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真夜中のヒルガオ 1

 その夜、城之内探偵事務所の映写室に鈴木はいた。一筋の光とスクリーンの映像の他は暗闇だった。広い空間に置かれた木製の椅子。そこに座っていたのである。

「名前はチャールズブロッソン、年齢は五十三歳。見てお分かりの通り、アフリカ系アメリカ人です、いや、アメリカ人かどうかは、見てわかるというものではありませんな」

 都内の街中だろうか、そして昼だろう、路駐したベンツの助手席側に立つ、大きなサングラスをかけた細身の女。それが妻の菜々子だと、鈴木は一目で分かったが違和感を抱いた。――優雅なマキシワンピース、はすに構えたストローハット。モデル風の美人だと誰もが認めるその容姿。ふわっとした長い黒髪が、柔らかく風に吹かれていた。スクリーンに映された静止画は、芸能人が高級車にエスコートされる姿を捉えた週刊誌の写真を思わせた。乗り込もうとしているのが菜々子だ。助手席のドアを開けているのは、グレーのスーツを着た長身の黒人男性――探偵の城之内が言うように、そりゃ、見れば分かった。

《チャールズ・ブロッケンって、どこのどいつだよ》

 そのチャールズ・ブロッソンという名の初老の男を、鈴木はドイツ風に間違えて自分に聞いた。

 分かるわけはなかった。同じくらい初老の、城之内の説明を聞くしかない。スクリーンの横に立って、低い声でその静止画の男の説明をしている。

「母国アメリカを離れたのは三十三歳の年、大学教授として招かれました。日本文学者でもあります。それから……」

 解説者は、まさしく探偵だろうという雰囲気丸出し。ハンチング帽を被り、やや大きめの茶色いスーツ。小太りの、胡散臭そうな髭面だ。しかし、低いテノールの声には重厚感と説得力がある。警官を辞めて、この事務所を開業した三十七歳の時から、自分で練習したのである。レコーダーに録音してみたり、沢山葉巻を吸ったりした。大げさな映写室も、わざわざ事務所に取り付けたのだった。形から入る男だ。事務所の評判は、彼の容姿に比べ、ちょっといいくらいのものだった。


 探偵に浮気調査の依頼なんて自分でも自分を疑った、それでも鈴木はここにいる。

 きっかけはセックレスだった。シングルベッドが二つ並んだ寝室で、妻のベッドに腰掛けたが、疲れているからと、横になっている菜々子に二度、断られた。それから三度目の夜、口づけようと引き寄せた彼女の閉じた目から一筋涙が零れた。顔を覆ってうずくまると、肩を震わせて泣いた。

「ごめんなさい、自分でも分からないの……」

 震える妻の肩に手を置いていいのか、鈴木にも分からなかった。

 怖くなった、そして3ヶ月過ぎた。


 たまたま仕事が早く終わる日があって、自宅マンションに帰ると鍵が掛かっていた。菜々子は専業主婦である。家にいるはずだった。その前に携帯と自宅電話に連絡していたが出なかった。鍵は持っていたから、中に入った。午後四時前でその後すぐに娘が帰ってきた。

 リビングで早めのビールを呑んでいると、小学六年生の梨花(りんか)がソファにランドセルを投げ出して、また外に遊びに出て行こうと慌ただしくリビングを出て行こうとした。

 ただいま、パパ、早いね、ぐらいは言った。

「ちょっと待て梨花」

「分かったよ」

 と、彼女はランドセルを部屋に持っていけと言れたと思って、ドアのところから戻った。

「ママ、いない時あるのか」

「え」

「梨花が帰ってくる時」

「いっつもいるって訳じゃないよ。買い物とか」

「いつもはいるんだよな」

「わかんない、いるんじゃない」

「じゃあ、買い物かな」

「井上さんと出掛ける時とかあるし……、何なの」

 娘に変な気を起こされても嫌だったので、これくらいにした。


 菜々子が帰ってきたのは、梨花が遊びから戻ってくるよりも15分遅い六時五分のことだった。

「ごめん、買い物の前に、井上さんとカフェで話し込んじゃって」


 それから会社にいる時、自宅に電話を掛けてみた。朝に一度出ないと気になって、昼には出たけれど、午後は夕方まで三度も掛けたが一回も出なかった。

 そんなことを一週間のうちに三日もやらずにはいられない気持ちになってきた。時間はまばらだったが、とにかく、一日に二度も出ることは稀だった。

「最近おかしいのよ」

「何が」

「無言電話」

 夕食の席で菜々子と梨花が話し出した。

「出たら、切っちゃうの」

「あ、それ、りんかもあったよ。学校から帰ってきた時、もしもしって出たら、プッて切れた」

「非通知だし、イタズラね絶対」

 鈴木は箸でつまんでいた唐揚げを置いて、しぶしぶビールを呑んだ。

「梨花の友達で変な子っている?」


 それからは、イタズラ電話の犯人も、さすがに自粛した。

 しかし、後遺症とも言うべき症状が出てきた。

 菜々子に直接聞いてみようか、と思うと、手が震え始めるのだった。

 鈴木は自分がどうしようもなく怯えていることに気づいていた。まさか身体の反応として出るとは思っていなかった。

 もしも、浮気していたら、もしも、別れ話になったら……悲しいというより怖くて仕方ない自分がいる。思春期の男の子みたいに菜々子が好きなんてちょっと異常なことにも思えたくらいである。


 セックレスのことは、大学の頃からの友達の、同僚の加藤に話していた。

「おい、だいじょぶかよお前、菜々子さんのこと考え過ぎて、酒、飲み過ぎなんじゃねえのか。アル中になっちまったのかよ、そんで」

 バーのカウンターで、ウイスキーを持つ鈴木の手が震えているのを見て、加藤はちゃかした。

「すぐ収まるよ」

「浮気なんかしてるわけねえじゃん。考えすぎだよ。菜々子さんはそういうタイプじゃねえって」

 菜々子も、同じ大学で、マドンナ的存在だった。

 当時鈴木はクールなタイプ、女心をくすぐるような優しい一重の、しゅっとした端正な顔立ちのシャイな男、かなり奥手であった(それは三十三歳の今も変わらない)。

 それで了才兼備の、将来女子アナにでもなれるのではないかという菜々子を射止めたわけだが、それも、ほとんどたらしだった加藤が間を取り持ってくれたおかげだ。

 正直彼にとってみたら、二人はかなりウブ過ぎた。

 その証拠に、2人の出会いがまずかったのか、良かったのか、彼らが二十一の時にはもう、菜々子は梨花を身篭った。彼女は片親であった。公務員の母親はけれど、子供を産むのに反対しなかった。鈴木の父は医療器系のトップセールスマン、母は看護師で、若い二人にかなりの援助をした。菜々子は大学を辞め、梨花が生まれ、鈴木が卒業した次の年に結婚した。


「思い出しても見ろよ、これまでのことを。な、分かるだろ」

 なだめようと、映画サークルに属していた菜々子を、ふざけた自主映画を作るって誘って、その主演に親友の鈴木を、ヒロインに菜々子を起用した加藤は言うが、

「そういや、加藤、お前昨日、早退してたな」

 氷の溶け出したウイスキーばかりを見つめ、そんな思い出なんか眼中に入ってこない鈴木は言う。

 煙草に火を点けようとしていた加藤の手が止まった。

「おいおい、冗談だろ」

「いや、ごめん」

 つまり、鈴木は飲み過ぎだった。

「こんなことは、あんまり勧めたくねえんだけどよ」

 言うと加藤は、煙草に火を点けて、煙を吸った。鈴木の手の震えは収まっていた。グラスに僅かに残っていたウイスキーを飲み干す。

 加藤が煙を吐き出すと、

「知り合いに、探偵の女がいるんだよ」

「探偵だって!?」

 ろれつがおかしくなってきた口で鈴木は笑うように言った。

「あらぬ疑い掛けられんのもまいっちまうしよ。本人に聞けもしねえで、疑心暗鬼に入ってるお前も心配だしな。それに、菜々子さんの浮気は絶対ないって、俺には分かるからな。それを知らないで、勝手に怯えてるのはお前だけだよ」

 鈴木はそのくらいのセリフにも涙腺が緩むほど酔っ払っちまっていた。カウンターに肘をつき、目頭を抑える。

 バーテンが、さりげなくハンカチを渡すのを、加藤が受け取った。 鈴木の前に差し出すと、彼のほうは見ないで、うなずきながらハンカチをつかみ、濡れた目をぬぐう、

 そんな姿を見ながら、加藤は言う、

「いや、狙ってる女でさ、調査依頼するような奴、紹介したらデートしてくれるって言うんだよ。マジな話。それだけなんだけどさ」

 ちゃかすよう、煙草を吹かしながら笑った。

 独身の彼は未だ合コンやらキャバクラ通いやら、お遊びに忙しいらしかった。そういう男の例に漏れず、ちょっと浅黒い肌の、伊達メガネを掛けた話し上手の窓際社員であった。


 そんな彼が最近、相席居酒屋で出会ったのが、今、城之内探偵事務所で、映写機を操作している二十代半ばの女だ。キリっとした顔つきの、いかにも何かの助手、という感じの、切れ者らしい女である。ただのOLとは一線を画したカナリアイエローのスーツを着ていた。これも城之内が、形から入らせる為に指定した代物だ。

 そうして探偵の女、いや、正確には探偵の助手、夕子は今、鈴木の数メートル後ろで、テーブルに乗せた機械を相手に、静止画を切り替えたり、ズームさせたりしていた。

 あるいはカフェで、あるいは車内で、あるいはレストランで談笑する菜々子とチャールズブロッソンを望遠で捉えた画質の荒い静止画が多かった。彼女をベンツにエスコートする場面が一番綺麗に撮れていた。探偵の車に潜んで夕子がそのままカメラを向けたのだろう。飲食店の中は、ペンタイプのやつとかの隠しカメラに違いない。――こういう調査が開始されたのは、ちょうど二週間前のことである。


 映写室の椅子に腰掛けて、鈴木はぞわぞわしてきた。

 地面に穴が空いて落ちる、というよりも、椅子から身体が浮き上がってしまいそうな感じだった。

 座っている実感もなかったのだ。

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