表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

11月

11月の内容

■募金活動

■募金の帰り道

■全国の盲導犬協会と総合盲導犬協会

■引退式と…

■月次報告(11月)

■募金活動

「こんにちは、福島です。」

福島さんはそう言ってさらに言葉を続けた。

「所長から聞いたはりますか?明日の土曜日、募金にいくことになってます。」

「はい、聞いてました。街頭募金ですね。たしか味菜あじさいの里だと聞きました。」

『あじさいの里』は近畿盲導犬協会の近くを通る高速道路のサービスエリアのようなところと聞いていた。

「それやったら、話は早いわ。ここを9時に出ますので、それまでに来てください。」

「何か準備があれば言ってください。」

「ほんなら、今日の4時半ごろ事務室に来てください。荷物の積み込みをしましょ。」

街頭募金は前からやってみたいと思っていたことだった。ただどれだけの金額が募金として集まるのか、疑問でもあり不安だった。

4時半に福島さんのところへ行って、荷物の積み込みをした。協会の車で軽のワンボックス。折り畳み式のテーブル、旗竿(正確には『のぼり用ポール』)、募金箱は大小取り交ぜて5個。配布用のパンフレットと小さなカード。その他小物。同行犬に着せる服。荷物を運ぶための台車。

「はい、お疲れさんでした。明日はよろしく。」

思ったよりも荷物は少ない。

「では明日よろしくお願いします。」


翌日9時少し前に協会に行く。土曜日だが、ヒノキハウスからはすでに訓練士の声が響いている。生きものが相手なので、土日も誰かが当番で来る必要があるのだ。事務棟には福島さんが来ていた。そして他の職員さんも来ていた。広報担当の宮藤さんだ。

「ほな、行きましょか」

そう言って福島さんは、PR犬のメロディを軽自動車の貨物室に乗せた。メロディはイエローのラブラドール・レトリーバーだ。手慣れたものだ。

ドアを確認しエンジンをかける。

「すんませんね、ちょっと忘れ物。というかアルコールのチェックをして台帳に記入してきますので、ちょっと待っててください。」

盲導犬協会の職員は車で移動することがほとんどだ。犬を連れて行くことが多いためだと思っている。当然ながら飲酒運転予防策として法律で義務付けられた基準以上にきちんと対応している。

MobilityWorksでは社用車の運用は無かったので、盲導犬協会の運用は物珍しかった。


車が動きだす。

「所長は直行です。」

「山形さんも今日募金に行くのですか?所長さんも街頭に立つのですか?」

「はい。たまたまいくつかイベントが重なって、所長にも手伝って貰わないと回らなくなったんです。さっき宮藤さん居てはったでしょ。あちらのイベントが急に入ってきたんですわ。須田さんが居てくれてホントに助かりました。所長はヴィオラを連れてくることになっています。」

ヴィオラは確かヒノキハウスにいる20頭の中で訓練が進んでいる仔だった。仔と言ってももう間もなく2歳。そろそろ盲導犬として実際のユーザー(盲導犬をパートナーとして歩行をしている人)のところで歩き始める時期らしい。こちらは黒ラブ。

小一時間で現地に着く。台車で荷物を運び、のぼりを立て、折り畳みテーブルを開く。その上に募金箱を置く。テーブル横にメロディ用のマットと毛布を敷き、メロディを座らせる。その準備をしている最中から「募金できますか」と声がかかる。その声の方を見ると70歳くらいの男性。福島さんは当然のようにこう返す。

「ありがとうございます。こちらの募金箱にお願いします。こちらお礼のカードです。」

いつの間にか昨日準備していた『カード』を手にしている…。そしてメロディに服を着せた。ヴィオラが合流した。こうして募金初日が始まった。


100円玉、50円玉、10円玉。はじめは小額硬貨がほとんどだった。金額が多い、少ないは問わない、寄付して下さること自体がとても有難いことだ。自分も街頭募金でそんなに多くの金額を寄付したことはない。いや、そもそも街頭募金で寄付そのものをしたことがほとんどなかった。寄付した経験としては東日本大震災の時の赤十字への寄付くらいか。郵便局へ行って振り込んだ。その翌年、初めて「寄付金控除」なるものを知った。その程度の関心度だったので今日はいくらくらい集まるのか不安だった。しかしその懸念はすぐに払拭された。

「ま、かわいい」「頑張ってるね」「かしこいねー」

皆が声をかけてくれる、メロディとヴィオラに対してだ。

「なんで、私に言うてくれへんのかな」

福島さんがぼそっと言う。もちろん冗談。

盲導犬に対する信頼感は絶大だ。500円硬貨も入るようになった。募金が集まり始めたある時、千円札を入れてくれる人が現れた。一枚お札が入ると、硬貨だけでなく紙幣も集まり始めた。ここに来る前は募金で街頭に立つよりも何か別の収入を得る方法もあるのではないかとも考えていた。お金を集めるだけでなく、直接盲導犬のことを知ってもらえるという点で街頭募金は重要な役割を果たしているのだと思うようにしていたが、実際に集まる募金も盲導犬協会にとって重要な柱になっていることが分かった。

ここ「あじさいの里」は高速道路のサービスエリアにある施設だが、この施設の店舗、レストランには高速道路の上下線どちらからでもアクセスできる構造になっている。行楽に行く車は午前中に、旅先から帰って来る車は午後に、この施設に立ち寄っていくようだ。このため募金をしていても人が途切れることがほとんどない。また近くの一般道からもこの施設にはアクセスできる。そしてドッグランも併設されている。そのドッグランのおかげで犬好きの人が大勢立ち寄っていく。盲導犬の募金をするにはとても良い場所のようだ。


募金をしているといろいろなことを尋ねられる。

「年は?」「なんという種類?」「名前は?」といった質問から、「お手はしないの」「寿命が短いんだって?」「疲れているの?」「触ってもいいですか?」と言った質問も来る。それらに丁寧に答えていく。中には誤解もある。

年齢。年齢について答えるのは問題ないが、知られていないことが多い。そもそもラブラドール、ゴールデンといった大型犬の平均寿命は12歳とか13歳とか言われている(※Webでは次のような式も提示されている。 【人間の年齢=12 +(大型犬の年齢-1)×7】【人間の年齢=24+(小型犬の年齢-2)×4】、最新研究では人間の年齢 = 16 × ln(犬の年齢)+31) lnは自然対数。)そして近畿盲導犬協会では、そして他の協会でも10歳くらいには引退することになっている。盲導犬だと早くても2歳から遅くても3歳くらいにはデビューする。だから実働期間は7~8年。PR犬の多くは盲導犬としての訓練が進んでいく中で決まる。人が好きで、人の多い場所が得意な犬が適している。そしてPR犬の引退は7歳と近畿盲導犬協会では決めている。もちろん自分もこの協会に来るまでは知らなかったので、今は偉そうに言っているが一般の人は当然知っているわけがない。早めに引退することで、家庭犬として長く過ごすことができるようになるそうだ。

種類。ラブ(ラブラドール・レトリーバー LR)かゴールデン(ゴールデン・レトリーバー GR)がほとんど。ただしLRとGRを交配させて誕生する犬もいる。F1と呼んでいる。警察犬と勘違いしてジャーマン・シェパードが盲導犬だと思っている人もいる。また保護犬などから盲導犬になる場合があると思っている人がいるようだ。実際には、盲導犬は盲導犬協会で管理された中での繁殖・交配が行われ、そして生まれて来た犬だけが盲導犬になっている。温厚な性格、人との関係づくり、大きさなども重要で、今は世界的にLR、GRが主流になったとのこと。

名前。PR犬の場合、名前を伝えることができる。ヴィオラのような訓練中の犬だったり、今回は来ていなかったがユーザーさんが連れてくる現役盲導犬では名前は言わないことになっている。それは犬の名前がユーザーさんの個人情報につながるからだ。今はSNSなどで探索され、あっという間に身元が判明してしまう。それは避けたいこと。写真もPR犬はOKだが現役盲導犬ではNGのことが多い。

「お手。」PR犬などにいきなりこう話しかけてくれる方もいる。

「お手はしないんですよ。」芸は盲導犬協会では教えていない。「盲導犬に『お手』は必要ないので。」と説明するとたいていの人はすぐに理解してくれる。なお『お座り』も理解しない。しつこいかもしれないけれど、コマンド(指示)は英語の単語を使って教えているので『シット』と言う必要がある。

寿命。盲導犬は家庭犬よりも寿命が長いという研究結果も発表されている。一般的にはLR、GRでは寿命が12~13歳とされているので 引退した後は2~3年、しかし実際にはもっと長生きしているケースがほとんどだと佐渡さんが言っていた。長生きして17歳を超えた引退犬が協会に遊びに来るのも日常だ。盲導犬の仕事はとても厳しく、緊張が続く仕事だと思われているが、実はそうではない。自分も最初はそうだと思っていた。彼らの仕事はユーザーさんが移動する時だけである。この時はハーネスと呼ぶ少しがっちりした胴輪と持ちハンドルが一体化した器具を着ける。家庭犬でもハーネスは普及しているが、盲導犬用ハーネスはハンドルがついているのが特徴だ。その他の時間は基本的に待つのが仕事だ。待っている時はハーネスを外してユーザーさんの足元で伏せの状態か、少しリラックスして横になっている。この状態が一番多い。なので、緊張を続けて仕事をしているわけではないんです、盲導犬協会の職員はそのように回答している。

「疲れているの?」

そんなリラックス状態なので募金の最中に横になっているのは疲れているからというわけではない。

『仕事中の盲導犬には触らないで下さい。』そんな言葉が広まってくれている。盲導犬の移動中は重要な仕事中の時間です。だからこの時、つまりハーネスをつけている時、頭や身体に触ることは絶対にやめて欲しい。ハーネスのない時、これは休み時間、またはそれに近い時間なので、ユーザーさんが認めてくれれば触ることもできる。募金の時、PR犬やボランティアさんが連れてきた引退犬やキャリアチェンジ犬に触れることは、だいたいの場合問題はない。だが現役盲導犬の場合は許可のない限り触れないようにして欲しい。しつこいが、個人情報にもつながるので写真も控えて欲しい。


募金を始めてほぼ5時間、福島さんは片付けを始めた。5時間は短い時間ではない。しかし思ったほど長い時間ではなかった。募金箱には少なくない金額が入っている。



■募金の帰り道

メロディは静かに寝ている。

「街頭募金と伺ったので、もっと街中でするのだと最初思っていました。」というと福島さんは

「ここの施設では最近募金をするようになったんですわ。それまでは京都市内の百貨店の前のような繁華街ですることが多かったんですけど。犬たちも窮屈そうだったり募金して下さる人とじっくりお話もできなくて、こっちの方がええんとちゃうか、ということで、スペースに余裕があるあじさいの里ですることが多くなりました。ここまで来るのは協会のある鶴亀市からでも小一時間かかるし、多くのボランティアさんが住んではるところからもちょっと遠いんです。百貨店前の募金には来てくれはるボランティアさんも、ここやとなかなか来られへんのです。」

「そうなんですか。ボランティアさんに手伝って貰えないのはもったいないですね。こういった募金ほどボランティアさんに活躍してもらいたいところですよね。ところで福島さん、募金を呼びかけるときに『盲導犬の育成は皆さまの善意によって支えられています』と言っていましたが、もう少し教えてもらえませんか。あと所長は単に近畿盲導犬協会と言わずに『公益財団法人』近畿盲導犬協会とおっしゃっていたようですが、なんでこんなにフルネームで言うんでしょうね。」

「須田さんはご存じない?近盲の協会としての収入のほぼ90%は、会費と寄付・募金です。コロナの影響で街頭募金ができない期間がありましたけど、これは協会としては大問題でした。協会のホームページに詳しい数字が載っているので、見といてください。」

「そういえば春ごろの新着記事で、会計報告みたいなものが載っていたのを思い出しました。よく読むようにしておきます。所長の『公益』の方はどうですか。」

「盲導犬協会と名乗っても『怪しい団体と違うんか』という方もいてはって、フルネームといいますか正式名称である公益財団法人近畿盲導犬協会と言うことにしてはるようです。」

そう、Webサイトにはいろいろな記事が掲載されていた。しかし財務情報までは見ていなかった。盲導犬協会のことや近盲全部のことを話せるようになるのは大変だ。まだまだ覚えなければならないことがたくさんあるんだと思った。そして、口にでたのは

「次は街中の募金に自分を加えてください。」



■全国の盲導犬協会と総合盲導犬協会

公共宣伝センターという団体の支援で盲導犬のCMがテレビやラジオで流れている。どこの盲導犬協会のことなのかなと思ったら、それは総合盲導犬協会のCMだった。総合盲導犬協会は日本で最も歴史があり組織的にも大きな盲導犬協会だ。日本には認定NPO法人として全日本盲導犬施設連合会があり、国家公安委員会が指定した盲導犬育成の団体11の中の8つの法人が加盟している。8つの法人の中には公益財団法人や社会福祉法人の盲導犬協会、視覚障害の人の総合施設として『社会福祉法人光の家』などがある。

それぞれの法人同士や厚生労働省の中では近畿盲導犬協会は「近盲」と呼ばれていたが、同じように総合盲導犬協会は「総盲」と呼ばれていた。総盲は大きな人口を抱える首都圏に地盤を持つ。このため事業規模は大きく、また地域名を含まない「総合」という名前のため、盲導犬協会というとこの「総盲」が全国的に取りまとめをしているような印象を受ける。その結果として大企業の寄付金の多くは総盲へ行ってしまっている。盲導犬を育てている社会福祉法人や公益財団法人はその財務から盲導犬の育成計画まで開示しなければならない。それらの資料から、それぞれの団体により財政の違いがあることがよく分かった。例えば総盲と近盲の財政規模は8倍近く違っていた。決算報告を見ると、経常収益の中で大きな割合を占めているのは「会費」「補助金」「事業収入」「寄付金(受取寄付金)」だ。「会費」は個人、法人などからの賛助会費。「補助金」は民間や地方公共団体からの補助だったり助成金だったりする。「事業収入」は貸与収入・育成委託収入だ。経常収益に占める割合は、総盲は会費が20%、寄付金は70%。近盲は会費が10%、寄付金が80%。近盲では寄付金が頑張っている。いずれも補助金の割合は低い。確かに、福島さんが言うように90%は会費・寄付であり「盲導犬の育成は皆さんの善意に支えられています」だった。

それにしても総盲と近盲の収入金額差は大きい。より多くの盲導犬を育成するためには、募金活動を始めとして、いろいろと知恵を絞って協会の財政を支えていかなければならないようだ。今でも総盲が世に送り出す盲導犬の数に対して近盲は約1/4の頭数を毎年送り出している。財政規模が8倍近く違うことを考えると非常に効率的に思える。



■引退式と…

「須田さん、明日は引退式があります。出てくださいね。」

帰り際に佐渡さんから声がかかった。そういえば引退式がどうのこうの、という会話を聞いていた。

「何か準備がいりますか。」

「明日は普通通り来てください。少し机を並べたりすることがありますが、普通通りで構いません」

引退式は文字通り盲導犬が引退するその日だ。次の盲導犬が決まるまでどうするのかな、などと思っていた。

翌朝いつものように盲導犬協会に出勤する。初日に自分を紹介してくれた全員が入れる広い会議室のようなところへ佐渡さんに連れていかれた。

「この図のように椅子とテーブルを配置してください。」

佐渡さんから渡されたレイアウト図のように椅子を並べ直した。

「佐渡さん、並べ終わりました。今日はジョイ君の引退式でしたね。」

昨日チェックしておいた今日引退する盲導犬の名前を挙げる。

「そう。ジョイはほんとに頑張ってくれました。今月誕生日が来て10歳になりました。今日はユーザーさんにとってもジョイにとっても大きな変化の日なんです。」

「前から聞いていましたが、10歳になるとほんとに引退なんですね。」

「能力的な面から言うと、人間で言えばおおよそ60から70歳といったところかしら。個体差があることを考えると10歳になったらみんな一律に引退させるのも変なのかもしれないんですけど。でもどこかで区切りをつけないといけないから。近盲(近畿盲導犬協会)では10歳になったら引退させることになっているんです。ほかの協会でもだいたい同じ。ユーザーさんによって思い入れの差はあるけど、つい、もっと長く一緒に居たい、まだ大丈夫と考えてしまうと、ユーザーさんも盲導犬も危険な状態になるかもしれないから…。わかりますよね。」

ホワイトボードに書かれた引退式の式次第は、盲導犬の功績、所長の挨拶、職員からのメッセージ、ユーザーメッセージ、(協会・引退犬担当者への)リードリレー、司会からのメッセージ。司会の江田さんが明るい声で式を始める。

「それではただいまより増田ジョイの引退式を始めます。はじめにジョイの功績、今までの活躍についてご説明いたします。ジョイは2014年11月10日生まれで約一週間ほど前に10歳になりました。繁殖ボランティアのもとから2カ月経った2015年1月12日に協会に戻ってきて、その後すぐにパピーウォーカー(PW)をして下さった方のところで1歳になるまで育てられ、2015年11月12日に協会に戻ってきました。協会では約1年間、盲導犬になるための訓練を行い2016年11月5日から増田さんとの共同訓練が始まりました。増田さんにとってジョイは2頭目の盲導犬でしたので共同訓練は約2週間で終了しました。近畿盲導犬協会で行っている共同訓練後の歩行試験に優秀な成績で合格し新しいユニットとして認められることになりました。2016年11月20日に出発式を行い増田さんに貸与されました。そして本日2024年11月14日まで約8年間、増田さんと一緒に通勤し、増田さんの趣味である乗り鉄にも同行していろいろな所を旅してきたと伺っております。無事に8年間の旅を終え本日引退式を迎える運びとなりました。それでは当協会の所長よりご挨拶をさせて頂きます。」


「おはようございます。増田さん、8年間にわたり近畿盲導犬協会の盲導犬ジョイと生活をともにして頂きありがとうございました。増田さんが愛情をたっぷり注いで飼育して頂けたおかげで、大きな病気も怪我もなく、無事リードを引き継がせていただけたこと心より御礼申し上げます。」

「所長ありがとうございました。続いて職員を代表して、歩行指導員の浅香より一言。」

「浅香です。ジョイは私が協会で初めて担当した訓練犬です。当時私はまだ盲導犬訓練士になったばかりで、意気込み過ぎもありまして半分アップアップになっていました。このため私の緊張が伝わったのか、ジョイも少しナーバスになっていたような気がします。しかしジョイは持ち前のおおらかさで私よりも落ち着きを取り戻すのは早かったように思います…。逆に私はジョイのおかげで落ち着きを取り戻せたかもしれません。ジョイが増田さんとユニットを組んで出発式を迎えた時には…。どうも増田さん、ありがとうございました。」

引退式はここまで少し硬い空気で進んできていたのだが、浅香さんの言葉で場が少しなごんだように思えた。

「では、増田さん、ユーザーからのメッセージとして一言お願いします。」

「はい、増田です。8年間暖かい眼で見守りいろいろと教えてくれた職員の皆さん、本当にありがとうございました。私にとってのジョイは、2頭めの盲導犬ということもあり、1頭めの犬との比較になってしまうことが多くありました。ある時それに気が付き、比較するのではなく、1頭めでは出来なかったことをジョイと一緒に体験してみようと考えました。それが乗り鉄です。こういう時に一人旅は気楽ですが、ツレが居るのはまた楽しいものです。しかもジョイは無賃乗車なのに皆から誉められます。」

おっと、思わず少し笑ってしまった。増田さんのペースに乗せられそうになった。

「乗り鉄は、初めて乗る路線が楽しみです。ですから、東海道とか山陰とか、なんとか本線というところを乗りつくすと次第にローカル線に乗るようになりました。ご存じのように駅は、特にもうすぐ廃線になるかもしれない地方の小さな駅は整備が後回しになりホームは十分に手入れが出来ていないところがあります。今から2年くらい前、一日2本しか、それも上り下りで1本ずつしか止まらない駅で一度下車、乗る方向を変えてもと来た駅に戻ろうとした時に問題は起きました。そんな駅だから無人駅です。それは覚悟していました。ですから本当は援助依頼をJRに出して対応をお願いするべきでしたが、単線なので簡単に乗り換えができると思っていました。島型のホームで上り下りが異なる番線に停車するため、ホームの島の反対側へ移動する必要はありました。あいにくその日は整備工事とかでフェンスがホームの真ん中に立てられていたんです。実際に走っている列車は1両編成ですが、上りの1番線、下りの2番線が50メートル以上も完全にさえぎられてたのです。その日その駅に止まる列車は1本しか来ないので時間の余裕があったのですが、乗り換えできないと戻れないという恐怖の中、どうしようかと困ってしまいました。いろいろと考えた挙句とにかくこれから乗る側の進行方向反対側、つまり後方側へ行って待つことにしました。狭いホームにいくつもある障害物もうまく避けてジョイは誘導してくれました。その後少しして列車が到着しました。車掌がいない運転士だけのワンマン運転だったため、こちらに気づいてくれなければ乗車できず一晩明かさないといけなくなるところでした。運転士の方がジョイと私の白杖を見つけてくれて無事に乗車して戻ることができました。ジョイがいたおかげではっきりと自分を認識してくれたのだと思いました。今思い返すととてもスリリングで、ジョイに感謝したのはいうまでもありません。」

増田さん、話しているうちにちょっと言葉に詰まったり、首の辺りに手をやったりするようになって来た。その姿を見て、先ほどとは別の感情が自分に湧き上がってくるのが分かった。

「青春18きっぷで乗り鉄をしていましたが、それを誰かに話すとその度にジョイが自分の方が安いと首を上げて見渡す気配を感じました。」

増田さん、最後までとぼけて話をしてくれたが、言葉に詰まってはだめですよ。冗談に笑いながらも涙腺が緩んでしまいます。

少し間をおいて江田さんが話し始めた。

「増田さん、思い出をお話いただきありがとうございました。ジョイはこれから一度ヒノキハウスに戻ったあと、引退犬ボランティアさんの家庭で生活することになります。ここで協会で引退犬を担当しております中川が引き取らせて頂きます。」

増田さんが傍らに座るジョイからハーネスを外す。中川さんは増田さんに

「8年間ありがとうございました。」

と声をかけて、ジョイのリードを持ってヒノキハウスの方へ連れて行く。ジョイは一瞬中川さんの方を見たように思えたのだけど、中川さんのリードの持ち方は鮮やかでそれが前から当然だったかのように全くたじろぐことなく歩いて行った。それが分かったのか、増田さんは少し寂しそうだった。

「...」

「以上で引退式を終ります。」

引退式が終ったが誰も席を立とうとしない。自分も少し腰を上げかけたが様子を見ようと腰を降ろした。

  **

「それでは引き続き共同訓練開始式を始めます」

『え、聞いてないよ。何が起きたの』

式次第が書いてあったホワイトボードを裏返すと別の式次第が現れた。共同訓練開始式と書いてある。式次第として共同訓練日程、所長挨拶、訓練士挨拶、盲導犬の紹介、職員メッセージ、ユーザー抱負といった内容が書いてある。そのまま座って開始式に参加することにした。

「それでは最初に今回の共同訓練を担当する島田から日程の説明を行います。」

「歩行指導員の島田です。増田さんは3頭目なのでよくご存じだと思いますが、訓練期間は2週間を予定しています。今回も、ここ近畿盲導犬協会の施設に宿泊していただくことになっています。訓練終了の最終日、今までは歩行の試験を行っていましたが、今回はありません。その代わり日々の訓練結果などから総合的に判断を行います。予定通りに進むと11月20日に出発式を行うことになります。」

これまでに盲導犬を使うための訓練として共同訓練というものがあることは聞いてきていたのだけれど、頭の中の知識でしか無かった。初めて貸与を受ける場合は4週間の共同訓練を行い、2頭目以降の代替貸与を受ける場合は2週間の共同訓練を受けることは知っていた。改めてこの場に臨んで、2週間、4週間という重みを感じることになった。

「次に所長より挨拶をさせて頂きます。」

「…」

所長には申し訳ないのだけれど長かったので省略。


「再度、島田です。訓練期間はカリキュラムとして2週間を予定していますが、内容的にはもっと早く進むのではないかと思います。ですからその分、より多くの場面を想定した歩行訓練を組み込みたいと思っています。鉄道駅については特に念入りに行いましょう。またよく理解していただいているかと思いますが、ぜひ、コミュニケーションを多くとって頂いてこの訓練期間中にパートナーとしての絆を強めて頂きたいと思っております。」


「それでは新しいパートナー、盲導犬の紹介を行います。」

「新しいパートナーとなる犬は、2022年9月6日生まれです。PWのボランティアのところでは2022年11月10日から預かっていただき2023年9月10日に協会に戻ってきました。2024年10月10日に訓練評価2に合格して、本日の開始式に至っています。すでに一度、マッチングのためのトライアルで、二日間ご自宅でどのような犬かを確認していただいていますので、だいぶご理解いただけているかと思います。増田さんが今まで一緒に歩いてきたジョイに似た子です。大きさ、歩き方、前向きで素直なところがジョイに良く似ています。」


「島田さん、ありがとうございました。それでは職員からメッセージをお願いします。」

島田さんに向けて順番に職員から、新規の盲導犬の話がされる。引退式ではメッセージが代表者からだけであったのに、ここでは参加者全員がメッセージを送ることになっているようだった。

「PWさんから帰って来た直後は、しばらく呆然としていました。その後PWの家に戻ることができないと分かってきて、大きな声で吠えることがありました。ああ、この子は向いていないかなと思っていたところ、訓練を始めると途端に評価が変わりました。人と一緒に共同作業をすることが好きなようで、どんどんと吸収してくれます。ジョイの時と同じように歩けるのもすぐだと思います。」

「雨の中を歩くのも好きです。レインコートを着せると何か楽しいことがあるかのように早く外に出たがります。手入れが大変ですが、しっかりと面倒を見てやってください。」

おっと次第に自分の席の方に順番が回って来た。この場でメッセージを贈るなんてつもりは無かったので、そもそも今日が開始式だとすら知らなかったので、司会者へさかんに視線を送った。分かっていると思えるのに、にこりとして平然としている。再度『無理無理無理。パスですよ!』と目くばせをするが表情は変わらず、そして

「では須田さん、お願いします。」

おいおい。しかし仕方がない。腹をくくりましょう。

「サリーは私がここに来る前から訓練を受けていて、私にとっては先輩になります。訓練も終盤に差し掛かっており、何度か散歩をしましたが、気持ちよくスイスイと歩いてくれました。よい盲導犬とはこういうものなのだなと感じました。」

のどがカラカラになった。


「ユーザーとなる増田さんから一言お願いします。」

「新しい盲導犬の貸与を考慮して頂きほんとうにありがとうございます。目の役割を果たしてくれる盲導犬は自分にとって今はもうなくてはならない存在です。皆さんがたっぷり注いでくれた愛情で育まれた盲導犬を深く知り、風を切り街歩きができるようになるようがんばります。そして早くまた乗り鉄に復帰したいと考えています。」


「以上で増田サリーの開始式を終ります。」

『増田サリー』という呼び方を聞いて今まで緊張していた増田さんの口元が少しゆるんだように見えた。


「佐渡さん、びっくりしました。共同訓練開始式がすぐに続いているとは知りませんでした。」

「言ってなかったっけ。分かってると思ってました。ごめんなさい。島田さんがサリーのこと何か言ってませんでした?」

「そろそろ共同訓練が始まる、と言ってました。共同訓練は明日から始まるって言ってたんで、開始式は明日だと思っていました。それも別の人の開始式だと思っていました。」

「ユーザーさんによっては、引退式も開始式もしてほしくない、って言う人がいるの。心の切り替えって難しいから。でも切り替えるために式をしましょう、と言う人の方が多いかな。増田さんは引退式で少し涙声だったけど、この二つの式で気持ちを切り替えようと言うタイプね。そんなこともあって、続けて式を行う方がいいという考えで引退式と開始式は中に休憩時間なども入れずに一気に続けて済ませてしまうの。」

「しつこいですがサリーのユーザーになる人が増田さんだと思ってなかったんです。別の人なんだと思っていました。」

「盲導犬を使っていた人は、『盲導犬は引退しました。しばらく白杖の生活に戻って下さい』って言われても困るでしょう。だから間を置かずに次の盲導犬を貸与することにしているの。」

確かにその通り。

「ただ、続けて2つの式をした方が効率的、という意味もあるんですよ、本当は。もう一度人も集まる必要があるし、会場のセッティングもあるし、別の日に行うのももったいないものね。」

「増田さん、スッキリとジョイからサリーへ移れるものなんですか。」

「歩行だけでなく生活や性格という面からもできるだけジョイに似た子を割り当てたいと考えていたの。そしてジョイに似ているサリーを選んだの。引退は分かっているから次はどの子にしようといつも考えているけど、年間10頭足らずしか育成ができないので、どこまで似ているかというと難しいですね。また共同訓練で説明することとは違ってしまうけど、二人、増田さんとジョイの間でしか分からない間合いみたいなものが自然にできてたりするの。今のサリーだとその間合いが分からないから、ちょっとした違和感を感じて喪失感になる可能性もあると思う。それで、そんなショックを小さくするため、ジョイが8歳になる頃から引退を意識してもらうようにしてきたの、これはどのユーザーさんにもすることなんだけど。」

盲導犬は毎年健康診断を受けている。その検査は普通はユーザーさんが獣医さんに見てもらうだけで協会職員が立ち会うことはない。それが8歳、9歳になると、職員も一緒に獣医さんのところに行って検査の結果を聞くことになるのだそうだ。大型犬の一年間は人間に換算すると7年に相当すると言われている。この1年間の変化の大きさを、職員が立ち会うことでユーザーさんはさらに感じるらしい。そして引退する10歳という年齢を意識するようになるのだろうと、思った。

「それに増田さん、ジョイは2頭めのパートナーなので初めての時とはだいぶ違うでしょう。きっと早くサリーを新しいパートナーに仕上げてくれると思うわ。」

自動車教習所で運転を覚えても、免許をとったばかりは初心者。実際に道路を走ることで走り方は上手になる。ベテランユーザーである増田さんが鍛えてくれることで、サリーの盲導犬としての成長が進むということのようだ。



■月次報告(11月)

第2回報告

御手洗社長

11月の報告をいたします。


<実施項目>

・募金活動(高速道SA)

・引退式および共同訓練開始式(参加)

・関連団体調査(盲導犬施設連合会など)

<次月予定>

・募金活動(駅頭)

・広報活動の理解

・交配

<所感>

募金活動に関連して協会の財政について確認しました。比較として他の盲導犬協会などについてもその収支項目の調査をし、募金の位置づけを認識しました。引退式および共同訓練開始式への出席により、ユーザーの方々との結びつきを強く感じました。


須田


返信:第2回報告


須田さん

報告ありがとう。ちょっと教えて欲しいのだけど、盲導犬とそのユーザーの方はどのように意思疎通をしているのでしょうか。ユーザーの方から、盲導犬と生活するようになり生活の時間・質がどのように異なって来たのかも含めてできるだけ説明してもらって下さい。

御手洗

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ