真夜中のヒルガオ 2
「ご覧頂いた通り。ただ、これだけのことです。
昼に会って、お茶を飲んだり、ドライブしたり。いえ、失礼、それがただそれだけのことかどうか判断するのは、もちろん鈴木様な訳ですが」
城之内に名前を呼ばれ、鈴木の心は地上に戻ってきた。言われてみれば、そうである。自分の知らない男と、菜々子は会っているだけ。
いや、知らない男と会っている、そして、自分にはそれを隠している。
菜々子の口から出るのは、近所に住む井上さんか畑中さんの名前だけ。アフリカ系アメリカ人の知り合いがいるなどとは、聞いたこともない。
「娘さんが詩のコンクールで賞を取ったのは、ご存知ですね?」
応接間に戻ってから、テーブルを挟んだソファで、鈴木と向かい合う城之内が言った。
さきほど、スクリーンに投影されていた静止画のコピー、それから調査の中間報告が書かれたA四の用紙を、鈴木は見ていた。
「え?」
とぼけたように顔を上げると、
「娘さんですよ。最近、詩のコンクールで金賞を受賞したそうで」
「恥ずかしながら、知りませんで」
「そうですか」
「ええ……いや、娘はその、私がこういうのもなんですが、そういう賞みたいなものは」
「神童ですものね」
お盆に乗せたコーヒーを運んできた夕子が言った。
鈴木の前にカップを置くと、
「ブラックでよろしかったかしら?」
「ど、どうも」
「夕子くん、よろしかったかしら、はないだろう、そんな言いかた。それに、砂糖とクリームも、一応添えて出さないか」
城之内が注意を与えた。
「すいません」
「いえ、構いませんよ」
鈴木は言うと、コーヒーを一口すすった。
夕子はもう一度頭を下げると、ドアの方へ行った。
開ける音が聞こえないので、鈴木が振り返ると、依頼に来た時と同じく、彼女はドアの横に立ち、お盆をお腹の前に抱えて、きちんとしていた。
メイドのようだった。
ドアはまるで洋館のようだし、形を守る事務所なのである。
「なるほど、神童であられる娘さんですからな。一つや二つの賞のことなど、報告していたら、キリがないという訳ですか」
城之内は背もたれに寄りかかって笑った。
実際彼の言う通りなのだった。幼稚園の一番下のクラスの絵のコンクールから数えて、作文に詩、工作や版画、円周率の記憶力大会から全国自由研究大賞に至るまで、梨花のこれまでの受賞歴には枚挙に暇がない。学校や近所ではそれこそ神童として通っているくらいである。
「そんなことまで、調べたんですか?」
ちょっと鈴木には笑えない話だった。
「いえ、誤解しないで下さい」
すかさず城之内は自分で自分をフォローする、
「そのチャールズブロッソンという男がですね、詩のコンクール、国際交流がテーマのコンクールの審査員を務めていましてね」
聞いて鈴木ははっとした。
城之内はそれに気づくと、
「調べによれば、奥様も、その授賞式に参加していたようなのです」
「じゃあ、この男と妻は」
「いかにも。チャールズとは、そこで知り合いになったのです。しかし、正確には、授賞式も含めた、国際交流のイベントでして」
言いながら城之内の、胡散臭いつぶらな瞳が二つ、揃えた前髪の下で光るような感じになってきた。さすがにハンチングは脱いでいた。
「そもそもは、娘さんの詩を強く金賞に押したそうですな、このチャールズが。
さきほども説明しましたが、大学教授で、文学者の男です。詩の評論など幾つか著書もあるくらいですからね、かなり影響力はあったかと」
授賞式の後、食事会があったらしい。城之内が言うように、何も詩のコンクールがメインの催しではなかったそうだ。あくまで国際交流、様々な国の子供たちが集まって、音楽やスポーツも楽しんだ。それで食事会の時、チャールズと鈴木親子が親しそうに長いこと話す姿が目撃されていた。べつに、事件などではないのだが。
さすがに鈴木もそれは聞いていた。二人で何やら楽しそうなイベントに参加すると。六月十四日開催、その前後一週間、彼は地方の支社へ出張に行っていたのだった。おもちゃ屋ホビーズの新商品に欠かせない素材を製造出来るのが福島の工場だけなのである。礼儀として、一報で済ますという訳にはいかない。逆接待のようなものだった。
鈴木がメインで任された初めての企画だった。二ヶ月前、かなり忙しかった時期だ。梨花の詩の受賞の話もテレビ電話かパソコンのリモートで聞いていたのではないか。地酒の日本酒に馬刺しをつまんで、いつものことだ、くらいに、聞き流していたのは自分かも知れなかった。
「それから二ヶ月も経って、急に会い出したというのは妙ですがね。いや、調べによると、二週間前からなんですな、チャールズと奥さんが頻繁に会うようになったのは」
言いながら、城之内はソファを立って、自分のデスクの前にきていた。
デスクの引き出しを開けると、ガラスのケースに葉巻が入っている。
「煙草はお召しになられるのでしたな?」
変な日本語で城之内は言った。自分が葉巻が吸いたくて、ウキウキしていたのである。
「え、ええ」
「葉巻はどうですかな?」
葉巻を手渡された鈴木は、振り返って夕子を見た。
目が合って、最上級の褒め言葉を選ぶなら、ヌーベルヴァーグの女優を彷彿とさせる、大きくて吸い込まれそうな瞳が微笑んだ。
「彼女は、ずっと立ってるんですか?」
背後で見られていると、気になるのである。
「いやいや、これはとんだお気遣いを」
葉巻の吸い口をシガーカッターで切って、城之内は言った。
「こうして吸い口を切ると、うまいのですな」
鈴木にカッターを渡す。
まだ後ろが気になっている鈴木は、
「座って貰ったらどうです?」
吸い口を切らないままにそう言った。
胡散臭く整えられた、口周りを四角く囲んだ髭を、手のひらでこすって、城之内は考えるようにしたが、
「夕子くん、君もきたまえ」
向かい合うソファで、鈴木、前に城之内、夕子、三人みんな葉巻を吸っているから、部屋は焼肉でも始めたのではないかと思うほど煙が蔓延した。
実に怪しげな光景であった。
「ただ一つ、実に怪しいことがありましてな」
と、城之内。
「と、言いますと」
煙を吐きながら鈴木。
「チャールズですよ。この男、車に乗り込む前には、必ず座席やハンドルを確かめるように触り出すんです。チェックするんですな、座席の裏や何かまで、自宅マンションを出る時も、ポケットやなんかを探るようにして」
「気づかれてるんじゃないですか!!」
「いや、調べ始めた初日から。そうだったよな、夕子くん」
「ごほ、ごほ、失礼。ええ、確かに」
「それで、盗聴器をつける訳にもいかない。車で迎えに行き、鈴木様の奥さんを乗せる前には、自分で身辺をチェックさせる用心ぶりです」
怪しすぎる話である。
「会話の内容を知ろうにも、難しいと来ている。何しろ、盗聴器がつけられませんからな」
盗聴器はそもそも、犯罪だ。かなりギリギリのこともやる事務所らしい。
「私はこう考えるのです。いや、ここからは単に私の推理に過ぎませんがね」
城之内は太い葉巻をトントンとガラス製の灰皿に叩いて灰を落とした。
「チャールズと奥さんは、娘さんのことについて話している。何しろ神童ですからな。自分が教授を務める大学の、系列やら付属やらの中学に勧誘している。もしや、金銭のやり取りまでチラつかせている可能性もある。分かりますな。チャールズは表向きは文学者でもありますが、そういう大学の裏の刺客なのではないでしょうか。優秀な生徒を早いうちから引き抜いてくるための。いや、あくまで、おそらくの話です」
何か言おうとする鈴木を制して、城之内は推論を続けた。
「もっと大それたことをやっている可能性もあります。日本のみならず、海外の学生やなんかの引き抜きだか、連れ込みだかね。若者を売り物にする悪党です。いや、推理に過ぎませんよ。それで、盗聴器のチェックを怠らない訳です。奥さんのことは悪く言いませんよ。しかし、鈴木様に彼のことを隠しているなどとは、怪しいではありませんか。いや、奥様のことは悪く言いませんよ」
「所長」
と、くわえていた葉巻を取って、夕子が制した。
ゴホン! 城之内は咳払いをすると、
「いや、これは失礼」
と、奪われた葉巻をまた夕子から受け取る。
菜々子がそれで金を受け取るよう迫られているなんてことがあるだろうか。 鈴木には信じ難かった。ただ、二人が娘をきっかけに知り合ったのは確かなようだ。
「そこで提案なのですが」
と、城之内は葉巻を力強く灰皿にこすりつけて消した。
「チャールズという悪党にも、もっとしつこい尾行をつけるというのはいかがでしょう? それから、娘さんの動向も、少し見守ってみるというのは」
なんだかインチキ宗教みたいな気配が出てきた。
「いえ、もちろん、その……料金は少し上がる訳ですが」
城之内の鼻下の髭には、汗が光っていた。全く、胡散臭い訳である。
夕子は目を細めて、煙の奥から冷めた視線を送っている。
「ま、まあ。とりあえず、このまま、様子を見たいのですが」
鈴木は苦笑いして、葉巻を消しながら言った。自分が憮然としている気持ちを、優しい一重の目がくしゃっとなるように笑って示すのが、彼の性格の長所であり短所だった。人に怒る、ということが元来苦手なのである。
城之内の言っていることが何もかも大型プラン――複数名調査のための独自の解釈な訳ではない。チャールズがかなり身辺を警戒しているのは本当のことである。つまり、推論の真相は今のところ不明だが、その他の情報は全て真実である。