うみでのはなし
***
二〇〇〇年十二月三日の、あなたへ
最近、寒いですね。
あなたは、お元気でいらっしゃいますね。あなたは、いま目の前で、窓に身を出して、たばこをすっていらっしゃいます。十一月二十四日の夜です。一週間ぶりにあえました。今日のことを、また一週間後のあなたはおぼえていらっしゃるかしらん。
一週間後、あなたはお誕生日です。だからつづっています。それまで、お元気でいらっしゃいますよね? 風邪なんかひかないでくださいね。せっかくのお誕生日なのに、ベッドのうえでうなされるあなたのよこで、これを読むのなんてたえられません。だから、いや、いつまでもお元気でいらっしゃってくださいね。
お誕生日、おめでとうございます。
あなたが生まれたこと、とても嬉しく思っています。すこしクサイせりふかもしれませんけれど、ほんとうにそう思ってるんですよ。あなたは、きっと、これを言ったら、うそつきだとか、いちいち言葉にしなくていいとか、そんなことおっしゃるだろうけれど。わたし、すごくそう思っているから、せかっくなので、言葉に残しておきたいんです。すきです、とても、あなたが生まれてきてくれたこと、とてもうれしい……。
***
地平線は、とおくに広がっている。
わすれさられた波は、それでもしずかに砂浜によせ、うみはただたいらかに、ねむるように穏やかだ。ざざん、ざ、ざざん……、その音いがいはなんにも聞こえない。この場にそぐわない革靴は、なめらかな砂にうもれ、つまさきが見つからない。めんどうなので、そのまま捨ててしまおうか、そう思って、やっぱりやめた。
―――ねえ、それでいいんですか。ふと声がかかって、振り向いてみると、となりに彼女がいる。ねえ、それでいいんですか。またかかった声に、何がと視線でといかければ、―――くつ、汚れますよ。ひかえめにふせられた睫が、彼女の顔に小さなかげをつくった。やはり、誰の目からみても、砂浜に革靴、というのはたえられないものがあるらしい。ざらざらしませんか、と彼女はほんのりと顔をしかめて、革靴に目をよせる。
―――さあ、いいんじゃないか。適当に言葉をみつくろって、また視線を遠くに寄せる。ああとおい、地平線は、どこまでいっても広がっており、あそこに到達することなど、不可能なのだ。地球はまるいから、とおのいて、とおのいて……その事実がなんとなくかなしいのは、いまだけじゃなく、昔からだ。
とおい地平線のほうへおもいをはせるのへ、となりの彼女が不満そうに、―――ねえ、なにかおはなししてくださいよ。と言うので、彼は口を開いたのだった。
昔、かなしいことがあったんだ。そうきりひらけば、彼女は短い髪をゆらし、その声に耳をかたむけた。
「―――おれは昔、かなしいことがあったんだ……、ちいさなときから、ずうっとずうっと、それをいだいてきた。おれには親がいないから、このかなしいのを誰にもぶつけることができなくて、いつも、それをみつめるたびにかなしくて―――、どうして、地平線は手に入らないんだろう。ちいさいときから、ずっとかなしかった。地平線をもとめて、ある日ふねをもらった。ちいさなふねだよ。あかい線のはいった、かわいらしいデザインの。けれど、一生懸命にふねをこいだけれど、いくらふねをこいでも、それは手に入らないんだ。ちいさなふねだったから、だからむりだったのかもしれないって、そう思って、大きなふねにのりこんだ。そこで、たくさんの……わるいことも、いいことも、全部してきた、そのうちにふねはきっと地平線をてにいれると思っていたのに、いっこうにてにはいらないんだ。それどころか、地平線をもとめればもとめるほど、とおのいていく。おれがほしいとおもえばほしいとおもうぶん、地平線はすりぬけていくんだ。
……どうしてだろう、どうして手に入らないんだ、そう思ったらある日、言われたんだよ。地平線は手に入らないんだって。だって、地球は丸いから。丸いから、地平線なんてただ目に見えているまぼろしなんだって。あなたはまぼろしばかりを追いかけるんですねって。
それを知ってしまっても、いまでも、そのまぼろしがほしいんだ。たとえうそっぱちでも、それでもいい。……けれど、それは絶対にむりな話なんだよ」
……だって、ちきゅうはまるいから……彼はかなしくなって、つまさきを蹴った。なめらかな砂は抵抗することなく飛んでいく。ひとつぶひとつぶ、まるで星がまたたくようにきらめいて、風に、すこしだけ舞った。
となりの彼女は、それを見つめていた。彼は、その彼女を見つめていた。じんわりとその黒目にうかぶ後悔のあとを見て、彼は、彼女をだきしめた。彼女は背中に手を回さない。しかし、……ちきゅうはまるいんですよ、ただ、ひとこと腕の中でつぶやいた。
まちがいであることはようく分かっている。それでも彼は地平線があることを信じたかった。この手で、足でふれられるものと信じていたかった。ふたたび夢見る日々がくることも、やさしさにつつまれることも、ずうっとずうっと……、この腕のなかの彼女についても。
彼のポケットの中には手紙が入っている。元来まっさらだったはずの封筒も、すこしの年月に、ほんのりと黄ばんでいる。そのなかには写真がはいっていて、それもすこしだけ、年月にさらされているのだった。
彼女はそれを知っている。
しかしポケットに手は入れず、それを残して彼をおいていくのが、どれほど残酷なことなのかもよく知っていた。
しかし、別れのときは近づいている。彼女は彼のからだを遠ざけて、かぶりをふった。拒絶の意味ではない。するかしないかでいったら、しない。まだ彼女はこころに彼へのこいの、名残をもっている。だから、涙と一緒にそれを振り切りたくて、小さく頭をふったのだった。
―――あなた、やっぱりすなはまに革靴はだめですよ。ぽつりとこぼした言葉に、彼は、すこしだけ笑ってくれたのだった。
***
……欲しいものはときいているのに、あなたときたらないとおっしゃるから、勝手に用意しました。ものなんていらないなんていうかもしれないけど、こうやってかたちあるものを残さなければ、わたしはすこし忘れっぽいから……、うみの写真を同封します。冬のだから、すこしさびしい風景だけど、夏になったらここは意外にもたくさんにぎわうんですよ。けれど、あえて冬にしたんです。冬のほうが、すきだから。うつくしいでしょう、すこしさびしいのが。「地平線て、なんとなくさびしいですよね」この言葉がきっかけでしたね。だからこそ、なんですよ。
最後に、なるけれど、ほんとうにいつもありがとう。あいしています。
この時間がずうっと続きますように
十一月二十四日のわたしより
***




