Memorys
も、文字数がエラいことに……。
それでも構わないという粋な心意気をお持ちの方はどうぞ。
ちょっとキツいかもと思った正直者は今すぐリターンなのです!
あっという間だった。
それが今日を振り返っての……いや、この三年間を振り返っての私の感想だった。
他にも色々と思うところはあるはずなのに、それがあまりにも多すぎて呆然としてしまう。回想をするには、あまりにも思い出が多すぎた。
本日をもって私は高校を卒業するのだ。
いつもの教室の窓から見える校庭の片隅には、桜の木が植えられている。そこに小さくではあるが、ほんのりと桃色に染まった花が見えた。
卒業式というこの日に桜の開花を向かえるとはなかなかに縁起が良いではないか。私はほんの少しだけ嬉しくなって頬を綻ばせた。
空を見上げるとすでに夕闇色に染まりつつある。オレンジのグラデーションが色鮮やかで綺麗だ。たぶん、一生忘れないであろう風景の一つだった。
私は今日まで自分の席だった場所に腰を下ろす。机の落書きはいまだ健在で、我ながら相も変わらず下手くそな絵だった。
ちなみに今の時分は夕方ではあるのだけれど、卒業式自体はとうの昔に終わっている。午前中の間につつがなく終了していた。
なので厳密に言うのであれば、もう私はこの学校の生徒ではない。だからここに留まる必要も、立ち止まる意味もないのだが……。
いや、分かっている。
ただ、私は臆病なのだ。友人達はあっさりと帰ってしまったが、私はそれができずにぼうっと教室に留まっている。何をするでもなく、ただそこにいるだけ。式典の最中はあまり実感が湧かなかったけれど、独りきりでこうしていると不覚にもセンチな気分になってしまうものだ。
……モラトリアムももう終わりか。
そんなことを考えて、私は小さな胸の疼きを感じた。
自慢ではないが、気持ちの切り替えは早い方ではない。次の一歩を踏み出すことにも戸惑いを感じるし、友達と離れ離れになるのも心細かった。何よりも春からの一人暮らしを思うと、たまらなく不安であった。まるで途方もないもののように感じた。
「ぐぁ〜、疲れたぜ……って、ん?」
唐突に教室の扉がガラリと開いた。私はびくりと肩を震わせる。
入って来たのは一人の男子生徒だった。呑気にも欠伸を噛み締めながらの登場だった。
そして、私の姿を確認して驚いたように立ち止まる。まさかこんな時間帯に人がいるとは思ってもいなかったのだろう。失礼にもそいつは私の顔を見てギョッとした。
「……つばめ?」
いかにもそうである。私の名前は若林つばめで相違なかった。
男子生徒の身長は私の頭一つ分ほど高く、スラリと手足も長い。顔つきは端正と言えなくもなかったが、いまいち生気が感じられない。やる気のなさそうな表情が彼の常だった。
いや、いつにも増して覇気が感じられない。
「少し疲れているみたいだけれど、こんな時間まで何をしてたの?」
私が訊ねると彼はニッと笑って力こぶを作る仕草を見せた。
「ちょっと部活の方に顔を出してたんだ。何でも三年生の送別会を兼ねたお別れ試合らしくてな。まあ、ちゃんと返り討ちにしてやったがね」
彼は確か剣道部であったはずである。
なるほどと私は得心いったように手を打った。それならば、こんな時間帯まで残っていることにも納得できた。
「カエルもご苦労なことだね。まったく感心するよ」
卒業式終了直後に部活へ行く体力は、少なくとも私にはない。とても真似できそうにはなかった。
我ながら情けないことに、ちょっと走っただけで息も絶え絶えなのだ。もはやそのような運動は死活問題だった。
「まあ、つばめは体力ないからなぁ。卒業を機に何か運動でもしたらどうだ?」
「……うん、そうだね。お手軽にできる運動があったら挑戦してみるよ」
私がそう言うと、カエルは呆れたように笑う。
「お手軽な運動じゃ意味がないと思うぞ。そうだな、剣道とかはどうだ? 俺が手取り足取り指導してやるが?」
手取り足取りって何だか表現がいやらしいよなぁ。ものすごくセクハラっぽい。
勿論、カエルにそんな気はないということは分かってはいるのだけれども。だいたいにしてカエルがそーゆー積極的な男ならば、私もここまで苦労しなくても良いのだ。
「カエル、どうやら君は大事なことを忘れているらしい。失念しているよ。あのね、もう私たちは卒業したんだよ?」
だからこれからは今みたいに気軽に話すことはできないし、そもそも会うこと自体なくなるかもしれない。
カエルとはこの一年間で随分と友誼を育んできたけれど、それも今日でお終い。お別れだ。
自然と私とカエルは黙り込む。
その沈黙は否が応でも現実を突きつけた。
「……何だか別れがたいよね」
この校舎にも教室にも、たくさんの思い出がある。ありふれた凡庸な言葉だけれど、本当にたくさんだ。
思い出とは、今まで共有してきた空間と時間の蓄積だと私は解釈している。そういう意味では間違いなく校舎や教室は思い出の場所と言えた。取るに足らない日々の積み重ねが、確かにここにはあった。
だけど、私が本当に別れがたいのは……。
「別れがたい、か。つばめがそんなことを言うだなんて少し意外だな。なんていうか、お前はさっぱりとした性格だからさ、まさかそんな感傷的な科白を吐くとは思わなかったよ」
「そうかな。私としてはそれなりにこの学校にも愛着があるんだよ?」
この学校に入学したときの教室の席順も。茹だるような暑さの中で行われた夏期講習も。テスト期間中、放課後の教室に残って友達と話に花を咲かせた勉強会も。冬の寒さに手が悴んでペンが持てなかった一限も。修学旅行でのあまりの起床時間の早さに目を擦っていたことも。
全て、一つも零さずに、鮮明に、はっきりと記憶している。
中でも最後の一年間は本当に楽しかった。カエルという珍妙なアダナを持つ男子生徒と過ごした日々は、今まで読んできたどの物語よりも面白くて、とても新鮮だった。まるで新しい世界が開拓されたかのような気分だった。
彼との出会いは、きっと私にとって特別な意味のあることだ。たぶん、カエル自身が思っている以上に、特別だった。
「そうだな。三年間ほぼ毎日過ごしてきた場所だもんな。俺達の生活の中心だったもんな。確かに名残惜しくもあるよ」
くすりとカエルが笑いながら言う。
それに相槌を打って私も頷いた。
「うん、私も名残惜しいよ。自分がこんなにも愛好心が強かっただなんて、卒業してみて初めて分かった。それって何だか皮肉だよね」
まるで青い鳥のようだなと思う。大切なものというのは、近くにありすぎると見えにくいもので、一度離れてみてようやく分かるのである。
卒業というのもどこかそれと似ている気がした。
在学中には見えなかったことも、今なら見える。幸せの青い鳥は存外近くにあったのだ。
「なあ、つばめ。せっかくだからさ、最後に校舎の中を回ろうぜ。これが見納めってことでな」
……見納めか。
うん、悪くはない。この学校での最後の思い出を締めくくる相手がカエルならば異論はない。きっと素敵な思い出になるはずだ。
「これは次に踏み出すための決別なんかじゃないぞ?」
カエルが笑いながら言う。
私は意味を図りかねて首をかしげた。
「どういうこと?」
「ああ、これは俺達の心をここに置いておくための決別なのさ」
私は思わず吹き出した。
ときたまカエルは妙ちきりんなことを言う。この上なくクサいセリフを平気で口にする。
それが私には心底面白くって仕方がなかった。『カエル語録』と銘打たれた手帳を作ってしまう程度には面白かった。
今日一日で、最後の一日で、私はカエル語録をいくつカウントできるだろうか。できるだけたくさん聞きたいと思った。一生胸に留めておきたいとも思った。
※1
私とカエルが出会ったのは、高三のクラス替えの際だった。
隣の席に座っていた男子生徒が妙であるとしか形容のできないアダナで呼ばれていたのが、私が彼と会話を交わすことになったきっかけだった。
「どうしてカエルって呼ばれてるの?」
確かあの時、私はこう訊ねたはずだ。
けれど彼の名札を見て、すぐにその理由を知ることができた。
彼の本名を河津晃という。
名字である『河津』が『カワズ』となって、最終的には『カエル』に行き着いたのだろうと推測できた。誰が考えたのかは知らないけれど、実に愉快な名前だ。
それから私達はよく話をするようになった。高校三年生ということもあったから、あまり遊びに行くことはできなかったけれど、その代わりよく一緒に勉強をした。いや、あれは私がカエルに勉強を教えてばかりだった気もするのだけれど、それはそれですごく楽しかった。
お互いのことを親友と呼べるようになるまで、そう時間はかからなかった。
「……親友、か」
ズキリと心が痛んだ。
それはなぜか。考えるまでもない。考えたくもない。
どうやら私が臆病者だということは確かなようだった。
「つばめ、どうかしたのか?」
渡り廊下を歩きながらカエルがひょいと私の顔を覗き込む。
「ううん、何でもないよ?」
平静を装って言った。
いつもそうである。素直に気持ちを吐き出してしまえば楽になれるのに、先に理性が働いて無意識にそれを抑制しているのだ。
もっとも、こればかりは私の性分ではあるのだけれど、それにしたって随分と損な性格をしていると思った。
的確に自覚しているあたりさらに損だ。
しばらく歩くと美術室に辿り着いた。中に入ると誰もいなかった。ツンとした油絵の具特有の匂いが鼻腔を刺激する。どこか懐かしい匂いだった。
「油絵の具って制服に付いたらなかなか汚れが取れねんだよなー」
まあ、それはそうだろうと思う。
少なくとも水洗いでは汚れは取れない。油絵の具は同じ油でもって分解して、布巾で拭ってやるといいのだ。まさに毒をもって毒を制するという理論だ。
つかつかと中を歩きながら、美術用具を物色するカエル。
「あんまり好き勝手にいじっていると先生に怒られるよ?」
「大丈夫、問題なし。こっちには優等生だったつばめがいるんだから、多少は多目に見てくれるって」
そんな根拠のない詭弁をいけしゃあしゃあと述べながら、カエルは画用紙と鉛筆を二本ずつ持って来た。
「これは?」
訊ねるとカエルはニッと笑う。
「絵を描こう。お互いの顔を描き合うんだ。なんか美術っぽくていいだろ?」
ああ、なんて愉快なやつなんだろう。
いつだって発想が唐突で支離滅裂だ。だけれど、いつだって的確に正鵠を射ていて面白くもあった。
頬が自然と綻ぶ。私が絵を描くのを得意としていないのは、教室の机にある落書きですでに証明済みだけれど、カエルの絵はさらにその上をいく。壊滅的に、というよりも絶望的なまでに下手くそであった。
だから出来上がったカエルの絵を見て私は驚く。確かに一般の絵と比べると見劣りはするが、けれど彼にしては上手く描けていたと思う。
私の特徴をよく捉えていた。
「まあ、つばめの顔はほぼ毎日見てたからな。目を瞑っていても描けるさ」
またクサいセリフを吐くカエル。けれど今回は照れくさそうな表情を浮かべていた。
私はその言葉を素直に嬉しいと思う。
カエル語録に書き留めることは言うに及ばずだけれど、しっかりと心の中にも記しておこう。色褪せてしまわないように。忘れてしまわないように。しっかりと。記録して、記憶して、大切に保管しておこうと思う。
「それでつばめの絵はどうなんだ?」
言われて、私は少し後悔をしていた。
カエルが真面目に絵を描くのなら、私も茶化さずにきちんと描いておけば良かったと思う。
数瞬躊躇ってから裏返しにしていた画用紙をオープンする。そこにはかなりデフォルメされたカエルの絵があった。
一応誤解のないように申し添えておくならば、私が描いた『カエル』は目の前の男子生徒のものではなく、緑のボディーをしたあんちくしょうの方である。
「……けろっぴー?」
きょとんとした様子のカエルが『カエル』の絵を見て首を傾げる。
私は恥ずかしくなって目を伏せた。画力が足りなりなかったからではない。真面目に描かなかったものだから、きまりが悪くなって目を伏せたのだ。
ちらりと上目遣いにカエルの様子を窺う。震えていた。彼も顔を伏せて肩を震わせていた。
「くっくっく……!」
そしてついに堪えきれないというように、愉快そうに喉の奥で笑うカエル。
「つばめらしくていいな、その絵。ユーモアのセンスが人とは少し……いや、かなりズレていて、いかにもって感じ」
む、失礼な。
カエルに言わせると、どうやら私のセンスはズレているらしい。その言いぐさに関しては大変遺憾に思う。だけれど、それと同時に私はほっと安堵していた。
笑ってもらえて良かった。やっぱり最後は笑顔が見たいから。
「うし、じゃあ記念に交換しようぜ」
カエルが言った。はたしてそれが何の記念であるのかは甚だしく疑問だけれど、その提案は悪くないと思う。
私はカエルの絵が──カエルが描いた絵が──欲しいから、全くもって異論はなかった。また、カエルも同じように、私が描いたものを記念として欲しいと思ってくれているなら、それはとても嬉しい話だ。
「そういうことなら、はいどーぞ。お互いに飾れそうにはない絵だけれど、大事にしてね」
「いや、俺はこの絵を飾るぞ? 誰かに『この絵は何だ』って訊かれても、俺は胸を張って答えてやるさ」
「なんて?」
私が訊ねると、カエルはニヤリと口の端を吊り上げてみせる。
一度言葉を切ると少しの間ためを作ってからきっぱりと断言した。
「勿論、俺の宝物だってな」
さて。
彼のとてつもなく恥ずかしいセリフ……もとい、カエル語録が一つ増えたところで私達は美術室を後にした。傾いた陽光が空を茜色に染めつつあったので、一つの所で長時間いるのは得策ではない。他にも回りたい場所はあった。
図書室は三年生のときによく利用した。受験勉強の際に赤本を借りるのは、おそらく受験生にとって普遍的な行為であったと思う。
よく利用した場所と言えば、私の場合保健室も挙げられるだろう。なるたけならばお世話になりたくはなかったが、如何せん私は体が弱かったものだから頻繁に通わざるを得なかった。
ところで。一度だけ保健室までカエルにおんぶでかつぎ込まれたことがあるのだけれど、あれは本当に恥ずかしかった。人の視線が質量をもって感じたのはその時が初めてだった。彼にとってはほんの親切心なのだろうけれども、私にとっては羞恥プレイ以外の何ものでもなかった。
「あははは。そういや、そんなこともあったなぁ」
当時のことを回想しながら私が非難がましく言うと、カエルは一笑に伏して肩をすくめた。
屋上でのことだった。吹きさらしの場所では遮蔽物が皆無なので、風がもろに直撃する。いい加減に長くなってきた私の髪が、風にさらわれてサラサラと流れた。
「さてと。これでだいたいの場所は回ったかな?」
美術室、体育館、理科実験室、調理室、音楽室、視聴覚室、礼法室、職員室、武道館、生徒指導室、図書室、保健室、屋上……。
うん、だいたいこれで全部のような気がする。一階のフロアから順繰りに上がって来たので間違いはない。見落としはないはずだ。
「お、そーいやまだ行ってねぇ場所があったわ」
「へえ。参考までに訊かせてもらうけれど、それはどこかな?」
何となくカエルが次に言うことが分かってはいたけれども、ここはお約束なので訊いておく。ツッコミを入れる準備は十全だ。スタンバイ完了。
「おう、俺はまだ女子更衣室に行って……」
スパーン!
私は最後まで言わせずに後頭部を叩いた。軽快な音が屋上に鳴り響く。
我ながら実に手慣れたものだ。この一年間、伊達にカエルの友人を務めてきたわけではない。まさに阿吽の呼吸というやつだった。
「ねえ、カエル。その発想はまごうことなき変態だと私は愚考するのだけれど、そこら辺どうなんだろうね?」
「いやいや、男なんて皆こんなもんさ。口にするかしないかだけの違いだな」
「……今の一言で、私は激しく男性恐怖症に陥りかけたのだけれど」
男=汚い、女=綺麗。
そんな公式が一瞬脳裏をよぎり、私は頭を横に振ることでその腐った思考を払拭した。
正しい意味で腐敗している。
私はいたってノーマルだ。男が汚いからといって、女性が好きなわけではない。風に揺られて百合揺られ……なんてあるはずもないのだ。
チラリと横目でカエルを見る。悟られぬように、こっそりと。
耳を澄ませば確かに聞こえてくる心臓の鼓動音。胸も苦しいし、頬も熱を帯びて感じる。
よし、大丈夫。やっぱり私の心は正常に機能している。
「いやはや、それにしても静かだよなぁ」
グラウンドを見下ろしながら呟くカエル。
いつもは活気に満ち溢れたグラウンドも、今日は口数が少ない。寡黙だった。卒業式のため原則としてグラウンドを使用する本日の部活動は休みとなっている。おそらくその所為だろう。
「まあ、今この学校に残っている好事家は私達だけだろうからね」
先生方はまだ残っていらっしゃるようだけれど、他の生徒はとうの昔に帰宅している。
──皆は私のように未練はないのだろうか?
勿論、私はある。
確かにこの学校自体にも未練はあるけれど、それとは別の未練がもう一つだけ。それはこの高校生活の内にどうしても伝えておきたかったこと。
残念ながらすでに卒業してしまったので、高校生の内には無理だったけれど、まだ遅くはない。まだ間に合う。
「カエルは何かやり残したこととか、未練とかってある?」
ふと思い立って訊ねてみる。
「ん〜、やり残したことねぇ……」
腕組みをして逡巡するカエル。
何か考えているようだった。考えているということは、とりわけこれといった後悔がないということだ。
そんな風に解釈していた矢先、カエルがポンと手を打った。
「ああ、そういやまだやってねぇことがあった!」
どうやら後悔はあったようである。
しかし、その口調は後悔を嘆いているような風ではない。まるで忘れ物を思い出したかのような口調であった。
「まさか今度は『まだ女子トイレに入っていない』なんて言い出すつもりじゃないよね?」
一応、釘を刺しておく。
まともな答えを期待しているので、先にカエルのボケを潰しておいた。
カエルは困ったように苦笑する。そして私の耳元に顔を近づけて、そのやり残したことを言った。
どうせ二人きりの校舎なのだから、こそこそと話す意味はないと思うのだけれど、そんな些事はさて置くことにして。
なるほど、こいつは愉快だ。流石は我が親友。やはり発想が支離滅裂で突拍子もない。
「ふふ、面白そう。いいよ、やってみよっか」
私も笑いながら相槌を打つ。
卒業式の雰囲気にあてられて少し気分が沈み込んでいたが、俄然力が湧いてきた。
今からする小さなイタズラを想像して笑みが零れる。この三年間、努めて優等生として頑張ってきたけれど、最後にパッと弾けてみるのもいいかもしれない。晴れて猫被りモードも卒業というわけだ。
私とカエルはお互いに顔を見合わせてニヤリと笑うと、二度と来ることのない屋上を後にした。
※2
当然ながらに放送室の扉は閉まっていた。扉は各教室と同様にスライド式のもので、鍵もきちんと掛かっていた。
さて、ここでちょっとしたコツが必要となる。
我が校の扉は立て付けの悪さゆえか、がたがたと戸を揺すれば鍵が開いてしまうのだ。
小刻みに素早く戸を左右に動かす。その振動で徐々に内側から掛けられた留め具がズレていき、最後にはカチャンと音を立てて外れた。
この物騒なご時世にこんなにも頼りのない錠前でよいのかと、老婆心ながらにも我が校の防犯設備に一抹の不安を覚える。けれどもよくよく考えてみれば、私はすでに卒業をした身の上であるからにしてこの上なく関係のない話ではあった。
「うわ、埃っぽいぞ!」
中に入ったカエルが悲鳴を上げた。私も後から入り、思わず眉根を潜めた。
防音された四角い箱のような部屋は確かに埃っぽかった。換気のための窓を探すが見当たらない。放送室に窓はなかった。最悪だ。薄暗い上に汚いだなんて、これほどまでに劣悪な環境はない。
仕方がないので、扉を大きく開け閉めすることで空気の清浄化を図る。壁際に蛍光灯と換気扇のスイッチがあったので躊躇うことなく押した。
パチパチとしばらくの間忙しなく点滅してから、蛍光灯は安定した光を供給するようになった。換気扇の方も何とか正常に機動しているようで、入った時と比べれば幾分かマシになっている。ようやくと人が住むことのできるレベルに達していた。
「分かっちゃあいたが、うちの校舎は相当にボロいよな」
「うん、そうだね。耐震強度もいまいち信用ならないし、きっと地震がくれば一発だよ」
良く言えば伝統ある格式高い校舎というような表現もできるのだけれど、やはりボロいという言葉の方が似合っていた。今時の学校には珍しく、教室にエアコンの一つもない。夜にもなれば幽霊が出そうな雰囲気でさえあった。
「それによく燃えそうだしな」
カエルが茶化して言った。
うちの校舎の半分は木造で出来ているので、あまり洒落にはならないのだけれど。
「ところで、つばめ。知っての通り俺は機械音痴なんだが、お前はその機材の使い方が分かるか?」
放送機材を顎で差すと、カエルはこちらを一瞥する。
「問題ないよ。一年のときに放送委員会だったから、たぶん使い方は分かると思う」
見たところ機材に変化はみられないし、操作の手順が大幅に異なるということもないだろう。
私は近くにあったパイプ椅子を足で引き寄せて放送機材の前を陣取った。きょろきょろと周りを見渡す。何か使えそうなものはないかと視線を走らせた。
「うん、あの本棚なら丁度いい感じ。カエル、悪いんだけれど、君は扉が簡単に開いてしまわないようにバリケードを張ってて」
「……や、その案自体には異論はないが、あの本棚を動かすのか?」
カエルの視線を辿ると、そこには私達の身の丈を少し上回る本棚が屹立していた。これまたよく燃えそうな木製のものである。
とても重そうだなと他人ごとながらに思う。
「頑張って、男の子♪」
私は可愛くらしく見えるように小首を傾げながら言った。その際に極上の笑みを浮かべることを忘れない。
何だか私のキャラとは違うような気もしたけれど、たまには良いかとも思う。結果オーライだ。
「はぁ、仕方ねぇな……」
わざとらしく溜め息を吐いて本棚を持ち上げるカエル。
どうやら剣道部で培われてきた筋肉は無駄ではなかったようで、顔を真っ赤にしながらも何とか扉の前まで運ぶことができた。
「お疲れ、カエル」
軽く労いの言葉をかけてから、すでに私の横に並べておいたパイプ椅子をぽんぽんと叩く。ここに座れということだ。
カエルが腰を下ろすのを見計らって、私は放送機材に向き直った。ここからは私のターンだ。
放送機材のスイッチを入れる。言いたいことを頭の中で纏めるとカエルと顔を見合わせた。お互いに頷き合う。
よし、イタズラ決行だ。
マイクの電源を入れると音量のつまみをあげる。スピーカーの音をマイクが拾わないように注意を払いながらボタンを押した。
ピンポンパンポン、と同じみの軽妙なチャイムが鳴り響いた。思わず迷子の呼び出しを彷彿とさせてしまうような、例のアレだ。
「あー、マイクテスト、マイクテスト」
マイクに向かって話かける。きちんと作動しているのを確認してから、私は言葉を紡いだ。
「どうもこんにちは。三年六組所属の若林つばめです」
「同じく三年六組の河津晃……まあ、人呼んでカエルだ」
私達の声がスピーカーを通じて閑散とした校舎内に鳴り響く。
カエルは本名を名乗ったところで違和感を覚えたのか、結局いつものアダナを名乗っていた。本人もそれなりに気に入ってはいるらしい。
「えー、大変唐突ですが、私達は放送室を占拠しました。先生方は文句や苦情など多々おありかとは思いますが、百年後にはお聞きしますので今は黙っておいてください」
もっとも百年後には私は勿論のこと、先生方もお亡くなりになっているとは思うのだけれど。
そんなカエル曰わく『少しズレている』私なりのユーモアを交えながら校内放送をおこなう。
卒業式に放送室を占拠するだなんて何と使い古されたネタなのだろうかと思うが、これがカエルのやり残したことだと言うのだから仕方がない。
というよりも、実は私も乗り気だったりする。何故ならこれは絶対に生涯の思い出になるから。最後の日に最高の思い出。上等じゃないか。
パッと盛大に打ち上げないと、それは嘘というものだ。
「念のために先に断言しておくのだけれど、この放送は誰にとっても有益なものではありません。だけど私達にとっては決して無駄なものではなくて……」
無駄なものにはしたくなくて。ただのカエルの思いつきと言えばそれまでなのだけれど、やっぱりそれだけではない。
カエル語録から言葉を引用するのなら、これは『心をここに置いておくための決別』で、そのための別れの挨拶でもあるのだ。
「ねえ、カエル。君は何か話たいこととかあるんじゃないの?」
なんせ放送室をジャックしようと言い出したのはカエルなのだから、何かこの場を借りて言いたかったことがあるに違いない。
私がそう訊ねると彼は小さく首を横に振った。
「まあ、最後に言ってやりたいことってのは色々とあるんだが、どうにも俺の乏しい語彙力ではそれを上手く言葉に出来なさそうでな。かえって陳腐な台詞になっちまう。だから、つばめ。俺の分も代わりに言っておいてくれ」
ホントによく言うよ。
私は思いがけず苦笑した。
これだけ舌の回るカエルが語彙力に乏しいだなんて冗談に決まっている。出来の悪いギャグだ。彼が饒舌でなければ一体誰が饒舌だというのか。
私は心底そう思うのだけれど、本人としては自身のことを口下手だと思い込んでいる節があるようだった。
「代わりにと言ってもね、カエル。私は一体何を代弁すればいいのかな?」
問うと、カエルは愚問だと言いたげにわざとらしく肩をすくめた。
「つばめなら俺の言いたいことを察してくれていると思ったんだが……そいつは俺の買い被りだったか?」
「む。いつになく挑戦的な口調だね。両生類のくせに生意気だよ?」
「……両生類ってオイ。まあ、いいや。その人権を限りなくガン無視した暴言は、この際慈悲深き寛大な心で聞き流してやるとしてだ。何はともあれ。後は頼んだぜ、相棒」
そう言って私の肩をポンと叩くと、カエルは薄く笑みを浮かべて黙り込んでしまった。
そーゆー全幅の信頼を寄せられても正直重く感じてしまうのだけれど……。でも、それ以上に私の心は嬉しいと感じているようだった。
人はいつでも誰かの特別になりたがるものだ。必要とされたがる。
だから、相棒と言ってもらえるだなんて嬉しいに決まっているではないか。ましてや他の誰でもない、カエルの相棒なのだから。
その信頼に報いたいと思った。
「えー、今の放送を聞いていた皆様方。というわけで自称口下手な相棒に代わりまして、不肖ながらこの私が放送をすることになりました」
カエルの相棒がツバメというのも可笑しな話だなと考えながらマイクを手に取る。両生類と鳥類ではまるでアンバランス。捕食者と被食者の関係だ。むしろカエルから見れば鳥類は天敵のはずなので、可笑しさにさらに拍車がかかっていた。
「卒業式だからと言って湿っぽい話をするつもりは毛頭ありませんが、私は別れの挨拶だけはきちんとしたいと思います」
区切りでビシッとケジメをつけることのできる人間こそが、本当に格好良い大人だと私は知っているから。この三年間で学んできたことの一つだから。
挨拶は簡潔に潔く。最大限の誠意と最大級の感謝を込めて。
「三年間、本当にありがとうございましたっ!!」
私の声はスピーカーを通じて、学校中に木霊した。
※3
言うまでもないことだけれど、その後すぐに駆けつけた先生によって私達はしこたま怒られた。
カエルに作らせたバリケードが手伝ってか、むこうから放送室の中に入ってくることはできなかったけれども、ここでいつまでも籠城していても仕方のないことなので、私達は自らの意思で外に出た。
廊下に出て待ち受けていたのは、担任だった先生であった。 自分達のやったことを的確に自覚していたので、怒られることに関してはそれなりに覚悟していたのだけれど、まさか先生の目端に大きな涙が溜まっているとは思わなかった。意外だった。
「お前らはっ、最後の最後まで、手を焼かせやがって……ぐすん」
これは先生の言葉である。
中年の男性教諭、本名は国分公彦。アダナはブンちゃん。
厳つい風体に似合わず感受性が豊かなブンちゃんは、涙ながらに私達を説教した。ただその後半からは一年前からの昔話になっていて、最後は携帯の番号を教えてくれた。卒業したのでこれからは対等な社会人だ、ということらしい。
私達はにこにこと笑いながらブンちゃんの説教を聞いていた。一言一句しっかりと胸に刻み込むように耳を傾ける。絶対に聞き逃すまいとした。
だって、彼からの説教を聞くのはおそらくこれが最後だから……。それすらも何だか寂しく感じたのだ。
「まさか優等生を絵に描いたような若林が最後にこんなことをやらかしてくれるとは……。河津に毒されたか?」
そんなことをブンちゃんはボヤいていた。カエルはムッと顔をしかめるが、私はくすりと小さく笑う。
確かにそうかもしれない。
私はそんな風に思った。
カエルと出会って私は良くも悪くも変わった。色々な楽しみも知ったし、様々な悪知恵もつけた。それもこれも全部カエルの影響。
そういう意味では間違いなく、私はカエルに毒されている。
その後、小一時間ほど昔話という説教に花を咲かせていたけれど、窓から見える景色もいよいよもって暗くなってきたのでそれもきりのよいところでお開きとなった。
「どうだ? この後の予定がないなら、卒業祝いに焼き肉でも奢ってやるが?」
そんな気前の良いことをブンちゃんは言っていた気がする。
カエルはキラリンと目を輝かせるけれど、私は思い切り彼の足を踏んづけた。
「すみません、この後は用事があるもので……」
視界の端に悶絶するカエルの姿を捉えながら、私は言った。
「そうか、用事があるんなら仕方ないな……」
残念そうにブンちゃんが言った。
少しだけ胸が痛む。本当は用事などない。いや、あると言えばあるのだけれど、それはただ単なる私の我が儘。
もう少しだけカエルと二人きりでいたいと思ったからだ。
「それじゃあ、何かあったら電話してくれよ?」
ジェスチャーで電話をする仕草をみせるブンちゃんに私は頷いた。
本当に良い先生に会えて良かった。
私とカエルは並んで頭を下げる。するとまたブンちゃんの目に涙が溢れ出した。つられて私も何だか泣きそうになる。
「それでは先生、さようなら。またね」
いつも通りの軽い挨拶。また明日も教室で会うかのような気軽さ。
涙を流すブンちゃんに軽く手を振ってから背中をむける。後ろ髪をひかれるとはまさにこのことだと思った。
「……ハンカチ、いるか?」
背中を向けた瞬間、決壊したダムのように涙が溢れ出した。横を歩いていたカエルが訊ねる。
……まったく。こういうときは黙ってハンカチを差し出すのがジェントルマンだろう。
そう心の中で悪態をつきながらも、私は黙って頷く。
今だけは無防備なカエルの優しさに甘えていたかった。
※4
学校から出る頃にはすでに夜であった。
とはいえ、まだ宵の口と言った具合で、辺りは仄かに薄暗い程度だ。
校門のところまで来る頃にはすっかりと私も落ち着いていた。むしろ不覚にもカエルに泣いているところを見られて気恥ずかしくもあったので、心理状態は安定しているとは言い難かったのだけれども……。
校門を出た私達は立ち止まり振り返る。そしてお互いに目配せをして頷きあった。
それだけで意志の疎通には充分だった。
「「ありがとうございましたっ!!」」
もう一度、私達は深々と校舎にお辞儀をする。
三年間お世話になった校舎へ。先生方や友人、クラスメート……全てのものに。
別れの挨拶をした。これでもうこの学校に未練はない。思い出はあるけれど、未練はないのだ。
だから再び歩き始めた私達は振り返らない。新たな出会いに繋がる一歩だった。
「そういえばさ、もうこの制服も着納めだよな」
帰路に着いて、しばらく歩いたところでカエルは言った。
「まあ、そうだろうね。卒業した後も着ていたら、それはコスプレってやつだね」
私は冗談めかして肩をすくめた。
「コスプレ、ね。俺は結構好きだったんだがね、うちの制服」
「へえ。それは初耳だね。カエルが制服萌えだとは思わなかったよ」
うちの制服はブレザータイプのものだ。
落ち着いた紺色のブレザーに燕地色のネクタイ。それに女子のスカートはチェックのスカートだった。
制服が可愛いからとうちの高校に入学した女子は、決して少なくないと思う。
「おう、つばめの制服姿は結構似合ってたぞ?」
それはほとんど不意打ちだった。
一瞬にして頬が熱を帯びる。心音が早まった。
卒業という独特の雰囲気が彼にそう言わせたのかと思ったが、私は即座にその考えを否定した。
違うのだ。カエルは普段から何の気なしにクサいセリフを吐きまくるという悪癖がある。病気と言っても良い。
だからこれはその症状なのだ。
「カ、カエルも、その……制服、似合ってるよ?」
何を今更緊張しているのかと、もう一人の冷静な自分がツッコミを入れる。我ながら実に情けないことだった。
「ん、ありがとな。世辞でも嬉しいよ」
屈託のない笑顔でにっこりと笑うカエル。
彼はと言えば特に気にした風もなく、本当に嬉しそうにそう言った。
──なんだかムカつく。
誠に勝手ながら私はカチンときていた。自分一人がカエルの挙動に逐一どぎまぎするというのは、大変納得がいかない。不条理だ。理不尽だ。
惚れた弱みとか。好きになった方が負けとか。そんなこと知ったことではなかった。
「ああ、そうだ、カエル」
だから私はそんな素振りなど一切見せずに、いつも通りに振る舞う。
平時と変わらぬ態度を取った。
「良かったら記念写真でもどうかな?」
今、私達はちょうど帰路の途中に位置する県営の公園前にさしかかっていた。この公園は子供が遊ぶための場所というよりも、自然公園といった目的の方が強いため遊具はあまりない。その代わりに各種様々な木々が植えられていて、その中でも等間隔に並ぶ街灯にライトアップされた桜の木が綺麗だった。
私達しか人がいないというのも都合が良い。いや、タイミングが良いのだろうか?
ともかく、写真を撮るには絶好の機会だった。
「そういや、つばめはさっきからずっと写真を撮ってたよな」
そうなのだ。実は先ほど校舎内を周りながら写真を撮り続けていた。
美術室から始まり屋上まで、一つ残らず。流石に放送室までは撮っていないのだけれど。
「おうよ、じゃあ撮ろうぜ」
気前よく首肯するカエル。
私はさっそく愛用のデジカメのタイマーを設定すると、桜の木の前でカエルと二人、横に並ぶ。
満面の笑みでニッとブイサインを送るカエル。私はその横でどんな表情をして立っているのだろう?
ちゃんと笑えていたらいいな……。
自分のできる精一杯の表情で私は口元を綻ばした。
「なあ、つばめ」
再び夜の道を歩きながらカエルが呟くようにして言った。
「ん? なに?」
聞き返しながら空を見上げる。
見事なまでに空は満天で美しかった。広大な暗幕にダイヤモンドが散りばめられているようで、思わず吸い込まれてしまいそうになるほどだ。
「あの、写真さ。勿論俺にもくれるんだろう?」
その言葉は少しだけ意外だった。
思い出は物に宿るのではなく、心に宿るのだ。
以前にそう断言したのはカエルではなかっただろうか?
ちなみに今のセリフも『カエル語録』からの引用ではあるが、確かにカエルはそう言っていたはずだ。ゆえに物には執着しない質かと思っていた。
私がその旨を伝えると、カエルは静かに苦笑する。
「ばーか、あの写真は特別なんだよ。レアだぜ、レア」
「や、君にバカと言われる謂われはない……というよりも、大変遺憾なのだけれど。それは私が写った写真が欲しいと解釈しても構わないのかな?」
そうだったらいいなと、希望的観測を込めて言葉を紡ぐ。
やはりバカは私の方で相違なかった。
「ああ、そうだな。俺はお前の写ったあの写真が欲しい」
しかし、カエルはきっぱりとそう言い切った。
それってもしかして……。
私の胸は期待に高鳴る。再 び頬が熱を帯びたように高揚していく。
「だって、つばめの顔が面白かったんだもの」
そして私のテンションは奈落の底まで落ちた。
やはり私は上手く笑えていなかったらしい。思い切り頬が引きつっていたようだった。
そして、それはともかくとして。
この男は……、どれほどまでに鈍感だと言うのか。
沸々と自分の中に暗い感情が浮かび上がるのが分かった。所謂、殺気と呼ばれるもの。
ある意味では予想を裏切らないカエルの朴念仁ぶりではあったけれど、それにしても酷すぎる。非道すぎる。
少しくらい多感で一途な乙女心を察してくれても良いのではないかと思う。
「……はぁ」
完全に惚れる相手が悪かった。
我が友人はそういう色恋沙汰には全くと言ってよいほど無頓着だ。私も人のことを言えたような立場ではなかったが、彼のそれと比べると幾分かマシであるように思えた。
とぼとぼと夜道を歩く。学校を離れて数十分が経過していた。そして今更ながらにカエルが気がつく。
「あれ? こっちはつばめの家とは違う方向だよな?」
そうなのだ。私の家はここから正反対……とまではいかないが、もう少し東側に位置する。
ここは私の通学路ではない。
「あはは、間違えちゃった。暗くて道が見えにくかった所為かな?」
私はおどけて間違えたと言う。
本当は、少しでも長くカエルの隣にいたくて、わざと遠回りしていただけなのだけれど……。
でも、そろそろここらが潮時かもしれない。
丁度私達は三叉路にさしかかっていた。ここから真っ直ぐに進むとカエルの家に。ここから右手に曲がって迂回すると私の家へと辿り着く。
ここが明確な別れ道だった。運命の別れ道というと些か大袈裟すぎるけれど、私にとっては事実そのようなものだ。もうこれ以上は先延ばしにはできないから。
「今日は有り難うね。陳腐で薄っぺらい言葉だけれど、本当に楽しかったよ」
言わなければ。
伝えなければ。
ちゃんと言葉にしなければ。
そう思う反面で、臆病な私はそれとは別の言葉を紡ぐ。
「おう、俺も楽しかった。今日だけじゃないぞ? つばめと出会ったこの一年間は、毎日が嘘みたいに楽しかった。お前は最高の親友だよ」
……親友。
その言葉に私の心が悲鳴を上げる。鋭い刃で穿たれたかのようにズキリと痛んだ。悲しいほどに傷んだ。
ああ、言わなければ、伝えなければ……。
いや、言わなくてもいいのだろうか。せっかく親友と呼んでくれるまでになったのだから……。
私の中でとめどなく膨れ上がっていく想いと、身の保身に長けた狡猾な打算がせめぎ合う。混ざり合ってぐちゃぐちゃになる。境界が希薄になっていく。
「じゃあ、もう今日は遅いし、名残惜しいけれどお別れだな。じゃあな」
そう言ってニッコリと笑うと、とうとうカエルは背中を向けて歩き出してしまった。
その一歩一歩が酷く遠く感じて、離れていく心の距離のように感じて、私はたまらずに叫んだ。
「待って、カエル!!」
それはほとんど無意識下での反応だった。反射と換言しても良い。
ん?、と緩慢な動きでもって首だけこちらに向けて振り返るカエル。不思議そうな表情を顔に貼り付けて、首を傾げていた。
……全くどこまで鈍感なんだ。
「あのね、カエル。私、君のことが……」
だからこそ心が決まった。
今、ここで伝えなければこの男には一生気がついてもらえそうにはないから。親友のままでいいとか、そんな生温い考えではこの男に届きはしないから。
私が高校三年間でやり残した未練は今ここで清算する。本当に私が別れがたかったのは学校ではなく、カエルだった。
「私、カエルのことが好きだよ!!」
言った。言ってしまった。
もう後戻りはできない。否、決意を決めたときから、もとよりそのようなつもりはない。
ドキドキと鼓動が早まった。心音は加速する。
カエルは一瞬驚いたように目を見開いた。そしていつものようにニッコリと満面の笑みで表情を象る。
「おう、俺もつばめのことが好きだぞ。じゃあな、お休み」
そう言ってカエルは後ろ手にひらひらと手を振ると、再び背を向けて歩き始めた。
……どうやら私の想いは届かなかったらしい。
しかし、不思議と後悔はなかった。自分の望んでいた結末通りにはいかなかったけれど、それでも最後にカエルの笑顔が見れたのならば良いのだ。
そう思えるほどには私はカエルのことが好きで、どうしようもなく大好きだったらしい。
言いたいことも言ってスッキリとした。春の夜風はほんの少しだけピリリと冷たくて、今の自分には丁度良かった。
「……さてと、私も帰るかな」
いつの間にか零れ落ちた涙を、カエルから借りたままのハンカチで拭う。
今夜は月の綺麗な夜だった。
※5
それから数週間の月日が流れた。
それから、というのは、卒業式からということである。
今現在、私はダンボール箱の山に囲まれているという奇妙な状態であった。殺風景な部屋に乱雑に煩雑するダンボール箱の数々。
この春から私は、地元から離れた大学に通うこととなっていた。そのために大学からほど近いアパートに入居したのだ。一人暮らしというやつである。
しかし、入居したのは今日の昼間であって、まだご近所さんに挨拶を済ませていない。ただどうせこの時間帯に出向いても家を空けている方もいらっしゃるだろうし、それならば夕方になってから出向こうと思っていたのだ。
まあ、時計を見る限りでは、もう夕時と称してもなんら問題のない時間となっているのだが……。
「とりあえず、このダンボールを片付けたら挨拶にいきますか」
虚しく独り言を呟く。
それが新生活の不安から表れたものなのか少々理解に苦しむけれど、あまり良い兆候ではなさそうだった。このままでは一週間足らずでイタい奴になってしまいそうである。
ダンボールを封していたガムテープをべりべりと剥がす。これがなかなかに爽快な音を立てるものだから、ストレス発散には打ってつけだった。
それはともかくとして。
中から出てきたのは数枚の写真であった。そっと手に取る。思いがけず見入ってしまった。
そこに写っているのは母校の写真。美術室から始まり屋上までの写真。そしてその写真には必ずといって良いほど一人の男子生徒が写っている。
相変わらずのだらけた表情を見て、私は思わず苦笑する。彼の顔を見るのは数週間ぶりだった。僅かに胸がチクリと痛む。
最後に出てきたのは桜の木の下で撮影したもの。こちらにはカエルだけではなく、私も写っている。
「……あはは」
確かに、以前カエルが言っていた通り私の顔はかなり面白いものになっていた。無理して笑おうとして口元が引きつりまくっている。
写真をとんとんと揃えて脇に置く。そして次にダンボールの中から出てきたのは『カエル語録』と銘打たれた手帳と、一枚の画用紙だった。
画用紙のほうは卒業式のあの日、カエルが私の似顔絵を描いてくれたものだ。
そういえば、カエルは本当に私が描いた『カエル』の絵を飾ってくれているのだろうか?
そんなどうでも良いことが気になった。もう私には関係のないことなのに……。
「我ながら本当にバカだ」
本日二度目の独り言は自嘲気味だった。
カエルとの思い出のものしか出てこないダンボール箱。それが何を意味するのか。
それを考えると私は本当に、どうしようもないくらいに、愚かで、阿呆で、バカだった。
不意に携帯のアラームがなった。
自分で午後5時になると鳴るように設定していたものだ。時間がきたら、ご近所の皆々様に挨拶に出向こうと思っていたのだ。
私は近くに用意してあった手土産を手に立ち上がる。地元ではそこそこ有名なお菓子だった。所謂、ご当地ものというやつである。
家を出てすぐ、まずは右手隣の家に向かうことにした。特に理由はない。強いて挙げるとすれば、何となくだ。
不思議なことに、その家に表札は掛かっていなかった。しかし入居したときに聞いた大家さんの話では、確かに人は住んでいるという。
……謎である。
そんなとき、ふと隣の自分の部屋が視界に映った。当然ながらにまだ私の部屋の表札も掛かっていなかった。今日入居したばかりなのだから当たり前だ。
そこまで考えて私は閃く。天啓とまではいかないけれども、確かに閃いた。
もしかすると、お隣さんも最近入居して来たばかりなのかもしれない。
そんな益体もない考えが頭に浮かんだ。推理というよりも推測。ともすれば憶測である。
どうでもいいことを考えながらインターホンを押した。応答はなかった。二度、三度と鳴らす。やはり応答はない。
……これ以上は迷惑か。
そう考えて踵を返そうとしたとき、中からドタドタという騒がしい音が聞こえた。どうやら留守ではなかったらしい。
しばらくの間を置いて、ガチャリと扉が開く。
「……んなっ!?」
中から出てきた人物を見て、私はこれでもかと言うくらい驚愕した。
目を見開くといったレベルではない。目が飛び出そうなほどに驚く。
「おっす、つばめ。久し振り」
そう言ったのは嫌というほど聞き慣れた声。
身長は私の頭より一つ分ほど高く、スラリと手足も長い。顔つきは端正と言えなくもなかったが、いまいち生気が感じられない。やる気のなさそうな表情の彼。
中から現れた人物、河津晃ことカエルは、してやったりと言った風にニヤリと笑った。
「え、ちょ、うぇ、は?」
「何語だ、それ?」
いい感じに気が動転して呂律が回らない私に、ニヤニヤとカエルがツッコミを入れた。
「カエル。なんで君がここに……?」
私は何とかそれだけを言った。我ながらよく頑張ったと思う。
カエルはそれを聞いてにっこりと微笑んだ。
ニヤニヤと意地の悪い笑みではない。あの日と同じ、私が好きな笑みで微笑んだ。
「何でって言っただろ? 俺もつばめが好きだって」
無邪気な笑顔で邪気いっぱいの発言を投下するカエル。
しばらく私の脳内がフリーズする。
「〜〜〜〜っ!?」
そして解凍されると同時に叫んだ。
それは声なき叫び。驚きのあまり声が出ないというのは、まさにこのことだった。
「……や、そんなに驚かれると地味に傷つくぞ?」
呆れたようにカエルが言った。
私は持ち前の理性と精神力をフル動員して何とか心を落ち着ける。心頭滅却だ。
無心になれ。今の私は仏なのだから。
「……いやね、どーせ朴念仁のカエルのことだから好きって言ったのも友達的な意味でだと思ったわけですよ」
なぜか敬語で話すという不自然さもあったけれど、何とか会話ができる程度には私は落ち着きを取り戻していた。
「いやはや、あのクールなつばめさんが驚く姿を見られるとは役得だな」
うんうんと頷くカエル。
何だかものすごく悔しい。
たかが両生類ごときにいじられるだなんて、屈辱以外の何ものでもなかった。
「いまいち分かっていないみたいだから、もう一度言うけど、俺はつばめのことが好きだよ。勿論、恋愛的な意味でね」
その一言で屈辱感とかそういう一切合切の有象無象が跡形もなく霧散した。もうどうでもよくなった。というよりも疲れた。
「……まさかあのカエルに恋愛感情というものがあったとは驚きだ」
少しやけになって私は呟く。
ここまで醜態を晒しておいて今更取り繕う必要もないだろうと判断したためだ。
いや、もとよりカエルに対して取り繕ったことなどなかったのだが。
「それで? 何で君がここにいるの?」
「んー、実はだな……何つーか、俺もこっちの大学に通うことなってな」
「は?」
待て待て待て。
確かカエルの志望していた大学は関西圏で、私の志望していた大学は関東圏だ。
何故に関西から関東へ?
……と、そこまで考えて私はとある可能性に行き当たった。
「もしかして、カエル……すべった?」
私が言うとピキリとカエルの表情が強張る。見事なまでの瞬間冷凍。触れれば壊れてしまいそうだった。
そして数秒の後、苦笑とともに自然解凍されたカエルは首肯した。
「はい、いかにも。第一志望の大学にすべったので、すべりどめで受けていた関東圏の大学に入ることにしました」
すっかりと開き直った口調のカエルはそう言った。
なぜか今度はカエルが敬語だった。その理由は何となくだが察しがつく。
おそらくあれほど私に勉強を教わっておいて、すべったというのが決まり悪いのだろう。
「……で、まぁどうせ関東圏に来るなら、つばめと同じアパートがいいなぁと思ったわけですよ」
「でも、そーゆーのを世間一般ではストーカーと呼ぶのだけれど、そこんとこどーよ?」
私がそう返すとカエルはニヤリと不敵に笑った。
これは意地の悪い方の笑顔だった。でも、この顔も、嫌いじゃない。
「ストーカー、ねぇ。つばめが嫌がるなら、俺は他のアパートに住むけれど?」
「……いや、別にそこまでは言ってないよ」
……だって。
せっかく会えたのに、離れるのは寂しいし。
そんな私の思考を見透かしてか、いけしゃあしゃあとカエルは言う。
「そうだよな。なんせつばめは俺のことが好きだもっ……」
「調子にのるなっ!!」
「ぐぁっ!?」
間髪入れずに、私はカエルの顔面に容赦なくグーパンチを叩き込んだ。
鈍感だと思っていたら、急に敏感になって。調子にのって。なんだかヤな感じだ。
──本当にムカつく。
私は踵を返すと、隣にあった自分の部屋の扉を勢い良く閉めた。
本当にムカつくくらい、どうしようもないやつだ。そして私はどうしようもないくらいにカエルのことが好きらしい。大好きらしい。ベタ惚れのようだ。
自然と頬が綻ぶのを感じた。
一人暮らしもあいつが隣ならば悪くはない。何より『カエル語録』をまた記録できる。
私は玄関扉に背を預けながら、予感した。確信した。
これからの大学生活はきっと楽しくなる。
私とカエルがいて。
鳥類と両生類という有り得ない組み合わせの二人がいて、楽しくならないわけがなかった。
「あ」
結局、私がご近所さんの挨拶に回っていないことに気がついたのは、日付が変わってしばらく経った頃であった。
これも全てカエルがいけないのだ。不意打ち同然に私を驚かせたりするものだから……。
そして、私はさっそくとカエルに責任をなすりつけるのだった。
【Memorys/了】
supercellさんの『さよならメモリーズ』を聴きながら読むと雰囲気が三割増しです。
ここまで読んでくださった方はお疲れ様でした。