真夜中のヒルガオ 5
リビングに戻ると、菜々子の姿が見えなかった。
それもそのはず、電気が点いていないのだ。
真っ暗という訳ではない。
なぜか、ダイニングキッチンのシンクの上、蛍光灯一本だけ、ほのかに蒼白い明かりを灯している。
壁のスイッチを鈴木は押した。が、天井の電灯に反応はない。
オンとオフ、何度か切り替えてみるが、点かない。下のスイッチ、ダイニングのほうを押してみても同じだ。
菜々子がソファで眠ってるうち、電気が切れてしまったのか。
リビングも、キッチンも? まさか。
プルルル……
入口近く、すぐ側の棚の上、家庭電話が鳴った。着信を知らせる赤いランプが暗闇の中に明滅する。
受話器を取って、
「もしもし」
鈴木が出ると、ガチャ! ぶしつけに切られた。
《どこのどいつだよ、こんな時間に!》
一瞬、いらつきがあったものの、にわかに鈴木は不気味さを感じた。受話器を戻しながら、イタズラ電話の犯人として、何度か自分が同じようなことをやっていたのが思い出された。
闇に、目が慣れてきたようだ。
「菜々子」
と、ソファに近づく。
闇に、人の輪郭らしきものは浮かんでこない。誰もいないのだった。
寝室に行ってしまったのだろうか。
ブッ、ブブッ!!
突然、背後の方、バイブの振動音。
びくっと鈴木は振り向くと、しんとした空間の中、家具に振動する響きはけたたましいくらいだ。
ブッ。
切れた。見ると、ダイニングのテーブルに、自分の携帯電話がある。
歩いて行って、取り上げた。
しかし、着信はない。
ブブッ!
小刻みにまたバイブが鳴った。もっと先、シンクの方だ。蛍光灯一本が淡い光をぼんやり照らす下、スマートフォンの液晶画面が点いている。菜々子の携帯電話だ。
食器の自動洗浄機のボックスの上にあった。どおりで、けたたましい訳だった。
近寄って、取り上げると、LINEの通知。
躊躇しないで、鈴木は画面をタッチしてしまった。
送り主は、『チャールズ・ブロッソン様』
鈴木はぞわぞわした。自分でも奇怪なことに、また画面をタッチする。
『菜々子さん。気をつけて。気づかれているようです。 背後に気をつけて。愛する菜々子』
鈴木は目を疑った。
「あなた」
呼ばれて、全身に鳥肌が立った。振り向くと、菜々子だ。食卓の椅子に座っている。けれど、どういうわけだろう、室内だというのに、ストローハットを眼深に被り、うつむいている。
「携帯、変えたんだ?」
「えっ?」
「私と同じやつに」
菜々子のスマホを鈴木は持っているわけだ。
「いや、そういう訳じゃ……」
口ごもったが、
「いや、どうしたんだよ。帽子なんか」
珍しく鈴木は攻め立てた。
「誰なんだよ、このチャールズ……」
「どうして私の携帯勝手に見てるのかって、そっちが先じゃないの」
椅子を立ち上がって、叫び出した菜々子の顔は蒼白だった。
仰け反ると、鈴木の背中に当たったのは、シンクのでっぱりじゃない、分厚い胸板だった。
振り返ると、スーツと黒いネクタイが見えた、
顔を上げる、と、ロンサーザイルの眼鏡の奥、蒼い光が二つ、見下ろしている。蛍光灯を背にした闇の中、まるで目玉が浮いているようだった。
「チャールズ!」
と、菜々子が命令するような口調で言った。
瞬間、グレイシー柔術でも心得ているらしい素早さで、チャールズは鈴木を抱え込んでしまった。
「ウ、ウウ……」
呻くことの他、鈴木にはもう、外界と交信する手段は許されていないらしい。
大人の男が二人、フローリングの床に寝そべっている。どちらも同じ方向を見ているが、前方の鈴木の関節を巧みに制御しながら、背後からチャールズ・ブロッンソンが、ヘッドロックじみて口も塞いでやるという、完全優位の体制である。
「これがどういうことか、分かっているわね」
と、菜々子は言った。これ以上訳の分からぬことなんて、鈴木にはありそうもなかった。
「これがどういうことか、分かっているわね」
しつこく言いながら菜々子は、ウールのバスローブのポッケに手を突っ込むと、羽交い締めにあった夫の近くに歩いてくる。ポッケから右手を引き抜いた。出てきたのは、栓抜きでも、ナプキンでもなかった。見上げる鈴木は愕然とした。物騒極まりない代物だった、ピストルだ。銃身の限りなく短い、女スパイが扱うような、手のひらサイズの可愛らしいそれである。
ウウウ!! と呻く鈴木を見下ろしながら、菜々子は屈み込んだ、そして銃口を額にあてた。飛び出してくる弾丸は、枝豆なんかじゃあるまいが、チャールズはさっきから、フー、フー、と、自分を落ち着けるように息を吐いていた。この体制を維持するのも、なかなか苦しいのである。
「ハヤク、ナナコ」
「ウボバベベバ、ババベロウ」
何が早くだバカ野郎、と鈴木は埋めいた。
「チャールズ!」
と、例の感じで菜々子は言いつけた。するとチャールズは、ヘッドロックじみて抑えていた手の力をちょっと緩める。菜々子に名前を一喝されれば、自分が何をやるべきなのかを、この男は迅速に理解出来るらしいが、おかげで鈴木は、ちょっと話が出来る。
「冗談だろ、な、こりゃ、なんの例えだ!?」
「死ぬ前に何か言いたいことはないかって、そういう意味なの」
動かせない首を鈴木は振るようにすると、
「お前に話したいことがある」
「お前、ですって!」
「いや、菜々子に、君に」
「チャールズ!」
と、また菜々子は言いつけた。 鈴木はまたぐっと口を押さえつけられ、交信の手段を断たれてしまう。
「ヴ、ヴク!」
「チャールズ」
「フー、フー」
「ヴーラー、ヴク」
「チャールズ!」
「ナナコ、コノ男、セーラー服ガドウトカ、ナントカ」
なるほど、チャールズという男は、言葉なんか聞かなくても、テレパシーで相手の思いを汲み取る達人らしいのだった。
「セーラー服ですって?」
「フー、フー、フー」
「チャールズ……」
「ムスメノコトガ、心配ナンダヨ」
菜々子はかぶりを振った。
「しょうがないわね、まったく」
それからすっと立ち上がった。
鈴木が激しく体をよじるので、息が荒くなってきたチャールズが、
「モウ限界ダヨ、ナナコ、ハヤク、ハヤク」
「りんちゃん!」
と、振り向いて、菜々子は言った。
チャールズはかぶりを振った。
リビングの闇の方から、梨花が近づいてきた。
「パパ」
「ビンガ!」
りんか、と、鈴木は言った。
床の上、ヘッドロックで固定され、横たえた顔の瞳だけ、娘を見上げながら、泣きそうだった。
近づいてきた娘はそんな彼に冷たかった。
「勝手にランドセル、開けたんですって!?」
鈴木はほとんど泣いていた。
「許さないんだから!!」
そう叫ぶ梨花はセーラー服姿だ。
鈴木は泣いた。
「そろそろ時間ね」
言うと菜々子は、鈴木の前にしゃがんで、可愛らしいピストルの銃口をまた額にあてる。
「さよなら」
《やめてくれええええ!!》
鈴木が心で叫んだその時だった、落雷の轟音とともに、瞬間、視界全体がかっと閃光に支配された、
また闇が戻ってきたかと思うと、ごおおおっと耳鳴りのような雨音が鳴り出した。
はっと鈴木は目を覚ました。夢だった。三十三年生きてきたが、中でも最もふざけた忌まわしい夢である。
しかしどうやら、暗い寝室に時々閃光が走り、ざっと窓を叩く強烈な雨脚は現実らしい。横を見ると、少し離れたシングルベッドで、菜々子は何でもないように眠っている。
ざざざ、ぴかあ、なるほど、真夏の夜の通り雨である。