真夜中のヒルガオ 9
木陰のベンチとはいえ、酷く蒸し暑かった。僅かばかりの風が、汗をかいた首筋を気休め程度に撫でている。 煙草をくわえて火を点けると、鈴木はビジネスバッグ――この日は打ちっぱなしに行くと行って家を出てきたので、ついでにバックも持ってきていた――、
梨花のことで、のっぴきならない情報を掴んだので、ぜひとも事務所へと電話が来たのは、この日のお昼近くのことだった。
ハーフパンツにTシャツという格好から、ポロシャツにスラックスという格好に着替えてダイニングに来ると、冷やし中華を作っていた菜々子が驚いた。
「どうしたのよ、あなた、着替えたりなんかして?」
「ああ、ちょっと出掛けてくる」
「何しによ?」
「ああ、ちょっと加藤とな」
「こんな昼間から飲みに行くって訳なの?」
「そうじゃないよ。加藤と」
「加藤さんとなんなのよ」
「打ちっぱなしだよ、打ちっぱなし」
「打ちっぱなしって何よ」
「そりゃ、ゴルフに決まってるだろ……」
「なんですって?」
「……」
「ねえ」
「俺だけ出かけちゃおかしいのかよ」
「なんですって?」
「だから、俺だけ」
「俺だけ出掛けちゃおかしいのか、なんて、まあ、あなただって、たまには気の利いたこと言うじゃない」
「そうか」
まんざらでもなく、リビングの入口に立っていた鈴木は鼻をこすったが、トマトを切っていた菜々子がヘタを三角コーナーに放り投げると、
「おかしくなんかないわよ、もちろん、誰もそんな。だってほら、りんちゃんは出掛けてるもんね、お友達と遊んでるんだし、いつものことよ。お母さんはライブよね、いつものこととは言えないけど、普通のことよ。そうでしょう? それはね、なんにもおかしくないわよ、全然。でもね」
「うるさいな」
「ゴルフセットもない人が打ちっぱなしに行くことはあっても、今日出会って初めて打ちっぱなしに行こうなんて聞いたのよ。どういう風の吹きまわしなのよ。いつからそんな高尚な趣味に目覚めちゃった訳なの?」
「目覚めちゃいないよ、誰も! うるさいな。常務に直接誘われちゃったんだよ、今度のゴルフコンペにどうかって。
断る訳にいかないだろう、ちょっと練習しとかないと、一緒のペースで回れなかったら、みっともないしな。それにほら、クラブはレンタル出来るんだ」
「知ってるわよ、そのくらい。同じペースで回ることが大事なことも、ゴルフクラブがレンタルできるってこともね。
それで、お昼は、食べて行くのよね?」
「それなんだけど、俺の分に手がついてないようなら、加藤と外で食おうかな」
「なんですって?」
「だから、俺の」
「俺の分に手がついてないようならなんて。あら、あなた、今日はまあ、冴えたこと連発してくれるじゃないの」
「そうか」
また、まんざらでもなく、鈴木は鼻をこすったのだったが、振り向いた菜々子はむっとしたように腰に両手をあてて近寄ってくると、
「人の話は聞いてないわ、自分のことは話さないわ、ここのところ、ほんと酷いわよ、あなた!」
* * *
こうして、しれっと引っさげてきたビジネスバックから、さきほど貰ってきた調査報告書を取り出したのが今である。
木陰のベンチとはいえ、酷く蒸し暑かった。僅かばかりの風が、汗をかいた首筋を気休め程度に撫でている。 煙草をくわえて火を点けると、鈴木は報告書に目を通した。
夏の午後、酷い灼熱の中であるが、報告書に書かれている内容も酷いものだった。
金曜日の午後、梨花は友達二人とゲームセンターに行った。彼女はセーラー服を着ていた。それでプリクラの機械に入った。
十五分も経ってようやく出てきた。
その日の夜、事務所の別の調査員Kが、ある女子中学生(さっき山岸みなみと聞いたが)の身辺調査の報告書を城之内に提出。それは別件なので詳しいことは言えないと書いてあるが、とにかく娘の最近の動向に不信感を抱いたとある両親からの依頼だったということ。
するとこの子は、塾講師の若い男、警備員の中年男性、サラリーマンの初老の男など、不定期にいろいろな大人と会っていると(尾行して)分かった。それも真夏の渋谷の街中を、アイスを食べさせて貰ってお散歩したり、パフェを奢って貰って食べたり。彼らとカラオケに行ったり、それで幾らかお小遣いも貰っているという、ずいぶん充実しているらしい夏休みを満喫している模様、と書いてある。
おそらく出会い系サイトで知り合ったのではないか、と調査員Kは推理。城之内も同意した。
すると、サイバーコンピューティングの分野にも密かに通じているらしい夕子がパソコン3台を前に、その捜索に取りかかった。
いろいろな出会い系サイトを調べているうち、ロリコンの玄人専門とも言うべき、いくらなんでも年下過ぎる少女ばかりがメインのろくでもないサイトに行き当たった。
ある女子中学生(山岸みなみ)がいないかどうか、一応、全てに目を通してチェックしていると、別件ではあるが、どうやらS氏依頼の案件、神童梨花ちゃんと思しき少女の写真を発見。もしや、写真背景の白い壁は、彼女が入ったプリクラ機械のそれではないだろうか、という流れになった。
いや、と、鈴木は思った、梨花にはまだ、スマホはもちろん、携帯電話なんて持たせていないぞ、と、疑いを晴らすような事実があるのを思い出した。
そうである、そもそも、携帯を持っていない娘がどうして――、 鈴木は思いかけたが、しかし、報告書の最後には、こう書かれていた。
『その出会い系サイトの運営側も調査。
少女は写真提供のみ、メールはデータ入力業務とうそぶいたサクラ。
なお、金曜の午後、プリントクラブ複合機を出た少女たちは、少女K所有のスマートフォンを囲んで喜ぶ。
写真掲載ののち、報酬即スマートフォンに送金される仕組み。
三十分後、渋谷109にて、洋服数点、エルメスのネックレス一点、やはり少女K所有のスマートフォン、
poypoyの電子マネーにて購入。
以上』
すると、状況証拠といって差し支えなかった。
出会い系サイトへの写真提供、つまりは梨花と友達二人、友達Kなる少女のスマホを使って、サクラをやっているかも知れないのだ。
酷い内容が詰まった黒いファイルを、鈴木はバッグに入れた。
滅入ってしまうような気持ちと気候の中、立ち上がると、植え込みと花壇の先、遠く離れた平行線上のベンチに、若いカップルらしい男女がいちゃついているのが見えた。
互いの両肩に手を回しあい、見つめ合っている。
普段はどうでもいい光景だが、今は無性にイラついた。
くわえていた煙草を抜き取って捨てると、いつもは携帯灰皿に入れるのを忘れない鈴木も革靴で揉み消した。
真っ白な(黄色いグログランリボンを巻いた)ハットを斜めに被った女が、自分の方から口づけ(彼女が奥であるが)見たくもないキス顔が見え、ざっと上がった噴水がピタッとやむと、ひさしの長いハットのせいで分からなかったが、ヤングガールなんかじゃない。光沢のあるスカーレットのカットソーを、木漏れ日がちらちらと煌めかせ、菜々子の母、桜子だった。
まずい、と、反射的に思って、身を屈めようとしたが、遅かった。口づけたままのうすく開いた目と合った。彫りの深い瞳がぎょっとし、眉間の皺が深まった。
とたんに男を離れると、唇が固まったように開いて、それを片手で覆いながら立ち上がった。
突然、一陣の風がつむじをまいた。
木々も芝生もざわっと鳴るせり上がる風だった。
どういう運命の演出か、蒼白で立つオールドミスの頭上、立ち昇る噴水を背に、白いハットが舞っていった。
噴水のしぶきが青空を散らす中、隣の、東南アジア系の褐色肌の男が立ち上がって、帽子を追った。筋肉質の、黄色いYシャツを着た、ふっくらした顔の青年であった。
そこまで鈴木は見届けないまま、駆け出していた。
「幸雄さん、待って!」
よく通る、ハスキーボイスが鋭い叫びを伴って、灼熱の空気中を、弓をいっぱいに引いて放った矢のように一心に追いかけた。