真夜中のヒルガオ 6
「あら、幸雄さんは朝、召し上がらないの?」
光沢のあるカットソーを着た桜子が言った。
「え、ええ、どうも最近は」
コーヒーに角砂糖を三つ、クリームを入れたかなり甘めのコーヒーが朝食代わり、というのが一月前からの鈴木の日課だった。
「なんだか、こっちばかり、悪いわね」
ウインナーをつまんでいた箸を止めた桜子を、まだ花柄の淡いパジャマ姿の梨花が、目を細めて、唇を突き出すように見やった。
「本人がいらないっていうんだから、こっちが気にすることないじゃん」
「ちょっと、りんちゃん、何なのその態度は! お婆ちゃんに向かって」
さっさとフライパンを洗っていたエプロン姿の菜々子が、かっと振り向いて鋭く言った。
「いいのよ、そんなこと。変に気、使われるよりね。りんちゃんの言う通りよね」
桜子は孫娘に笑顔を向けた。
梨花は背中を向けた母親に舌を出した。
そんな娘の姿を見ながら、今、セーラー服の話などするべきではないな、と、鈴木は思った。
それに、まだ着替えてもいない梨花であれば、いまはもう夏休み。教科書やなんか、ランドセルに入っていないとしても、なんにもおかしくないのである。
それに、
「そうだ、梨花。最近パソコンに掛かりっきりだな」
と、思惑あって、鈴木は聞いた。
「ユーチューブとか見てる」
目玉焼きを箸でつぶして梨花は言う。
「そうよ、りんちゃん」
と、焦げた白身を鉄板から剥がそうと、アルミのスポンジを握り締めて菜々子が、
「ネット繋いでから、全然こっちに来ないんだから。部屋に篭もりっぱなしで」
「まあ、それはいいじゃないか」
と鈴木が、
「アニメかなんか観てるのか?」
そう聞くのは、梨花がコスプレやなんかに興味を持っているのではないか、と考えてのことだ。なるほど、こういう時代の今である。セーラー服の一つや二つ、小学生の子供を持つ家庭であれば、あっておかしいというものではあるまい。
しかし、昨夜こっそり、部屋の中に忍び込み、その上、ランドセルも開けたなどと言ったら、直後、親子の口交は断絶されかねない。
いや、菜々子からも桜子からも非難を受けそうだ。
で、間接的に聞いてみた。
「アニメも観てるよ」
「どんなアニメだ?」
「いろいろ」
やっぱり。
アニメといえば制服、制服といえばアニメ、いろいろなアニメとえば、いろいろな制服ということになる。鈴木は自分にそう言い聞かせ、もうひとさじの砂糖をすくう。
「ねえ、コーヒーちょっと頂戴」
何かもう一言、自分に念押したがっている鈴木のカップを指さして梨花が言う。
「あら、飲みたいなら、私が入れてきて上げますよ」
桜子は言ったが、調理器具の洗い物が終わった菜々子が振り向くと、
「だいじょぶよ、この子、一口か二口しか飲まないの」
「そ。この甘いコーヒー、ちょっとがいいんだあ」
食後のちょっとコーヒーが、梨花の最近の習慣であった。この日は、三口すすってから、椅子を立ち上がった鈴木に、カップを返した。
それから、コーヒー片手にベランダで一服というのが、鈴木のほうでは長年変わらぬルーティーンであったが、
「あ、なんなの、これ!」
と、台拭きでシンクを綺麗にしていた菜々子が、大声を出して足を止めた。
見ると、菜々子は流し場を見下ろしている。
三角コーナーに手を伸ばし、何かを指でつまみあげ、そして振り向いた。
「誰かしら?」
そう言って、つまんだものを目の高さにあげる。
濡れた煙草の吸殻だ。
家族の中で喫煙者は鈴木だけ。おのずと犯人は知れるわけ。当然、自己申告しようとしたが、
「もしかして、りんちゃん!?」
と、菜々子が言い出した。
梨花はうつむいて、にやつくと、
「私な訳ないじゃん……」
すると菜々子は、テーブルに詰め寄っていって、
「じゃあ、お母さん!」
追及された桜子が、眉間に皺寄せると、
「やめなさい、そういう、いやらしい言いかた」
そう娘の菜々子を非難した。
一通り聞いてやって、鈴木がやっと歩いてくると、
「いや、悪い」
カップを持っていない方の左手を、掌を上にして差し出した。
「夜中、目が覚めちまって」
「リビングは、二十四時間禁煙なんですからね」
言うと菜々子は、つまんでいた吸殻を、その掌にポトっと落とした。
「夜中でもなんでも、ベランダで吸ってちょうだいよ」
「いや、昨日は雨が……」
「雨?」
「いや、悪かった、捨ててくるよ」
二人の様子を見上げていた桜子がこう言った。
「誰もいない時くらい、いいじゃないの」
菜々子はまたシンクを向いて、蛇口をひねると、
「人がいなくたって、匂いは消えないんですからね」
指先を水で洗い始めた。
「パパも、目、覚めちゃったんだ、やっぱり。カミナリ」
梨花が大きな瞳を丸くして見上げた。
「ああ」
鈴木は見下ろして言った。
「雷って?」
蛇口をきゅっと閉めて、菜々子がきょろっと振り向いて言った。
「聞こえなかったの?」
いぶかるみたいに梨花が、急に腕組みなんかし出してそっちを見たので、鈴木は吸殻をそっと握って、カップを持ったまま、ベランダへ向かった。
「凄かったんだよ、雨もざあって、洪水じゃないかってくらい」
「いつよ?」
「三時くらいかな」
「あら、そう。私なんか全然」
「ねえ、ほんとに、気づかなかったってわけなの!?」
「なによ、だから、私は全然」
エプロンをつまんで、濡れた手をぬぐって菜々子が、
「お母さん、気づいた?」
食卓に歩いてきて言った。
口をはすに構えて、桜子は首を傾げると、
「いえ、何にも」
ウインナーを箸でつまんでいた手をまた止めた。 すると梨花もまた、目を細めて、唇を突き出して、
「ほんとママたちって、鈍感」
座り掛けの菜々子がまたくっと立ち上がって、
「こら、りんちゃん……!!」
言ってから、ようやく椅子に腰掛けた。
そんな会話を、鈴木は背中に聞きながら、リビングの窓を開けていた。
なるほど、怪しげな制服を隠し持ってはいるものの、また一つ、娘と自分との共通点に気がついて嬉しいような気持ちになった。
ベランダにさっと出ると、またさっと窓を閉めた。ささっとクーラーの冷気が逃げていってしまうからである。
「ママなんてほんと眠り姫なんだから。寝たかなって思うと、毒リンゴ食べた白雪姫みたいに、半分死んじゃってるんだから」
梨花はおちゃらけ始めた。
「なんですって」
身構えるように肩をきゅっと上げて菜々子が言った。
「冗談じゃないんだから。眠りの森の美女なんだから。雨が降っても、槍が降ってもねえ、ママなんて星降る夜の夢の途中って感じ」
やっとウインナーを頬張れた桜子がそれを聞いて、はっと感心するようにうなずいている。
「地震雷火事親父、騒音公害鳥獣害虫の類で目を覚ましちゃうんだよ、 私とパパはねえ。繊細なんですからねえ」
やっと何か思いついた菜々子がこう言った。
「人のカップシェア出来るような人たちがねえ繊細なもんですか」
「上手いこと言うわねえ」
桜子にも、甘ったるく引き伸ばすような、ねえ、が、伝染するのであった。
もうお盆も近い、夏たけなわといった感じで、五階のベランダも風が朝から温かった。南の部屋で、早くも太陽が熱い。
鈴木は、煙草の煙を吐き出した。ふう、と、息をつく感じで、立て続け、甘いコーヒーを飲む。木製の丸椅子に腰掛けてふう、辺りを囲む色とりどりの草花、かぐわしいことこの上ないガーデニングだ。
うむ、尖ったクローバーとでも言えそうな、ギザギザの扇のような、それも小さい緑の葉っぱが群生している。
なるほど、大体のものは、「ジャガビー」である。
正面メイン、どっしり構えた大きな花壇。
うむ、虹とでも見えそうな、彩色豊かな花々は、蝶の羽根を思わせるふわっとした花弁をつけ、赤や紫、オレンジ黄色、淡いふちどりが花柱に向けてまだらに色を深めていく、花咲くような蝶と表せば、蝶舞うような花とも評す、模様もまるで羽根を広げたようではないか、レインボーハナビーか、バタフライハナビーでもあろう。
なるほど、斜め上の素焼きの鉢の一団、可愛らしい真ん丸花柱に無数の花弁がついて、ザ・フラワー! といった感じの人気者らしいこいつは、園芸用のタンポポだ。金魚同様、環境や栄養さえ整えば、このようにわりかし大きくもなり、それもピンクや赤い花を咲かせるものまで出るらしい。
「日本人はみんな園芸愛好家である」
って、上手いこと書いたのは、そうそう、モーガンフリーマンだったな。
いやいや、そうじゃない、そうじゃない、今見ている花は、タンポポじゃない、マンデラだ。
なるほど、なるほど、シュリーマン主演のマンデラの映画を観たことがあるぞ。シュリーマンがガーベラーを愛し、ガーベラーはマンデラーを演じたはずだ。トロイアーのモクバーと闘ったのは獣神サラマンダーであった。すると、そうか、そうか、いや、間違っていた、このタンポポもどきは、どうやらモーガンフリーマンということになる。
うむ、と、鈴木がうそぶいた紫煙を吸わせてやるのは、ガーベラであった。
ハナビーは、パンジーだし、 ジャガビーはアイビーである、シュリーマンはトロイア遺跡を発掘したのであって、神話に出てくる伝説上の空飛ぶ鳥獣に乗って、紀元前のジパングを訪れたなんて記録はなく、モーガンフリーマンこそアカデミー賞俳優だ。タンポポじゃないし、そもそも野生のタンポポなんかを密かにドクター菜々子が大きくしている訳がない。綿毛になって飛ばないためのふざけた実験なんてやっていないのである。
なるほど、ゴールデンレモンタイムがシガレットコーヒータイムを見守っているあいだ、グランドカバーを見下ろす男こそは、ちんプラントかんプラントだった。
冗談、じょうだん、マイケルジョーダンはさておき、鈴木だって一つくらいちゃんと知っているようだ。
青と白の、可愛らしいのが二輪、蜜柑色のインティーポットで、信号ラッパのようにつつましく、というのもおかしいが、形状としては三連ラッパホーンさながらつつましい。オールドタイムインジャポネーゼ。古き良き日本の淑女といったところ。青い着物と白い着物は涼しげなことこの上ない。貞節そうなことこの上ない。
なるほど、小学二年生か一年生の頃だったか、可愛らしかった自分もこいつを育てたものである。
朝顔。
の、はずだが、どうしたことか。まだじっと、かたく花をつぼめているのだから、もちろんヒルガオなのである。




