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1月

1月の内容

■R胎の誕生日

■訓練

■一緒に歩く(外での訓練)

■もうすぐ訓練評価1

■3つの歩行方法

■ユーザーになるには?

■月次報告(1月)

■R胎の誕生日

近盲では毎年10頭の盲導犬を育成しようとしている。盲導犬になれる割合がおおよそ3~4割程度とすると年間25~35頭のパピーが必要になる。これは前にも説明した通りだ。一回の出産頭数を4~5頭とすると、年6~7回の出産があることになる。総盲のような大きな協会では毎月2回の出産があるようなので、近盲では6~7回の出産しかない、というべきかもしれない。一昨年の出産記録を見ていたら、5月21日が出産日だった母犬がいたことがわかった。1回の出産で産まれた子達には同じ頭文字の名前をつけることになっている。この5月21日生まれの仔犬にはRで始まる名前がつけられた。今、ヒノキハウスにはRで始まる訓練犬が2頭いる。実は自分の誕生日は5月21日だ。このことが分かって急に妙な親近感が生まれてきた。もしかすると...。

「佐渡さん、リランとラインって同じR胎(Rで始まる名前の兄弟姉妹犬)ですよね。」

「そう、父犬はテスラー、母犬はエイミー。5頭生まれたんだけどもう他の3頭はキャリアチェンジしてヒノキハウスからほかへ移ったのよね。」

「誕生日がいつか分かりますか?」

「ちょっと待って、調べてみるわ。...。おととしの、5月21日ね。」

佐渡さんが協会のデータを見て確認してくれた。

「やはりそうですか。実はぼくの誕生日も5月21日なんです。」

「あ、そうなのね。2頭とも盲導犬になって欲しいわね。」

「いや、ほんと。応援したくなってきました。」

改めて2頭を見に行く。イエローのオス、リラン。黒のオス、ライン。

「リランというのはアメリカでは良く聞く男の子につける名前ね。女の子の名前っぽい響きだけど、Rerun。アメリカの4コママンガにも出てきているわ。ラインは線のラインではなくてRhine、ライン川の事。名前を付けるのはPWさんの最初の仕事だけど、そのあとずっと名前を変えることができないので、実際には難しい仕事よね。さあ、それじゃ2頭を順番にブラッシングしてください。」



■訓練

盲導犬の訓練は大きく二つの段階に分けられる。基本的な生活を送るための訓練(基本訓練)と、人の歩行を補助するための訓練(誘導訓練)。誘導訓練の中で大きく2つの関門がある。これに合格すると、実際のユーザーさんと一緒に半月から一カ月の期間をかけて行う「共同訓練」に進む。共同訓練は他の人との「共同」ではなく、犬と人の「共同」を指している。さらに言うと共同訓練はユーザーのための訓練が主体で、訓練犬はユーザーに慣れるという意味合いが強い。誘導訓練まででほぼ盲導犬としての訓練が終っている状態だ。

近盲では本格的な訓練に入る前に、大きさは小ぶりだが大きな音を立てるクリッカーという道具を使ったクリッカー・トレーニングが行われている。ほめる時、ご褒美つまり褒めの言葉、犬へのタッチ、トリーツ(普通の家庭犬の場合はオヤツ、ただし盲導犬として育成、活動している期間は基本的にドッグフードしか食べ物は与えないので、トリーツと言っても普通のドッグフード。)を与える前にクリッカーを鳴らす。

パピーがPWさんの家からヒノキハウスに戻ってきて、しばらくするとこのクリッカーの音がヒノキハウスの内外で響く。人の声としては『シット(Sit、スワレ)』『ダウン(Down、フセ)』『アップ(Up、タテ)』『カム(Come、コイ)』『ヒール(Heel、ツケ)』『ウェイト(Wait、マテ)』などの英語のコマンドが聞こえる。褒める言葉として『グッド!』が聞こえる。そして次第にヒノキハウスの中から外へ、さらには訓練センターの外に出て行って訓練が行われるようになる。


「訓練で大切なのは、犬のやる気を引き出すことですね。ただその犬によって随分と性格は違うので、全部同じように扱うことはできません。だから訓練する犬によって少しずつ順番を変えたり、あるときはゆっくりと繰り返し、別のときには詰め込んだりして教えたりします。共通して言えることは、最初は褒める、褒めるとまた褒めて欲しいので自分から進んでするようになる、さらに褒める、難度を上げてそれができたらまた一層褒める、この繰り返し。褒めるのも最初はクリッカーを使いますけど、次第に『グッド』の言葉だけでできるようになってきます。」

佐渡さんに説明を受けるとよくわかる。

「褒められるとやる気がでるんですね、やっぱり。」

「盲導犬の知能は小学生レベルと言われています。だから私たちは幼児、児童の教育心理なども学ぶようにしています。まあ前置きはこのくらいにして、実際の訓練を見てください。今日の訓練は段差を教えることです。」

こんな風に段差のトレーニングを教わった。

・まず犬と歩き、犬が段差を見たら「グッド!グッド!」と褒める。

・上り段差の場合さらに前進し、前脚をかけたところで、より一層褒める。

・繰り返し行うと、自分から段差を見つけ前脚を置くようになる。

・次は前脚をかけて止まると褒める、ただし穏やかに褒める、そうすると進まずにじっとする時間が長くなる。

・練習を重ねて段差の前で止まれるようにする。

■一緒に歩く(外での訓練)

「須田さん、一応確認なんだけど、盲導犬は道案内をしないって知っているよね。」

今日は、浅香さんが市街地で訓練しているところを見学させてもらうことになった。江田さんが解説をしてくれる。今はヒノキハウスから市街へ向かうその車中。

「ええ、もちろんです。でも近盲に来るまでは知りませんでした。」

「そしたら、信号機の信号が分からない、っていうのもここに来てから知ったんだね。」

「ええ、そうです。ここに来るまでは、盲導犬は通った道を覚えていると思ってました。駅に行く、学校に行く、職場に行くとか指示すると、どこどこの角を右に曲がって、まっすぐ行って、とか勝手に連れて行ってくれるものだと思っていました。」

「うん、実は盲導犬はかなり頭が良くて、特に賢い犬だと1・2回行くと行き方を覚えてしまう場合もある。ただその能力は使わずに、全てユーザーがストレートとかレフト、ライトとか指示を出して目的の場所へ行くようにしてるんだ。」

「そうなんですね。さっきの話に出た信号機についてなんですけど赤信号、青信号くらいは区別できてもいいんじゃないかと思いますが、それもダメなんですよね。」

「そう、色を識別することができないから。中には、色はともかく、どの信号が光っているのか、上か下か、右か左かくらいは見分けられると思う人もいるみたいだけど。」

「自分もそう思ってますけど、やはりダメなんですね。」

4頭の訓練犬を乗せたワンボックスワゴンでは浅香さんとこんな会話をした。

自分も街へ出る前に、ヒノキハウスの中や、訓練センターの敷地内道路で少しは訓練犬と歩行の練習をしてきた。ハーネスを付ける。とたんに犬たちのスイッチが切り替わる。ハーネスのハンドルを左手で持つ。協会によっては右手・左手、両方使うケースもあるようだが、近盲では左手でハーネスのハンドルを持つことにしているとのことだった。ハンドルを持つと犬たちのスイッチはさらに切り替わった気がした。


・始まりはキープレフト

今回連れて来た4頭のうち3頭はまだ訓練センター外での訓練を始めてそれほど日が経っていなかった。自分が近盲に出向になってからヒノキハウスに戻って来た犬たちだ。

「盲導犬はキープレフト、道路の左端を歩くように訓練するのが基本の基本です。こんな風に歩きます。」

そういって浅香さんは訓練犬のニッキーに導かれて歩道の左端をすーと歩いていく。思ったよりも速い。こちらも小走りで追いかける。浅香さんはこれからは訓練に集中するので、ここからは江田さんの解説。

「これから徐々に難しくなっていきます。このまま歩くと道路に面した店舗の駐車場があっていきなり塀が無くなります。そしてさらに行くと歩道が広くなります。このような所をどうやって歩いたらいいかを教えていきます。」

「最初の塀がなくなるところはどう歩かせるのですか。歩道が広くなるところはどうするのでしょう。なかなか難しいですね。」

「実は須田さんにはまだきちんと説明してなかったのですが、訓練部の人間はいろいろなパターンでの歩き方などをしっかり勉強していて、すぐにどんな場合でもどうすればいいか、大抵は分かります。ただ原則はあって、これは覚えておいてください。先ほど言ったようにキープレフト。進路変更は急な動きにならないようにします。この2つの原則が今回は重要です。壁がなかったとしても例えば歩道と敷地の間には幅10センチくらいのコンクリート舗装があったりしますよね、それを目安に歩くまっすぐな方向を認識して歩くことを教えたりしています。塀が無くなった場合のキープレフトは、歩行の目安としている敷地の境界をどう判断するか、道幅が広がった場合は、直進の目安となる目標の変更とどのくらいずつ進路変更をすれば安全なのかを教えます。そしていろいろなことに対応できるように答えを教えて覚えさせるだけでなく、自分で答えを見つけさせることも徐々に組み込んでいきます。」

浅香さんは、ニッキーのハンドルを持って先ほどの道を歩いて行く。ニッキーは初めての体験なのか、塀が切れたところで、少し戸惑いながら店舗敷地に入ろうとする。浅香さんはそれについていくが褒めないし叱りもしない。ニッキーは不安になったのか、足を止めどうしたのか考え始める。


・段差があるよ

「次はハンナ。ハンナはニッキーよりも少し進んでいるけど初心者。訓練センターの中でも見たことはありますよね、段差があると一度止まって、段差を教える訓練をしていること。」

「ええ、それはヒノキハウスの中で体験させて貰いました。交差点で歩道から車道に降りるときとか、階段を上るときとかは、段差が分からないと怖いですよね。あと一段階段があることを知らずに足を下ろし、捻挫してしまったことがあるんです。だから重要さはよくわかります。」

「そういう体験があるんですね。須田さんが経験したように、ほんの少しの高さの差でもそれが大きな怪我に繋がりかねません。階段だと、命に関わることだってあるでしょ。」

そして続けた。

「実際の町では、ヒノキハウスでの練習をベースにして次の段階を教えています。一つはいろいろな段差を見せ、すべての段差に対応できるようにします。もう一つは訓練士が段差を無視して進もうとしたときに、つられて行ってしまうのではなく、必ず止まるという動作を覚えさせます。これは本当に大事だからきちんとできるようにしているんです。特に訓練士の動きに従わない『誘惑の訓練』では褒めることで自信と達成感を与えてやることが大切です。」

「承認欲求を満たすことで成長する、ということですか?」

「そうです。そのためにはやる気を引き出す褒め方、つまりその訓練段階でその訓練犬に適したタイミングに最適な量と質、方法で褒めるということ、これが大切ですね。」

やはり、繰り返しと褒め方が重要なのだった。

「今、浅香さん、ゴーと言って、でも手はウェイトみたいな動きしませんでしたか?」

「気づきました?声で出すコマンドと手によるハンドシグナルが違う場合に声を優先させるなども教えているんです。これも『誘惑』の一種ですね。」

ハンナのハンドルを持った浅香さんの後からついて行く。交差点でハンナは横断歩道の前で止まる。浅香さんは二・三度その段差を足裏でパンパンと蹴って、段差であることを示し、トリーツを与える。そしてハンナの横腹あたりを軽く触れる。「ストレート ゴー」横断歩道を渡る。ハンナは渡り切る前に止まる。次に前脚を車道より高くなった歩道側にかける。また浅香さんは足裏で段差を蹴る。ハンナを褒める。「レフト ゴー」歩道に上がると左に曲がって歩き続ける。交差点で止まる。このような動作をひたすら繰り返している。ただクリッカーや褒め方は必ずしも毎回同じではない。クリッカーをもらうための作業にすることを避けるためだとの事だった。


・ぶつかるよ

「今度はイーサン。イーサンはニッキーよりも少し訓練が進んでいて、障害物のよけ方を練習しているところです。自転車のような障害物をよけるのはよく見かけるよね。まあちょっとやってみましょう。」

キープレフトで歩き始めたイーサンは前のほうにある電柱を見つけ、電柱の右側を回るように浅香さんを誘導して、電柱を過ぎるとまたキープレフトで左のほうへ寄って行った。

「すごいですね。かなりギリギリのところを通っているように見えます。そしてあまり急に向きを変えるのではなく、緩やかに少しずつ右方向へ進路を変えて、また障害物を通過したあとスムーズに戻りますね。」

「今のが障害物回避動作の基本。今回はイーサンの目の前の障害物だけだったから、簡単なもんです。路上の障害物を避けるときに教えなければならないのは、自分の前にあるものだけではなく、ユーザーの人の幅を考えて通れるところを見つけるということなんです。障害物はユーザーの右にあることもあります。盲導犬と並んで通れるだけの幅がない場合もありますよね。」

「そういう時はどうするんですか。」

「もちろんいくつかのパターンは教えますけど、そんなに多くのパターンを作ったり教えたりはできないから原理原則を教えています。どうしたらいいと思う。」

「そうですね、えーと。……。自分で考えるようにならないとだめなんでしょうね。」

「そう、その通り。正解を教えるのは始めのうちだけで、考えることを求めるようにしています。この考えることを楽しく感じるように訓練をしています。」

「あれ、浅香さん。今私のことも訓練してませんか?」

「ふふ」


実際の訓練を見ながら教えてもらったのは次のような手順だ。

・犬と人が一緒に通れるかどうかを意識させる

・「ストレート、ゴー(まっすぐ進め)」と指示を出し訓練犬のふるまいを見る。

・直進して通れない通路を選んだ場合には褒めないが叱りもしない。

・すると犬は褒めてくれない理由を考える。

・幅が十分にあって通れる方向に向かえば、犬を十分に褒める。

・褒めてくれる理由を考えて犬はその行動を行うようになる。


「次は高さのある障害物。看板とか、トラックのミラーとか、犬の視線よりも高いところにある障害物にどう対処するか、これをやってみましょう。」

街中には路上駐車が多く、とくに商業区域ではたくさんのトラックが荷物の上げ下ろしで歩道や路肩に入り込んで停車している。このトラックのミラーは普段感じていたよりも実際は大きなサイズで外に張り出していた。自分の経験として段差を見落としたこともあるけど、街路樹の枝が張り出しているのに気が付かず頭をぶつけたことがあったのも思い出した。ただ犬の目の高さはせいぜい太もものあたり。1メートルも上の障害物に気が付くのだろうか。少し心配しながら後ろからイーサンを見ていた。イーサンはまるで自分と訓練士の大きさの板があるかのように、通過するための幅や高さを考え、その前側空間に障害物が入らないように進路を決めているように思えた。実に器用なものだと思った。

「上の方を気にしなければならない、と犬が理解したら、幅方向と同じなので教え方は基本的に同じです。」

褒められる理由を考えさせる、そういうことか。



■もうすぐ訓練評価1

近盲での盲導犬訓練で設けている2つの関門。それぞれ訓練評価(TP=Task Performance)1、訓練評価2と呼んでいる。この関門を通過しないと盲導犬にはなれない。いずれも訓練士がアイマスクを着けて訓練犬と歩行を行うコース歩行のテストが中心だ。

アイマスクをつけて歩行する訓練士ハンドラーと安全確保を行うセーフティ、審査を行うために同行する人。ハンドラーとセーフティも審査を行う。

訓練評価1では、その犬の訓練を担当する訓練士がハンドラーをつとめる。内容は基本動作と住宅地コース歩行。基本動作では『シット』『ヒール』などの基本コマンドと集中力、率先力。リードを外しての状態で20メートル以上離れたところから呼ばれる『カム』はほとんどの犬にとって最難関だ。また住宅地コース歩行では

①寄り②角発見③段差④作業への集中など約10評価項目がある。

訓練評価2では担当訓練士以外の訓練士がハンドラーをつとめる。内容は交通量も人通りも多い市街地コース歩行と駅・交通機関利用だ。市街地コース歩行では訓練評価1の項目の上級編となり、項目数も増え評価基準も高くなる。

これに交通機関利用の評価として電車の乗降、ホーム歩行、エスカレータ、階段発見が加わる。

各項目はC-からA+で評価され、訓練評価1ではB+以上、訓練評価2ではA以上にならないと合格にならない。総合的に合格、訓練継続、条件付き訓練継続、キャリアチェンジの4つのうちいずれかの道が選択される。


今日の4頭目はアゼラ。もうすぐ訓練評価1を受けるとのことだった。

浅香さんは「訓練評価1に必要なテクニカルな面、寄りから方向転換まではもう一通りできるようになっています。だから今回は組み合わせて集中力を切らさずにできることを狙っています。」と説明してくれた。そしてハーネスのハンドルを持ち一区画分歩道、交差点と進み一度ハンドルを降ろしリードに持ち替えた。

「後ろから人がついて来るのにあまり慣れていないのか、ちょっといつもと違うのを感じているみたい。少し集中力を高めましょう。」

そう言って『シット』『ダウン』『ヒール』『ウェイト』など基本訓練で行う項目の一部を手短に行い、その後ハンドルに持ち替え歩行を再開した。アゼラは浅香さんに身を近づけ見違えるように集中して歩き始めた。歩道を迷うことなく歩き、前方に障害物があるとスムーズに避けてまた左側へ戻り、交差点付近の角切り部分では決められたところで停止した後横断歩道側へ移動、段差を発見してゆっくりと止まり…。

「浅香さんは、訓練犬のやる気を引き出すのがすごく上手なんです。私も見習わなくちゃ。」と江田さん。

浅香さんとアゼラがそのまましばらくこの訓練を続けていると、また集中力が切れたように周囲を気にするようになった。浅香さん、それまではコマンド通りの動きが出来た時のご褒美として軽くタッチしていたが、今度はそのタッチする場所を変えて、動作もタッチからさするように変えた。するとアゼラはまた集中力を高めてくれた。一通り予定していたコースを歩いて30分。

「今日の訓練でだいぶ良くなった。集中力の高め方ができてきてる。次回はイニシアチブを取って歩けるような訓練をすることにしましょう。」


浅香さんと歩いた後の訓練犬は皆楽しそうだ。

「訓練が嫌になると訓練が滞るだけでなく、実際の仕事として歩き始めた時に、仕事が苦痛になってしまうかもしれない。それは不幸だよね。だから歩くのが楽しい、そう思えるように終らせるようにしているんですよ。」



■3つの歩行方法

「須田さん、お疲れ様。今日は鶴亀市街に行ったようですね。どうでした?」

4頭の訓練から帰ってきて山形所長から声がかかった。

「この時間に訓練の場所に行ったことはなかったんですが、車の往来が多くて訓練も大変だとよく分かりました。」

「そうですか。ところで目の悪い人が街を歩くのに3つの方法があるのご存知ですか。」

所長から話しかけられてドギマギしていたが、別に試験でもないので、

「杖を使う、盲導犬を使う。それから…三番目は分かりません。この他に何かあるんですか?」

と素直に知らないと答えた。

「杖を使うのを、白杖はくじょうを使う、と言ってます。この間のテレビでも『白杖』という言葉の入ったドラマをやっていたので知られるようになってきましたよね。盲導犬が歩行支援に使われているのは、ここに来たので良く知っていますよね。もう一つの方法は案内をしてくれる人と歩く、ということです。昔はこの仕事をガイドヘルパーと呼んでいましたが、同行援護という言い方をするようになりました。何より言葉が通じて、よほど高度な要求でない限り、道案内も含めてすぐにできてしまうというのが強みですね。盲導犬と違って、人間は最短で3日間の研修を受けるとガイドの資格が取れます。しかも講習だけで、実技演習はしますが無試験です。」

そう言えば前に募金をしたときにボランティアの西さんのご主人がガイドヘルパーをしていると言ってたことを思い出した。

「でも大変なんじゃないですか、利用するのは。そういう人を今まで見たことがないんですけど。」

「気が付かなかっただけかもしれませんね。3日間の研修を定期的に行っている研修会社もあって、地方自治体によっては資格取得の際に研修費補助金が出るところもあるんですよ。」

「でも急に依頼することはできないんじゃないですか?」

「利用者は日時を決めて予約をする必要はありますが、それくらいの手間なので慣れてしまえばそれほど大変ではないんですね。一番の問題はプライバシーと歩行の技術、歩行速度ですかね。」

「その3つですか?」

「ええ。毎回違う人に頼むこともできますが、そうすると毎回同じことを説明しなければならないので面倒でしょ。だから気心の知れた同じ人に頼むことが多くなりますよね。そのガイドの人に依頼者の情報がかなり分かってしまいます。また性別が違うと、トイレとか同行しにくい場所がありますよね。そんなこともあって男性への依頼は少ないようですね。」

「そうなんですね。」

「LGBTQの問題として最高裁で判決が覆されましたが、女性専用の場所でまだまだ受け入れられる施設はあまりありませんよね。ましてガイドヘルパーが、特に男性のガイドヘルパーが女性用トイレに行くことはできないし、利用者さんもトイレ同行はいやだという人は多いと思います。」

「確かにそういう話を聞いたことがあります。」自分は西さんのご主人が『男性のガイドはなかなか難しい』と言っていたことを思い出していた。

「歩行の技術という面では、数をこなして経験を積んで、とても上手く案内する人がいる反面、3日間の研修で資格を取って間もない人もいるわけです。しかも資格を取ると後はもう指導してもらえる機会はないわけです。依頼者とどんな位置関係で、どれくらいの距離で立ち、どこにシグナルを送ったらいいかということが分かってないガイドの方も沢山います。こういう人に当たってしまうことだってあるんです。資格をとってしまうと再教育の場は特にないので、現場で彼らがそれを理解して成長してくれるといいですね。盲導犬は口はきけませんが、決められたことをきちんとできるように教育されています。」

「速度については、分かったような気がします。今まで訓練を何回か見せてもらいました。また散歩もさせて頂きました。特に一時預かりで帰ってきている盲導犬だと確かにとても速いスピードですいすいと歩けますよね。まだ訓練中のヒノキハウスにいる犬たちもスイスイと歩いてますね。」

「そうなんです。視覚障害のない人でも、こんなにさっさとは歩けない、と思うほど滑らかに歩けます。もちろん速度を落として歩くこともできます。今3つのことを挙げましたがそのすべてのベースにあるのが、信頼関係です。」

「そうですね。人も犬もすごく強い信頼関係にあるのが分かります。やはり、最強は盲導犬歩行ですね。」

「ええ、と言いたいところですが、盲導犬の場合はユーザーが道を知らないと移動できない、という弱みがあります。一方で同行援護はほとんどの自治体で通勤・通学には使うことができないんです。ですから、盲導犬ユーザーの中にも普段は盲導犬で、全く初めての場所に行くときは同行援護で、と場面によって使い分けている人もいます。」



■ユーザーになるには?

「島田さん、どうやったら盲導犬のユーザーになれるのですか」

「この間、募金の時に聞かれてたって福島さんから聞いたわよ。もっと早く聞きに来るかと思ってたわ。」

「もう伝わってたんですか。遅くなりすみません。」

「それじゃ説明するわね。まず、前提ね。量産できればいいけど盲導犬は機械じゃないから量産できないし、盲導犬自身の幸せも考えることが必要なの。だから盲導犬のユーザーになってもらうためには少し条件があるの。それは、外出をすることで社会参加する意欲があること、これとても重要。それから愛情をもって盲導犬を飼育できること、共同訓練を受けられること、視覚のハンディキャップがあること。」

「その4つだけですか。特に最後のは当たり前のように思えるんですが。」

「ええ、その4つだけなんだけど、もう少し詳しく考えてみましょう。まず最後の視覚のハンディキャップから。視覚障害をあまり知らないと完全に見えないケースだけを思い浮かべてしまうことが多いけど、非常に視力が弱いとか、視野が狭いという場合も含めて考えています。だから完全に見えない人でなくても盲導犬のユーザーになることはできます。ただそれでは曖昧過ぎるから、わかりやすい基準として、視覚障害者1級または2級というのが基準になっています。」

「完全に見えないのではなく、弱視でもユーザーになれるんですね。」

「そう、その通りです。じゃ次ね。共同訓練を受けられること、としているけど、新規ユーザーの場合4週間の訓練を受けないと盲導犬のユーザーにはなれないの。4週間、まるまるひと月。訓練が休みの日もあるけど、これを確保するのは大変よね。」

「そうですね。でも意欲のある人ならば、きっと4週間確保してくれそうに思います。」

「そうね。でも実際に4週間、つまり一カ月というのは長いですよ。まあそれは置いておいて、次は愛情をもって飼育できること。盲導犬は賢いから信頼関係が必要ね。そして生き物だから一緒に清潔に生きるためのお手入れをしなければならないでしょ。餌をあげて手入れをしてますだけだと信頼関係は築けないわね。さらに具体的に説明すると、ユーザー側のいろんな能力にも踏み込まなければならないの。現実的だけど分かりやすいところから入ると、経済的な面。年間10万円程度の費用負担ができること。近盲の場合、盲導犬は貸与なの知ってますよね。」

「はい。盲導犬は貸与、パピーと引退犬は委託だと聞いています。そしてキャリアチェンジ犬は譲渡だと聞きました。」

「譲渡、貸与、委託でそれぞれ違うのだけど、貸与の盲導犬は、医療費も食費も原則はユーザーさんに負担して頂いています。それで合わせてだいたい年間10万円としています。犬のためのケージやハーネスなどもユーザーさんにご用意お願いしてます。」

「服を着ているのを見かけるんですけど、あれは買ってくるのもあるのですか。ペットショップとかで見ると大型犬用は結構な値段がついていますよね。」

「訓練犬の分と同じように現役盲導犬の分も盲導犬協会のボランティアさんが作ってくれているの。市販品だとピッタリサイズが無くて、それですべてオーダーメイド。次はユーザーとなる方の体力や記憶力的な面だけど、近盲では、年齢を一つの基準として置いています。下側は18歳。初めて盲導犬のユーザーになる場合、盲導犬を健康に保ったり、歩行の仕方だったり、それを覚えたりするのが大変なので、明確に年齢の上限制限をしてはいないけど70歳くらいですね。代替わりの場合でも若い盲導犬を十分に運動させないと健康が保てないので75歳くらいになります。」

「働く人にとって拘束される4週間の訓練(共同訓練)は時間的に難しく、休日を取得することはできても、体力的にも年齢を重ねてしまうと辛いかもしれませんね。」

「体力的な面の話をすると他にもあるわね。フードを扱うのも結構な運動になるね。」

「言われてみると、LR用のフードは小型犬用の1~2kgの小袋ではなく10kgほどの大袋に入っていることが多くてこれを運ぶのも一苦労しますね。ところで記憶力って島田さん言ってましたが、そんなに大変なのですか。」

「実際に身体を動かすから共同訓練の4週間の中で習う大抵のことは覚えられるけど、座学で学ぶだけのことは、記憶力的についていけなくなることがあるんです。それに加えて感覚も重要なの。例えば歩道から車道に降りるとき、歩道の高さの分だけ傾斜をつけているところがあるわよね。これを足の裏で感じられないと盲導犬を使う場面でしんどいことになるわ。」

「点字ブロックなんかも同じようですね。」

「そう。点字ブロックも足裏で感じる必要があるわね。ほかにも盲導犬の向こう側に塀があるかとか、交差点で車が通っているのかなんかも感じてもらう必要があるの。音は風の流れのようなものから判断できるので、耳だけでなく肌が受ける感覚的な部分もチェックさせてもらいます。次は場所の問題ね。」

「やはり、大型犬を飼える環境は大切ですね。」

「大切なパートナーの生活環境が整っていないと、その能力を十分に発揮できないからなの。まあ小さな愛玩犬とは違って現実的には盲導犬自身がいる場所も必要だし、夜寝るときは中に入って睡眠が取れる『ケージ』も置くし、フードとか、お仕事中に着る物とかを保管する場所も必要ね。家の中だけでなく周辺の住人の理解も必要だから、集合住宅ではそんな面も考えないといけないの。実際に盲導犬を貸し出す決定は、協会の中だけでしているのではなくて、外部の関係者も含めて議論してるの。」

「そうなんですね。」

「そのあとは、どの犬がパートナーとしてあっているのかを考えるの。マッチングという言い方をすることもあるわ。そしてマッチングできる犬が現れると人と犬との共同訓練が始まるの。近盲では、申込をしてもらう前に説明をするために一度、協会まで来ていただくことにしています。その上で説明に納得していただければ体験歩行をしてもらって、そのあと申込をしてもらうの。申込のあと、指導員が面接をしに自宅に行くわ。」

「面接は来てもらうのではなく、こちらからユーザーさんのところへ行くんですね。」

「ええ、周囲の環境や家の中での生活の場所などを見ておくことが大事なの。環境によってどんな性格の盲導犬を準備したらよいかとか考えるの。それからご自宅を見せて頂くの。その時家の中が整理整頓できていないと厳しいかもしれないわ。」

「それは汚い家だと貸与は難しいと言うことですね。」

「汚いというよりも散らかしている家だと盲導犬を飼育する場所として適してないと考えるからなの。LRの食欲がすごいのは見たことがありますね。訓練の途中で拾い食いをする犬はキャリアチェンジになることがほとんどだけど、それでも誤飲誤食などが起きないように家の中がきちんと整理整頓されているのが重要になってくるんです。訪問すれば、盲導犬を置くスペースがあるかも分かるでしょ。だから現地を見ることは必要なんだと考えてます。家の整理ができるようになればまたチャンスはあるわ。じゃ、次ね。次は愛情を持って育ててくれること。人間一人と犬一頭と言った関係ではなく互いに信頼できる関係になることが必要ね。お互いを助け合うことで成長していくから。」

「最初の『社会に参加する意欲』はどう評価しているんですか。何か具体的な基準とかあるんでしょうか。」

「社会参加意欲に関してはユーザー希望者は申込みの時点から見られています。手続きのプロセスの中でどれだけ意欲があるのか、測れるようになっているのが分かったかな?自分で情報を集めて、行動してくれるのは、社会に参加しようという意欲の表れだと思わない?だから最初は『協会に来てみませんか』と誘っているの。明確な基準という面では厳しいけど、意欲のある人は『協会に...』と依頼したときに、すぐに来れないとしても意欲がにじんでるのが分かります。」

「確かにそうですね。」

「最初に協会に来ていただいたときに、白杖歩行でどういう生活をしているかも聞いているんだけど、家の中にこもっている方にはできるだけ白杖で歩行できるようにすることもお願いしているわ。共同訓練が始まるとその人が持っている歩く力は確実に訓練に影響を与えます。共同訓練の中では公共交通機関を利用することや、道に迷った時に援助依頼をすることも教えますが、前から白杖で歩いている人は改めてバスの乗り方とか駅の仕組みとかは教える必要がないでしょ。それから道に迷った時は周りの人に声をかけたりするじゃない。これが出来ている人はそんなにハードルが高くないけど、人にも犬にも慣れていないと、一から覚えてもらうことになり、それは時間がかかってしまうわ。」

電車に乗るために何をしているかを考えてみると、駅に行く、改札を通る、徒歩に加えて階段・エスカレータでホームへ移動する、乗車位置へ移動する、列車の到着を待つ、扉が開いたのを確認して乗車する、目的地の駅まで行き、扉が開いたのを確認して下車する、徒歩、階段・エスカレータで改札まで移動、改札を出る、といった流れになるだろうか。ここでは書かなかったけど以前は切符を買うとか改札機に切符を通すとか、もっと大変だったと思える。この分ラクにはなったけど、白杖歩行の経験は今も昔も重要なのだと分かった。道に迷ったりしたときは援助要請が必要で、要請できる人はすぐに先に進めるけれど、要請できない人は意思を伝えるまでいつまでも先に進めない。たしかに社会参加意欲は必要だ。

「島田さん、近盲では送り出す盲導犬の年間目標が10頭だと言ってましたよね。その10頭を何人が待っているんですか?」

「今だと10人くらいかしら。ただし初めて盲導犬を使う人たちの人数だけど。」

「10人も待っているとそんなにすぐには回って来ないように思えるのですが。」

「2年くらい待って貰わないといけないかもしれないですね。」

「2年ですか。頑張って待ってもらいたいですね。」

「ええ、その気持ちが揺らがないように、場合によっては長いこと待った後に、盲導犬の世話ができないと気づいた、などということが無いように、最近は待っていただいている間に模擬共同訓練というのを3日間で行うようになりました。須田さんはヒノキハウスで訓練犬の世話をしてきているから分かると思うけど、盲導犬の手入れは大変でしょ。だから盲導犬との生活がどのようなものかを確認してもらい、どのようなタイプの盲導犬を求めているのかを調べるための機会を作ったんです。」

「新規のユーザー候補さんとすでに盲導犬を使っているユーザーさんではどちらが優先されるのでしょうか。極端な話ですが、これから未来を担う20代前半と、仕事を引退して自由に生きる方だったら、どちらを優先させるのですか。」

「これは職員の間でも議論になりやすい点です。QOL、Quality of Lifeっていう言葉を聞いた事ある?すでに盲導犬を使ってくれているユーザーさんもユーザー候補の方もそのQOLを落としたくないと考えています。どちらも大切なんだけど今の協会の考え方だとQOLを維持することが最優先。」

「つまり新たにユーザーになることよりも更新(代替わり)ユーザーの方が優先される、ということですね。」

「そう。盲導犬と生活していた人に白杖の生活に戻って下さいとお願いしても、皆さん『それは無理』とおっしゃられます。盲導犬不在が原因で外出を控えたりされてはQOLが低下するだけじゃなく、心の老化が進んでしまったりする可能性が高まります。だから代替わりの方を優先しています。そして盲導犬の引退はあらかじめ分かっているからそれに合わせて育てることができるの。」



■月次報告(1月)

第4回報告

御手洗社長


1月(4カ月目)の報告をお送りします。

<業務内容>

・盲導犬訓練

 訓練犬の、所内と市街地の訓練の方法、訓練項目を確認しました。

・試験

 訓練犬の各段階での合格基準と認定方法について確認しました。訓練レベルにより試験は2回あること確認しました。

・盲導犬貸与条件の把握と福祉事業の関連調査

<次月の予定>

・キャリアチェンジ犬の処遇調査

・飼育ボランティア条件調査

<所感>

訓練では教育の繰り返し効果と各訓練犬の習熟度判断方法を直接見ることができました。習熟度が上がるに連れて、訓練士とのコミュケーションの質が高まるのが分かりました。一方で判断基準は自分が思ってたものとの違いがありました。詳細は別途資料にてお送りします。


須田


返信:第4回報告


須田さん

報告と添付レポートありがとう。学習が進むにつれて新規項目の必要習得時間が短くなり、さらに訓練士と盲導犬のコミュニケーションも簡素化してくるというところを大変興味深く読ませてもらいました。定量的把握は無理だろうけれど、訓練士の人たちから生の声を受け取るようにして下さい。


御手洗


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