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真夜中のヒルガオ 3

 鈴木が自宅マンションに着いたのは夜の九時も近かった。


 リビングに入ると、菜々子の姿が見えなかった。ダイニングキッチンのテーブルに、夕食がネットに掛けられて置いてあった。電気は点いている。いないということはないだろう。

 チャールズブロッソンのことを知らされてすぐだったから、胸騒ぎがしたが、考えてみればこの時間、菜々子はお風呂に入っている。

 廊下に出ると、バスルームのドアから光が漏れている。やはりそうか、と安心する自分が神経過敏になっていることに、鈴木自身もさすがにうんざりした。


 上着や荷物を置こうと、書斎のドアを開けた時である。ちょっとたるんだ横腹の青白い背中と、紫混じりのショートカットが見えた。

「すいません!」

  と、鈴木はバタンとドアを閉めた。

「す、すいませんね、幸雄さん!」

 動揺した、けれどよく通る、ハスキーなボイスが聞こえてきた。菜々子の母、桜子である。

「七時前には帰るっていうから、挨拶しようと待っていたんですけどね。いえ、ごめんなさいね」

 細かい花柄がついた薄緑のパジャマに着替えたばかりの、桜子がドアを開けた。居心地悪そうに縮こまって、丁寧に頭を下げた。

「すいませんね、こんな格好で」

「いえ、お変りないようで」

 おもむろにこんな言い方をするくらい、鈴木もちょっと動揺していた。

「五日ばかりお世話になります。いえ、五日もお世話にならせて頂きます。すいませんね」


 ダイニングキッチンで、ビールを飲んでいると、菜々子が風呂から上がってきた。

 バスタオルを頭に巻いて、大きめのウールのバスローブ。顔は、艶も形も剥きたてのゆで卵みたいだ。

 ヤバ……!

 すっきりした二重まぶたは、お湯にあたっても涼しげなまま……。スタイルの良さと今の格好からして、それこそ、このままビールのCMに出てきそうな見事なものだ。

 美人は三日で飽きるとは言わないが、こんな姿に慣れきっていた鈴木の美感怠慢が、久々、鞭打たれたような感じがあった。アルコールのせいもあったが、久々、顔が火照ったくらいのものだ。

 すぐには言葉が出なかった鈴木だが、彼女もビールを飲むため冷蔵庫へ向かうところ、

「お義母さん、来てたのか?」

 と、声を掛けた。

「来てたのかって、ちゃんと言ったじゃない」

 冷蔵庫を開けた菜々子が、顔を出して鈴木を見るとそう言った。

「いや、聞いてないよ」

「聞いてないはずないわよ。今朝も言った……一週間前にも言ってたんじゃない?」

 言われてみると、聞いていないという確信を持てないことのほうがよっぽど確かだった。この二週間、朝も夜も、食卓について菜々子の話や、梨花の話で何があったか話してみろと言われても、ほとんど何も浮かばないくらいなのだ。

「あなたが生まれる前から言ってたかも」

 鈴木は笑わなかった、

 少なくともこの1カ月、菜々子の浮気を疑って、自分の心の中、不安な、いじらしい心の中に没入している。

「何も聞いてないんだから」

 立ったまま缶ビールを開け、菜々子はテーブルに来る。

 と、彼女の腰に、白いコルセットがついているのには気づいた。

「どうしたんだよ?」

「え」

「腰」

「ああ。キャリーバックよ、お母さんの、キャスターが壊れちゃって。廊下で転がしてる時によ。二人で持ち上げよってしたら、重いのなんの、ぎっくり腰とまでは言わないけど、痛めちゃって」

 言いながら、菜々子は片手で腰の後ろを抑え、テーブルを素通りし、そのまま吹き抜けになっている奥のリビングに歩いていった。いつもは鈴木の前の椅子に座るのだが、腰を痛めたせいで、早くソファに寝転がりたいようだった。

「大きいキャリーバック、見たでしょ?

 そんなに何、入ってんだか全く。一週間も二週間もいるって訳じゃないのにさ」

「災難だったな、そりゃ」

「ほんとよ、たくっ……いたた」

 と、菜々子はゆっくりソファに腰掛けると、いきなりぐっとビールを飲んだ。それから、何か思いつたように笑って言った。

「でも、まあ、その巨大な登山用具の中にね、この有難いコルセットも入ってたってわけ。ほんと、何入ってるんだか、知れたもんじゃないんだから」

「山登りに来たのか、お義母さん?」

 枝豆を食っていた鈴木が、それを飲み込んで、驚いたように振り向いた。

 菜々子もソファから振り向いて、なんだか冷めたように目を細めている。

「例えよ、例え。登山用具かと思うくらい、大げさな荷物だったってこと」

 それから、つまらなそうに前を向いて、黙ってしまった。

 夫婦間の話のすれ違いというより、これは菜々子特有の冗談のようなものだった。それが通じないことを本当に怒っているわけではない。むしろ二人にとって、こういう瞬間は馴れ合いの印のようなこと、つまり、鈴木がそれを理解していないことのほうがかえって好ましいのである。

 出会った頃から今日までそれは変わらない。

 けれど今、神経過敏な鈴木といえば、これも自分の欠陥なのではないかと、菜々子が黙ってしまった背中を見ると、切ないのだった。梨花なら、いや、チャールズブロッソンなら、きっとこういう会話を軽やかにこなしていくだろう、あのカフェの静止画のように、菜々子を上品に笑わせることが出来るに違いない、と思った。

 もちろん菜々子にそんなつもりはないようだ 、背中を向けている顔は満足そうにビールを飲んでいた。だからまた、話始める。

「これも言ったと思うけど、お母さんさ、火山きよしのライブに行くんだって。東京に同級生がいるのよ。その人がチケット当てたとか。なんだったっけな、ファンクラブのアンケートの抽選で……」

 菜々子の話は鈴木の耳を通過する。

《あのさ》

 と、心の中で、鈴木は言うのだった。

《どうしたの?》

 声のトーンが重いようだから、菜々子も身構える感じで聞き返す。

《チャール……、いや、黒人の男とカフェにいたって?》

《黒人って、なんでそのこと》

《 いや、加藤が見掛けたって言うからさ……》

 すると、菜々子はなんと答えるのだろう、缶ビールを持つ手が、震え始める……。

「風呂に入るかな」

 鈴木は言った、

 テレビを観ながら、何か話続けていたはずの、菜々子はいつの間にか眠ってしまっていて、返事はなかった。

 椅子を立ち上がってソファに行くと、いつドライヤーを掛けたのか、鈴木にはあまり覚えがなかったが、とにかく髪は乾いていて、小さな横顔をほとんど覆っていた。こういう時、二十代前半の頃までは、タオルケットか毛布をかけたものだった。菜々子は目が覚めると、あるいはもう夜も深まって、肩をゆすって起こしてやると、「あら、毛布かけてくれたんだ、ありがとう」と鈴木に言った。そんな一言を、彼女が言わなくなってしまったのか、それとも彼がタオルケットや毛布をかけなくなってしまったのか、どちらが先だったのか、誰にも分からないことだった。ただ互いに、こういうことを、されるのも感謝を示すのも、どことなく面倒になっただけ、梨花がソファで眠ってしまう時、どちらともなく毛布をかけてやればいい、ただそれだけのこと。


 二本目の缶ビールを飲み終え、鈴木は立った。

 リビングの入り口近く、家庭電話が置かれた棚のすぐ側、五段組のカラーラックの前に近寄った。

 賞状やトロフィーが所狭しと並ぶ中、目の高さの段、梨花が獲得した様々な賞の、授賞式の写真が額に入って立て掛けてある。

 児童絵画コンクール金賞、夏休みの読書感想文優秀賞、自由研究大賞、三年生の部佳作、四年生の部大賞、青少年の主張入選……しかし、国際交流の詩のコンクールの写真は見当たらない。

 とはいえ、これも全てではない。他の多くのものは、アルバムに収められ、書斎の棚にあるか、梨花の部屋に飾られているはずである。探偵の言葉を疑っていた訳ではないが、チャールズブロッソンをこの目で確かめておきたかった。それに、城之内の飛翔した推論のせいで、鈴木はちょっと不信感を抱いていたのだ。

 それとはまた別に、鈴木は心に引っ掛かる何ものかを感じた。今見ている、娘の写真の中にである。

 幼稚園の教室で、あるいはデパートに飾られた自作の絵の前で、ちょっと恥ずかしそうに縮こまっている感じの幼い娘、

 最近のものだと、体育館の上、あるいはパーティー会場さながらの壇上で、やはり照れるように、ちょっとはすに構えて微笑している様子。

 引っ掛かる何ものかは、何なのだろう。

 娘は、おふざけが過ぎるくらい、根っから明るい性格なのに、写真を撮られる時には、恥ずかしがり屋の一面がある、そのギャップ? いや、髪型かも知れない。幼い頃から梨花は、後ろで髪を結わえて、揃えた前髪を垂らすスタイルを変えない。いや、ちがう、そういうものではなく、何か、引っ掛かるものがあるのだが、それがなんであるのか、鈴木には分からなかった。

 いや、しかし、とにかく、国際交流の、詩のコンクール……

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