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12月

12月の内容

■駅前の募金

■募金ボランティア

■他の募金、駅前の宗教団体

■街中のいろいろな人々

■募金場所の選び方

■SNS-新型コロナウィルスがもたらしたもの

■交配 血統と犬の特性、凍結精液

■再びヒノキハウス

■月次報告(12月)

■駅前の募金

JR高司駅デッキ

高司はちょうど大阪と京都の間にある。市としての人口は30万人強。東京都の23区で比較すると中野区くらいの人口だ。しかし面積的には中野区の7倍ほどもある。住宅密集地から農地・山間地まで広がる。大阪の中心地の一つ梅田、キタと、新幹線の停まるJR京都駅、繁華街の河原町に出るのにも便利でベッドタウンとしての顔を持っているようだ。大学もいくつか市内にある。今日はこの高司駅で街頭募金だ。高司へはJRで来た。福島さんは、あじさいの里と同様にメロディを乗せて軽ワンボックスで来ている。街頭募金ということだったので今回は駅前で募金をするのかと思っていた。しかし駅の改札は2階で、実際にのぼりを立て募金箱を置いたのは有名デパートのビル、2階入口の近くだった。駅からは歩道橋を兼ねたデッキで直通で、デッキの下はバスターミナルになっている。インバウンド客の少ない地域の百貨店が生き残りをかけて、ごく一部の直営売り場とほとんど専門店を中に並べるようになったショッピングビルの前だった。



■募金ボランティア

「福島さん、おはようございます。」ボランティアさんが先に来ていた。

「こちらは須田さん、1年間修行で近盲に来てくれはってます。」

「福島さん、僕は修行ではないですよ。」

「あー、すんません。出向でした。」

「須田さん、ですか。もしかすると、ボラ・デーでお会いしたかしら。よろしくお願いします。私は西です。あちらは主人、そしてこの子たちは、マーブルとブラン。マーブルはPR犬の引退犬で10歳、ブランはパピー時代預かっていた子が盲導犬を引退してうちに戻ることになったの。今12歳。」

そういえばご夫婦にはボランティア・デーでお会いしたような気がする。

「はい、須田です。西さん。ご夫婦で来てくださっているのですね。ありがとうございます。マーブルちゃんとブランちゃんですね。しっかり覚えないと。」しかし2頭の区別をするのは大変だった。どちらもイエローのLRで、幸い着ている服が違うので区別はできたが、名前がすぐには頭に入ってこなかった。ましてどっちが10歳でどっちが12歳かすぐに言うことはできない。

高司にはボランティアさんが多いようで、このほかにもパピーを連れたご夫婦や犬連れではなく本人だけで参加してくれている女性も居た。

今日は犬5頭、人も7名。大所帯だ。福島さんはこれも慣れた手つきで折り畳みテーブル、今回は2台のテーブルを配置する。

「須田さん、のぼりを立てて下さいね。」

「はい、承知しました。」

今日のこちらのボランティアさんは何年も盲導犬協会と関わってきたようで、自分の親の世代に近い。そして自分よりもずっと慣れているようだ。西夫妻は、マーブルをご主人がブランを奥様がそれぞれ持ち、離れて立っている。

募金を始めて1時間。ボランティアの人たちとの距離感がつかめてきて、西さんのご主人とも打ち解けて話ができるようになった。

「僕は走るのが好きで、大阪マラソンにも出たことがあるんだよ。最近は目の不自由な人のフルマラソンのガイドとして伴走することが多くなったね。」

「そうなんですか。伴走って言うんですか?フルマラソンの伴走って大変ですよね。」

「まあそうだけど、やりがいがあるよ。普段もガイドヘルパー、同行援護っていうんだけど、それをしていて案内もしてるよ。」

「へえ、そういう仕事もあるんですね。」

世の中にはいろいろな仕事がある。



■他の募金、駅前の宗教団体

「須田さん、道路使用の許可書類はここです。警察が来ることはないと思いますが、私が外しているときに警察の方が来はったら、これを見せてください。」

「募金をするときにはやっぱりこういう許可がいるんですよね。」

「あじさいの里は私有地なので前もって無料で使わせて貰えるように話をしてて、それだけで十分なんですが、ここは公道扱いなので警察から使用許可を貰わないといけないんです。ただ警察は厳しく審査するわけではないんで、よほどのことがない限り許可を出してくれはります。そやから他の団体と一緒になることもよくあります。場所については早いもの勝ちというのがルールです。慣れない団体の方の中には許可を貰っているのは自分たちだけだと思って来はる人たちもいてますけどね。」

程なく駅の改札近くに事故遺児のための財団「シルクハット育英会」の募金の若者が並び始めた。彼らは駅の北口、南口に分かれて募金をしているようだが、盲導犬協会の募金をしている南口側だけでも結構な人数に思える。ただ彼らはあまり募金慣れしている感じではなかった。ぎこちない動きで準備をしていた。続いて「賢者の誓約」と言う宗教団体が来た。皆、少し古めかしく、しかしきちんとした服装をしている。

「おはようございます。」

「おはようさんです。」

福島さんによると彼らは何度もここに立っているとのことで、福島さんと会ったことがあるようだった。軽く挨拶をして駅とショッピングビルの間、彼らの『いつも』の場所に立った。

シルクハット育英会は簡単な印刷物を通行人に渡しながら募金を呼びかけている。改札を出たばかりの人たちは気ぜわしく時間や駅から目的地への道を気にしていて、シルクハット募金の呼びかけに応える余裕がないように見える。一方、賢者の誓約の人々は特になにも言葉を発せずに手にパンフレットを持ち、ただひたすら黙って立っている。まれに話しかけられると、おだやかな様子で話をしている。

こちらが盲導犬募金を呼びかけているショッピングビルの前は、改札前と異なり喧噪は少ない。そしてここでもLRとGRの発するオーラが人を集めてくれる。募金をしている7人の人間がいるだけでは多くの募金を集めることはできないけれど、犬が1頭だけでもいれば寄付金が集まってくるように思えた。

あじさいの里で募金をした時から季節は少し進み、風が冷たくなってきた。防寒対策として、メロディは服の上に少し厚手の服を重ね着させている。そして寝ている場所の下にはヒーター入りのキッチン用マットが敷かれている。電源は近盲にある非常用蓄電池。

「寒いけど大丈夫?」このように声をかけてくれる女性が募金箱に500円硬貨を入れてくれた。福島さんはこんな答えをしていた。

「そうなんです、以前は寒かったので、今はヒーターを下に置いています。」

別の職員さんも同じような質問を受けていたが、福島さんとは違って

「ラブは毛が何重にも生えています。その下には脂肪などもあって、人間が感じる寒さほど寒く感じていないのです。」と答えていた。確かに!協会のカレンダーの1月には雪の上をラブが走っていた。たぶん本当はヒーターは要らないでしょう。もっとも人間同様、歳を取ると動かなくなり基礎代謝も落ちるので、寒さには弱くなるように思えるとのことだった。ただなぜかメロディは丸まっていて、やけに寒そうに見えてしまう。まだ3歳にもなっていないはずなのですが。



■街中のいろいろな人々

募金をしている前をいろいろな人が通りかかる。大人、子供。親子連れ、高校生のグループ。会社勤めではあまり接することの無かったハンディのある人たちも通っていく。車椅子に乗った人でも脚だけでなく、四肢の自由が大きく制限されている人も多く見かける。このような人達は、健常と呼ばれる人たちよりもより敏感に反応して募金に貢献してくれることが多い。視覚障害のある方も多い。白杖歩行をしていて、募金の声に気がついて協力をしてくれるのだと思える。

「この募金で美味しいものを食べさせてもらってね」なんて言われることもある。多くの人が盲導犬へ理解を示してくれるが、動物虐待という声も聞かれる。これは考え方の違いなんだな、と気づくようになった。人間だって働かないと食べられない。そして楽しく働くことだってできる。家にいる愛玩犬がどんなに可愛がられたとしても、本当にしあわせなのかだって分からない。

「この募金は本当に盲導犬の育成に使われるんでしょうね。」

こういう質問は何度も受ける。駅前などで実施されている募金。近盲のような団体が実施している場合もあるが、いろいろな団体・人がいるようだ。中には遠くで地震や水災があると、その被害救済を唱えて勇んで募金をする人もいるのだそうだ。そして募金箱に入った現金は、そのまま懐へ直行!ということもあるらしい。

「大丈夫です。この資料にあるように、私たちは公益財団法人で、きちんと財務諸表も公開しています。安心して下さい。」所長が公益財団法人近畿盲導犬協会と言っていた意味が分かった。そんな答えをしても、ごく小人数で募金をしていると、ましてや一人で募金をしているとそんな着服疑惑を招きやすいようだ。近盲では一時的であっても一人だけの時間は作らないように、極力常時合計2人以上、職員とボランティアさんで対応することにしている。

「五千円札しかないんだけど、おつり出ませんか?」

このような問いかけもある。募金箱に入った千円札は5枚以上はある。これを使えば両替なんて簡単にできる。しかし李下に冠を正さずというべきか、それはしないことにしている。要らぬ誤解を招く。そのかわり両替用に個人的に千円札を5枚持つように心がけている職員もいる。



■募金場所の選び方

高司駅前の募金をしてみて気づくことがあった。ここは比較的年齢層が高い街のように思えた。大きな街であるので活気もあるが、生活にゆとりが感じられる。またJRの改札を出たときには足早に歩いていても、この募金場所に近づくと次第に通行人の歩くペースは遅くなっているように思える。そしてこのショッピングビルで買い物をした人は、このビルが目的地であることがほとんどで、他のビルや店に急いで移動することはないようだ。買い物をする前、した後、募金をしているこの前を通る。だからまた一層ゆったりとした動きになっていて、盲導犬の募金に寄付できるのだろうと考えた。人通りが多い駅前であっても駅ごとに町の性格は違うだろう。また同じ駅前でも場所によっても募金の集まり方は違うことがよく分かってきた。

またシルクハット育英会はあまり募金を集めていないように見えたが、しっかりとパンフレットを配っていた。こちらはその場での募金ではなく、継続的な寄付をしてくれる会員を集めるのが目的だったのかもしれないことに後で気が付いた。



■SNS-新型コロナウィルスがもたらしたもの

「募金はしばらくの間、休まないわけにはいきませんでした。外出禁止になって、それが解除されても買い物や遠出どころではない時期があって。」と2020年、新型コロナが流行したときのことを思い返した福島さん。

「それで始まったのがクラウドファンディングです。鶴亀市のふるさと納税で盲導犬協会への寄付をして頂くプランはその前からありましたけど、ネットを使うのはまだできていなかったんです。」と広報担当の宮藤さん。「今まで募金や訪問といった直接の対面活動でしかできなかったから近畿という枠にとどまっていたんですけど、このおかげで全国の人たちと結び付きができるようになったの。」

「もう少し詳しく聞かせて下さい。」と自分。

さすがに真夏や真冬にはやらなかったということだが、ほぼ一年を通して街頭募金を行っていた。けれども年度末の追い込みに入りたい2020年3月ころから、つまり2020年4月に緊急事態宣言が出る前から街中では募金をする状況ではなくなっていた。企業の活動も緊急事態宣言で止まっている。募金箱を置いてくれている商店、飲食店は営業を大幅に縮小せざるを得なくなり、中には閉店、廃業に追い込まれる店も出て来た。一方でヒノキハウスにいる盲導犬の卵たちである訓練犬には訓練を実施し育成を続ける必要がある。訓練担当の職員は感染対策をしながら訓練を進める。パピーウォーカー(PW)さんには一歳になっても2~3カ月延長して預かってもらうこともできるが、かといっていつまでも預けていては訓練ができないまま学習に最も適した大切な時期を逃してしまう。訓練の出口である人と犬との共同訓練ができないため新規盲導犬としてのデビューが進まない。そんな中、もう一つの出口であるキャリアチェンジは進めなければならない。幸いコロナ禍のこの時期、一般社会では在宅勤務が増えた。おかげで、家庭犬になるキャリアチェンジ犬オーナーになりたいという希望者が増えた。しかし次第に沈静化し在宅勤務が減ってくると辞退者も増えて来た。

「もともとキャリアチェンジ犬を飼って頂くキャリアチェンジ犬オーナーさんの実際のお宅を訪問することはしていなかったから、募集方法や申込み手順を変えるとかの必要は無かったわ。マッチングした後に辞退されないようにきちんと説明していたおかげでトラブルも無かったの。」キャリアチェンジ犬担当の中川さんは明るく笑った。


話を募金に戻すと、街頭募金に変わる手段を見つけることが必要になった。そこでひねり出されたのがクラウドファンディング(CF)。CFは、2023年には国立科学博物館も実施し大きな話題になった。近盲がCFを始めた当時、日本ではベンチャー企業が何かを製作販売開始するときなどの資金調達で見かけた程度で、まだそれほど多くの団体で実施されては居なかった。しかし、もうすでに実施している盲導犬協会は他にもあった。幸いITの活用が広がる中、CFの仕組みやその運用を指導してくれる企業なども出てきていてその協力を得て短時間で開始することができたそうだ。

「須田さんはCFとか詳しいのと違いますか?」と福島さん。そう、自分は近盲の人たちよりもずっとIT業界に近いところにいるのだが、BtoB(企業間取引)のビジネスが中心で技術についても詳しいのは専門的な分野だけだ。CFの仕組みや実施の進めかたなど全く知らない。

「どうもCFは立ち上げるだけでなく、アクセスしてくれるフォロワーが重要なようですね。」福島さんから逆に教えてもらってしまった。利用可能なインターネットリソースを使って広く告知を繰り返し広げて行くことが必要だというのだった。CFの実施期間中に、より協力しやすい金額・お礼を設定もしたのだそうだ。そしてなんとか500万円という目標を約2ヶ月のCF期間で達成することができたのだという。近盲の人たち、頑張っている。


「今日のiGRAM、面白くできてたわね。」

「だいぶ、いいねを貰えました。」

「BirdYともうまく連動できているみたいね。」

盲導犬協会では、広報担当だけでなく、多くの職員がいろいろな人たちと接する。その時にコミュニケーション能力はとても重要。だから人前で話すなど、もともとSNSで必要とされる資質ベースをほぼ全員が持っていたようだ。そこでCFの実施と並行して、協会のホームページ以外のネット媒体、具体的には長めのビデオ投稿サイト(YourTool)、画像・短時間動画中心のサイト(iGRAM)、個人名でやり取りする交流サイト(FriendBook)、短文で意見を伝えるサイト(BirdY)などのSNSを活用することになった。育成・訓練担当の職員もこのSNS制作を分担することになった。分担すると自然に写真・動画の撮影や編集をし、文章も表現する文字数を考えて書くようになった。これは訓練を中心にしてきた職員にとって大きな刺激になり、多くの新しいことを覚えた。SNSの一つ一つはバラバラに行うところから始めたが、SNSの特性を知り効果的な配信順序を考え、一層分かりやすく見てインパクトのある記事を作れるようになった。

「見学会も配信していたのよ。でもリアルに戻し始めたの。」

コロナ禍前に実施していた見学会もコロナが蔓延し始めた当初は、ただひたすら中止するしかなかった。それがYourToolによるライブ配信に代わったおかげで、実際の対面方式では受け入れられない人数を受け入れたり、近盲のある関西から遠くに住む人の参加を期待できるようになった。またライブ配信した内容は、その後YourToolで配信できるようになるので、知らないうちに次第にビュー数が増えていく。時間を超えて協会を支える輪が広がっていくのを感じるようになった。




■交配 血統と犬の特性、凍結精液

「今日、オスの繁殖犬のガウスとテスラーが来る日ですね、佐渡さん。」

「ええ、ハウスにいる犬と比べて違いがあるのよ。よく見て下さいね。だめですよ、去勢してない、なんて言っちゃ。」

こちらが言いそうな冗談を察知したかのように、先手を打たれてしまった。さて2匹のオスの繁殖犬ガウスとテスラー。普段から見ているヒノキハウスの訓練犬はまだ2歳になっていないので、もう少し成長する可能性はあるが、それを差し引いて考えても、繁殖犬の2頭のオスは、少し身体が大きい気がする。そして顔や頭も大きく思える。それを口にすると、

「須田さん、正解。」

2頭とも去勢してないから、ヒノキハウスにいる他の犬と比べて、身体がちょっと大き目で、顔が横に張り出したようになっている。

「去勢するとホルモンバランスが変わって、身体も頭も少し小さくなるの。」

ということだった。

何日かするとガウスが居なくなっていた。役割を終えて繁殖犬ボランティアさんのところに戻っていったようだ。また何日かするとテスラーが居なくなっていた。テスラーは少し長くいたようだ。しかしテスラーも繁殖犬ボランティアさんの元へ帰ったようだ。また母犬となる繁殖犬のメス、ニーナとエイミーもそれぞれすでにボランティアさんの家庭へ戻っていった。


近盲では10頭の盲導犬を送りだすのが今年度の事業目標になっている。残念ながらどんなに頑張っても盲導犬候補のパピーとして生まれて来た中から最終的には3~4割しか盲導犬になれない。だから10頭の盲導犬を育成するためには25頭から35頭のパピーが必要になる。法令(「令和三年環境省令第七号」)ではメスの場合6歳までに6回の交配が認められている。しかし毎年交配・出産すると母犬の負担が大きくなり、母犬も、生まれてくる仔犬もその健康が損なわれてしまう可能性が上がる。このためメスの繁殖犬は3回を限度として交配が計画される。この近盲では15頭のメスの繁殖犬、オスは5頭の合計20頭の繁殖犬を保有している。母犬、父犬の組み合わせを考えながら、計画的に交配しているとのことだった。ただし母犬となる繁殖犬のヒート(発情期)は自然に任せている。

交配して2カ月強で出産になる。そして生れてきたパピーは2カ月間母犬と暮らした後、ボランティアであるPWさんのお宅で10ヶ月間生活する。交配から訓練が始まるまでに合計14ヶ月がかかることを見込んで準備をしなければならない。

当たり前だが去勢や避妊をしている犬では繁殖はできない。オスの場合は訓練を始める前、通常はまだPWさんの家庭にいるうちに去勢を行っている。オスで繁殖犬の候補になった場合はこの例外となり、去勢はせずに協会に戻ってくることになる。そして様子を見て盲導犬にするか、繁殖犬にするか、家庭に引き取られるかの判断が行われる。繁殖犬にならないと決まると去勢手術が行われることになる。メスの場合は普通PWさんのところではなく協会に戻ってきてから避妊手術をしている。オスと同様に繁殖犬にならない、つまり盲導犬か普通の家庭に譲渡されるキャリアチェンジ犬となる場合には避妊手術が実施されている。


谷野やとのさん、少し教えて下さい。」

谷野さんは繁殖担当の職員さんだ。

「ええ。どんなことですか?」

「協会の犬はとても穏やかな犬が多いと思うのですが、LRやGRでももっと活発な仔が結構いますよね。なぜ、みな穏やかなんでしょう。」

「まず、ぜんぶが全部、というわけではないですよね。須田さんもヒノキハウスで経験してると思いますが大きな声で吠える犬もいれば、すぐにはしゃいでしまう犬もいます。まあ平均的に見るとかなり『穏やか』な子達が多いですね。何が効いているんだと思いますか」

「協会としては、『血統』と募金でいつも説明しています。なのでこれが大切なのではないかと思います。」

「そう、その通り。近盲だけでなく、盲導犬を育成している団体、これは世界的になんだけど、繁殖犬を選ぶときには、これから生まれてくる仔犬達の性格が『穏やかに』なるように交配を考えます。これを考えないと、知っての通りLR、GRは鳥猟犬として作られてきた犬種なので、いくらおとなしいと言っても活発な活動をする犬が生まれます。協会で所有している繁殖犬の血統は、できるだけその活発な運動ではなく、すこしおっとりとした子達ができるように選んでいるんです。ただ、実はもっと複雑な考え方があって、おっとりした性格を強く求めるかどうかは盲導犬協会によって違いがありますね。まして盲導犬以外の目的があれば、たとえば活発であることが要望されるところでは、活発な血筋の犬が繁殖されるんでしょうね。室内でも移動が困難な人たち向けの介助犬って知ってますよね。郵便物や新聞を運ぶとかの、手足の代わりになってくれる犬たちがいます。盲導犬では難しいとの判断で介助犬協会に行った子がいますが、その子は介助犬としてとても活躍していると聞いています。仕事によって適性が違うという典型的な例ですね。」

「オス犬で穏やかな子を捜すのは大変なんじゃありませんか。今日もワンコ達はなぜか少し落ち着きがないように感じます。」

「須田さんは『穏やか』と表現しているけど、それだけじゃダメでしょ。他にもいろいろな資質が必要なんですよ。特に慎重にしているのが股関節の問題や視力です。これも遺伝に大きく影響を受けていることが分かっています。そういった良い資質を持ち選抜されたオスの繁殖犬は、精液を凍結保存して次の世代を作ることに使ったりもしてるんですよ。」

「精液の凍結保存ですか。そんなことまでされているんですか?すごい最先端なのではありませんか?」

「全然そんなことないんですよ。凍結保存は、牛などの家畜ではかなり前からよく行われていることなんです。日本では第二次大戦後、アメリカから技術が導入されたと聞きました。種付けのために牛をあちこち運ぶわけには行かないけど、試験管ならどこへでも割と簡単に運ぶことができるからって。ただ犬と違って牛、馬用の試験管はかなり大きいですけどね。盲導犬協会は近盲以外にもいくつも日本にあるけど、精液の凍結保存ができる協会は少なくて、凍結保存の技術を持っていない協会に代わって近盲で精液の凍結を行ったりもしています。道具があればできるというものではなくて、技術がいるんですよね。ほら、この間もテスラーが来てたでしょ。テスラーの精液は凍結されたの。精液を何回か取るために少し長くこちらに居たの。保存する側だけでなく、解凍して人工授精をするのも技術がいるんです。」

谷野さんの説明を聞いてかなり理解が深まった。しかし凍結された精液が当たり前のように使われていることは不思議でならなかった。

「谷野さん、何か不都合なことが起きたりしませんか?」

「不都合ではないけど、不思議な事態はありますよ、後から生まれた仔犬の父親が、とうの昔に亡くなっているなんてこともあるので。血統が影響することは、こんな凍結精液を使った場合によく感じますね。同じ父親を持つ子供たちは、育った環境や母犬が違っても同じようなしぐさ・反応をしたりするんです。例えば落ち葉を追いかけるとか、後ろ脚だけで立ち上がるとか。その姿を見るとタイムスリップしてしまうことがあります。」



■再びヒノキハウス

ヒノキハウスにいる盲導犬の卵たちは、多くの時間を犬室やケージの中で過ごす。できるだけ多くの時間を一緒に過ごしてやりたい、というのが職員の多くの願いではある。しかし決められた訓練士の人数で対応できる時間は限られている。このため、散歩、運動場での運動やブラッシングでコミュニケーションを取り、ストレスの発散につなげている。また季節によっては毛が生え変わる時期、換毛期がある。このときはブラッシングをしないと、犬室中が毛だらけになってしまう。また盲導犬になってからもこのブラッシングは必要で、しつけ、訓練の一つとも言える。


訓練中の盲導犬の卵たちのブラッシングは佐渡さんから教わった。

「ユーザーさんが、楽な姿勢でブラッシングできるようにしたいの。そして犬たちもリラックスしてブラッシングを受け入れるようにしてもらいたいの。ただ訓練犬になったばかりだと、ブラッシングをしようとすると遊んでくれると勘違いする仔もいる。だからはじめのうちはシットやダウンの状態ではなく、4本の脚で立っている状態から始めます。首輪はややきつめにして、これは遊びではないよ、ということをしっかり伝えることが大切。リードも短めに畳んで持った方がいいわ。そして興奮せずにおとなしくブラッシングをしてもらうと気持ちが良くて、ブラッシングしてもらうのを楽しみになるのが最初のゴールね。次第にユーザーさんが楽な姿勢にとれるように、犬もそれにあったいろいろな姿勢でリラックスできるようになるのが最終的なゴールです。」

全身をくまなくブラッシングする。それ自体はそれほど大変なことではないが、毛の量が多かったりすると長い時間にわたってブラッシングが必要になる。30分かけてブラッシングしても、まだ毛が抜けることもしばしばだと言う。

「佐渡さん、ブラッシング終りました。」

「気持ち良さそうにしてる。ブラッシングが楽しみになるというゴールに少し近づいたかな。人も犬の側も楽ないろいろな姿勢でブラッシングをできるようにしたいですね。この仔はヒノキハウスに戻って何日か経ってしまったので、ずいぶん毛が抜けたわね。じゃ最後は拭き上げましょう。この沐浴剤を薄めてタオルを絞って使って下さい。全身拭くので、まずは顔から。最後に脚とお尻を拭いてくださいね。」

LRとGRのブラッシングの手間を比較すると、GRの方が毛が長いのでブラッシングが大変に思えるが、実際にはLRの方が手間がかかることが多い。下毛の量が違うようだ。


シャンプーの仕方も佐渡さんから教わった。シャンプーの手順を堅苦しく書くと下準備→下洗い→本洗い→乾燥のような順序になる。下準備は主にブラッシング。下洗いは湯を使って汚れを落とし、水分を行き渡らせる。本洗いでシャンプー。そして意外なことに乾燥が一番重要な点だった。

シャンプーとは別に普段からブラッシングを行っているが、これをきちんとやっておかないと下毛が残り乾燥に長い時間がかかってしまう。手抜きは禁物だった。下洗いでは湯量を調整しながらシャワーヘッドからの湯が肌に届くように手でかき分けながら湯を当ててやる。湯温は32~3℃くらいというやや低めに設定する。温度を上げすぎると必要以上に皮脂を流してしまうので、それを避けるためだという。また頭部では湯量を減らして、目に湯が入らないように優しく洗ってやる。

いよいよシャンプー。使うシャンプーには通常のシャンプー以外にも、フケ用、炎症肌用などがある。これは自分では判断できない。基本の洗い方は、シャンプーを直接かけるのではなく、小型のバケツに入れて泡を十分に作って、作った泡をつけるようにして洗っていく方法を取っている。自分はそんな泡を立てて洗うということをしたことは無かったので、ネットを束ねたような泡立て用具があるのが珍しかった。泡をつけたらしばらくは放置。その後たっぷりと湯を使ってすすぎをする。すぐにすすいでシャンプーを流してしまっては十分に汚れが取れないのだそうだ。またたっぷりと湯を使うのは、薬剤や石鹸成分が残らないようにするためだ。肌を痛めて皮膚病にしてしまうと、盲導犬になったとしても扱いにくくなってしまう。

さて問題の乾燥。基本的にはタオルでできる限り拭き上げる。そしてドライヤーを使って水分を残さないように乾燥させる。湿り気があると皮膚のトラブルが起きる可能性が高まってしまうのできれいに乾燥させることが必要なのだが、一方でドライヤーを嫌がる子も多くいる。タオルで拭かれるのも嫌で座りこんでしまう子もいる。それをなだめながら、おだてながら乾燥させていく。時間がかかるときは、この拭き上げと乾燥だけで60分以上かかることがある。ブラッシングから数えると自分が行うと150分近くになることもある。それほど時間がかかるので、普段訓練士はあまりシャンプーをすることはなく、多くの場合、ヒノキハウスでの作業を手伝ってくれているボランティアの方々にお願いしている。話を聞くとどうも自分よりも短時間で乾燥までできるようだ。ボランティアの東山さんに聞くと、シャワー室にあるエアコンの使い方でも乾燥度合が変わってくるとのことだった。湿度が低い方が乾燥が早いということは当たり前のことなのだが、全く気が付かなかった。またドライヤーは、人間用の大風量タイプのドライヤーに加えて、ペットショップで使われているような大型のドライヤーを併用している。これはブロワーから掃除機のようなホースがついたものだ。この2つはその調整可能な風量の範囲も温度設定も違うが、犬にとっては音の大きさと高さが違って感じられるように思える。このあたりの使い分けも違うのだろうと思える。

「温風で乾かすときには、ブラシや櫛をうまく使った方が早いわよ」

東山さん、助言ありがとうございます。短髪の自分は気にしていなかったけど、毛が絡まった状態でドライヤーの風を当ててもなかなか水分は飛んでくれない。経験者からの情報は貴重だった。

ちなみにシャンプーの前後にはトイレをさせておく。先ほど150分と書いたが、これは犬にとって結構長い時間だ。

はい、ワンツー。



■月次報告(12月)

第3回報告

御手洗社長

12月の報告を送ります。

<実施項目>

・募金(高司駅)

・交配の調査

・ヒノキハウス作業支援

・SNS利用実態の把握

<次月予定>

・訓練見学(構内、市街)

・訓練方法の把握

<所感>

募金についていろいろと確認しました。単に通行量が多いところが良いのではなく、近盲の場合は足を止めて貰える場所で募金をするのが良いことがわかりました。また新型コロナウィルスの影響で始めたSNS利用が次第に大きな役割を占めるようになり、複数のSNS連動で効果を高めることができているようです。B2Bとは大きく違っていること実感しました。


須田


返信:第3回報告

須田さん

交配のレポートありがとう。返信しておらずすみません。SNSの連動についてももう少し具体的に報告をお願いします。B2Cをやろうとしているわけではないけど、何かビジネスにヒントになるものはないかな。


御手洗


(※B2B(BtoB) ビジネスからビジネスへ。企業間取引。B2C ビジネスからコンシューマ(消費者)へ。製品・サービスを企業が消費者に提供すること。)

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