっすぐ、妻の待つ家へと帰ってきた。
「あんた、クリッカー。クリッカーさんだね!」
ちょうど、家からほど近いところで顔なじみだった老婦人から声をかけられる。
老婦人はスカーフを頭の上に被っており、その上には雪がうっすらと積もっていた。
男はクリッカーは手を上げて挨拶した。
が、老婦人の反応は、好意的ではなく、狼狽えていた。
「あぁ、なんてことだい。クリッカーさん。あたしゃ、何といえば」
老婦人が言っている事がわからず、クリッカーは何か言おうとした。
が、すぐに思い浮かぶのは妻の姿である。
重い背嚢がまるで羽毛のように軽く感じれるほどに素早く、クリッカーは家へとつながる道を駆け抜けた。老婦人が声をかけるがすでに遠い。小さなおんぼろの家は、曇天の下に佇んでいた。煙突より、煙が出ている。
扉を荒々しく開けて、中へと入った。
小さな木の居間には机が一つあり、それに肘着いて美しい女が座っている。その視線は、部屋の暖炉へと向けられており、そこの暖炉には小さな炎がチラチラと舐めるように動いていた。が、今にも、その火は消えてしまいそうなほどに弱い。
妻だ。
「美しい人」
クリッカーが、一歩、また、一歩近づいていく。
と、その時、家の奥から小さな音が、トトトっと聞こえた。
ネズミよりも大きい、猫よりも、犬ほどだ。
軍隊仕込みの聴力はそう聞き分けた。が、それらを飼った覚えはない。
が、次の瞬間、クリッカーは愕然とした。
家の奥の薄闇から現れたのは、小さな男の子であったからだ。
ちょうど、一歳かそれくらい。
男の子は、妻の傍らにそっと寄り添い、クリッカーを不思議そうに、警戒心を持って見た。
「誰にだ」
ぼさぼさの長髪の奥にある瞳が、燃え上がった。
妻は口を開かない。目線もこちらへと向けない。顔も向けない。
ただ、傍による子供へと手をそえて、撫でるくらいなものだ。
「ドナルドさんさ」
家の戸口で、先ほどの婦人が肩で息をして言った。その後ろには同じく息を切らす、別の婦人がいる。
が、クリッカーはまさかと愕然の気持ちであった。
「あたしらも気を付けていたんだ。だけど、甥の女房の世話をするって、よく来るようになってね」
「あたしたちにはどうにも、ゆるしてくれ……」
クリッカーの脳裏にその様子がありありと浮かんだ。
叔父が妻を手籠めにするためにその夫である自らを遠くへとやりたかった。幸いな事にダンジョンへと送り込めば何年かは戻ってこない。もしかすれば死ぬかもしれない。その間に、甥の妻を、美しき人妻を思う存分に楽しめる。
叔父の指が妻の白い肌を、乳房を弄ぶのが思い浮かぶ。
クリッカーは、両手の爪が食い込むほどに力強く握った。
叫び声と共に、木製の椅子の足を掴み、床に叩きつけ、粉々に砕けた木片をいくつは拾うと、暖炉へとくべた。
「叔父はどこにいる!」
轟々と暖炉の火が燃え始める。
「たぶん、酒場」
夫人がその言葉を言い終わるよりも先に、クリッカーは背嚢を捨て、走り出していた。長旅の疲れなど忘れ、燃える目で、まっすぐに向かった。すれ違う人々は、あまりの気迫に気圧されて、慄き、道の端へと寄らざるを得なかった。
酒場の近くへ来た時、どんと木の扉を仰々しく押し開けた。
「ドナルドはいるか!」
開口一番のクリッカーの叫びに、がやがやとした店内が、しんと静まり返る。
一番奥、金持ちしか座ることを許されていない席に座った人影が、手を上げて、立ちあがった。ひょろりと細く、顎髭を生やした男。記憶のそれとは違う。しかし、その顎髭の下にある銃創の跡は、間違いなく、叔父のドナルドであった。上品な仕立ての服は、豪奢な生活を物語っている。
「おー、俺はここだぜ。ドナルド様はここさ」
千鳥足に、上機嫌に近づいてくるドナルドは、クリッカーに気付かない様子だった。
酒の入った瓶を片手に顔を突き合わす時になっても、ドナルドは気づかず、むしろ、どうやらクリッカーを仕事を求めにやってきた求職者だと思ったらしい。ふっと、笑うと、再び、酒に口をつけた。
「なんだ、仕事が欲しいのか? あいにくと、そうだ。俺の妻を殺してくれたらいいんだけども」
「妻の事で話がある」
「妻? 誰の?」
クリッカーの手が、ドナルドの首根っこを掴んだ。そして、そのままに、近場にある机へと叩きつける。あまりの強さに、机の上に載っていた皿が飛び上がり、ガシャンと音をたてた。
「クリッカー曹長だ」
「お、おぉ、甥っ子、可愛い甥っ子。帰ったのか。妻には会いに行ったのか? お前に会いたいってよく言っていたよ! 毎日、食事を差し入れに行っていたんだ。良いオジサンだろ?」
ぐっと拳に力が籠められる。
ドナルドを持ち上げて、カウンターへと投げようと振りかぶった時、店主が「やめてくれ! 外でやってくれ!」と言うので、仕方なく、店の外へと投げつけた。入り口の木の戸を破り、ドナルドは外へと転がり出た。
「最悪だ、死ぬかと思った」
「殺す」
軽口を叩くドナルドに対し、店から一歩、ずんとクリッカーが出てきた。
「女房を取られた腹いせか?」
ぺっと口から血を吐き出し、ドナルドは囃し立てるように手を叩き始めた。
手の叩く音で、人の耳目が集まる。
「女房取られた、女房取られた、女房とられた。お前の女房、良い女。毎晩抱いても飽きないぜ」
「ドナルド」
「そうそう、お前の女房」
クリッカーが声をかけると、ドナルドは手を叩くのを止めた。
「子供産むまでは結構、楽しんでたぜ。お前の事、一度しか呼ばなかったな」
「俺がお前を殺すのは、それが問題ではない。妻を辱めた事、そして、俺自身が憎いのだ」
パンっと乾いた音が街に響いた。
見れば、ドナルドが手にピストルを持っている。
「なら、勝手に死んどけ! 俺を巻き込むな!」
クリッカーは、自らの腹部から血が噴き出ているのを見た。じわじわりと血の染みが大きくなり、溢れた血が白い雪の上にポトリと落ちた。次の血が地面に落ちるよりも先にクリッカーは動いた。
身体を大きく沈め、その全身のバネの力を使って、ドナルドに飛び掛かると首をへし折った。
呆気ない最期だった。
しかし、クリッカーは帰らねばならない。
叔父の死体をそのままに歩き始める。
血が抜けて軽くなったはずなのに、背嚢を置いて軽くなったはずなのに、鉛のように重い体を引きずって、家路へとついた。家がようやっと見得てきたとき、クリッカーは大きくよろめいた。が、膝をつく事もせず、家の戸に立つ。
家の扉を叩く手が、己の血で滑った。
そのままに戸を開ける。
家の中では首を吊った妻が揺れていた。
その足元には、子供が一人、じっとそれを見ていた。
ただ、じっと、見ていた。




