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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第95夜 二拠点エンタングルメント

「帰る場所をより実感できるのが旅じゃないか」

庄太郎が熱さを増すのは身の置き場の話をする時だ。

「一人で馴染みのない場所に身を置くとな、いや通過するだけではだめだ、そこで一晩でも夜を越さなくては本当の土地の個性を知ることはできない。温度や湿度、太陽の軌道、風や波や虫の音、いろんなものでその土地に個性が出るんだ。夜はそれを一番よく思い知らされる時間だ。できればテントに寝るのが一番いいな。鹿が布一枚のすぐ向こう側を歩くなんてお前の暮らしてる東京じゃああり得んだろ」

「当たり前じゃないですか。庄さんも去年までは同じ東京暮らしだったのに、すっかり田舎の人になっちゃいましたね」

「おい西河、ここは田舎じゃあないぞ。楽園だ」

「だいたい移住した人はそう言うんですよね。寒い、虫が出る、買い物が遠い、不便なことだらけで楽園はないでしょ」

「心の安住場所が楽園なんだ」

 庄太郎は昨年デザイン事務所を弟子の西河に任せ引退した。商業デザイン、特に食品パッケージのデザインがメインだったため、海外に足繁く通い既視感のないデザインを貪った。東南アジア、中東、南米、アフリカ、その多様性に奮い立つとともに風土が生み出す個性に強く引かれた。和辻哲郎は著書『風土』の中では空間が生み出す差異を風土として記したが、庄太郎は世界を巡って思い知らされた差異を独自に“発露”と呼んだ。脈々と続く個性の流れの最初の一滴が生まれたその時の概念に強く固執しているからと言えた。確かに和辻の言う空間は差異を生み出しうるが、発露しなければ形を成していかない。デザイナーという性からか、あるがままではなく何かしらの手業をもってよしとする感覚は抜けないのだ。

「この楽園を終の住処と決めたのは、あるきっかけからなんだ」

庄太郎はそう言うと芋焼酎のお湯割の湯呑みを欅一枚板の手作りテーブルに置き、隣の部屋に消えた。

「庄さん、足元ふらついてますよ、気をつけてくださいね」

西河は庄太郎がこの富士山麓の山荘に移住してから月に一回は様子伺いに来るようにしているので、大概の配置は心得ていたが、庄太郎が消えたのは家の死角とも言える床下だった。傾斜地に建てられているこの古屋は傾斜に沿って基礎を立ち上げられており、そこを地下室としているのだった。そこへは茶室の躙口のような屈まないと潜れないドアから入る。西河が後を追っていくと蛍光灯のついた結構広い空間にはたくさんの壺が並んでいる。間違いなく神保町の中華料理屋の店先に「ご自由にお持ち帰りください」と書かれていた紹興酒の空き壺だ。あれを庄太郎はせっせとここに運んでいたのだ。奥から一つの壺を抱えて庄太郎が戻ってきた。

「何だ、いたのか。みんな仕込んであるんだがこれは特別だ。まあ部屋に戻ろう」

まだ正気の西河がその壺を請け負うと重さは想像以上だった。明らかに液体以外のものが入っていそうだ。味噌? 漬物? 考えつくのはそのくらいだった。

「重いだろ、味噌や漬物だと思ってるだろ、違うよ酒だよ」

庄太郎持ち前の読心力で見透してくる。酒にしては明らかに重いが…。

 部屋に戻り欅テーブルの上にそれを置くと、もったいぶることなく口を固く結んでいた太い紐をナイフで切り落とした。その下で栓を覆っていたビニールを外すと強いアルコールの匂いが立ち込めるが、これまで嗅いだことのない種類のものだ。明らかに果実やハーブではない。

「ほら」

庄太郎が木の栓をこじ開けるとランタンの鈍い灯りに照らされたものは所々光を受けて艶めく粒たち。発酵の泡ではなく醤油や味噌の大豆でもない。覗き込んでみるが西河の頭が影を落としかえって暗くて見えない。見かねた庄太郎が手渡してくれたランタンを近づけてわかった。蜂だ。

「わかったか。ミツバチなんかじゃねえぞスズメバチだ。しかも3cmはあるでっけえやつだ」

「こんなの飲むんですか? アナフィラキシーになっちゃいますよ」

アナフィラキシーが大丈夫なのは調べ済みだ。飲むだけじゃく傷に塗ってもいい。蘇生力が格段にアップする。この古屋を譲り受けた時はな近所じゃあスズメバチ館って呼ばれるくらいでっかい巣が造り酒屋の杉玉みてえに目立つところに堂々とぶら下がっててな、そこに取っ替え引っ替えでっけえ蜂が出入りしてんのよ。もちろん業者に頼んだけどさ、あんまり奴らが立派なんできちんと弔ってやろうと考えた結果が酒だ。あの毒は血液に乗らなきゃ薬になる。そんであの強壮効果のローヤルゼリーもおまけでついてくるんだ。ハブやマムシのとはそこが違う」

「処理業者は呆れてたでしょ」

いや、結構そういうリクエストは多いらしい。ただこんなにも膨大な蜂を漬け込むケースは稀だそうだ」

 西河の庄太郎詣は続き、かれこれ2年近くなった。もはや東京の門前仲町にある自宅マンションと富士山麓の二拠点生活と言っても過言ではなかった。中央道、道志みち、東名道、246と気分を変えたルートで向かう道中も、普段時間の取りづらい読書に充てることができた。正確に言うと聴書、つまりオーディブルによる朗読だ。AI音声の朗読ではなく役者による朗読というのがいい。往復4時間の移動時間で1.3倍速にすると役者の声は少し高音になるきらいはあるが、その分中編小説は一往復で読み終えられる。音楽やラジオのような華やかさはないが、黙って同じ人の声を聞き続けるという稀な時間は、一種のメディテーションとも言えた。言った先の山荘ではひたすら庄太郎の声を聞くことになるので、その準備とも言えるが。

「庄さん、すっかり東京には来なくなりましたね。いつか庄さんが話ししかけた、ここに移住した理由聞かせてください」

「ああ話してなかったか。じゃあまずはいいか、俺は田舎を捨てたんでも東京から逃げたんでもないんだからな。それらで過ごした時間は俺の中に計り知れない経験を刷り込んだんだ。それが今の俺のベースになってると言ってもいい。西河、お前エンタングルメントって知ってるか?」

「あの量子力学の…、そうそう量子もつれとかいう理論ですよね」

「そうだ。いくつかの素粒子がずっと離れて存在してても、過去にお互い作用したことがあればその関係は続くって言うもので、俺のはまさにそれだと思ってる」

「ずいぶんアカデミックな理屈で来ましたね。それは庄さんだけじゃなく私にも当てはまるんじゃあ…」

「だからこうして毎月何度か来てくれるんじゃないか。お前さんにはもうここが対になってしまってるんだ。東京にいるお前さんの頭の中はこの12月の枯野が広がってるんじゃないか? クライアントと会社の板挟みのストレスもその光景で何とか耐えられているんだろう?」

「おっしゃる通りです。私の中には雪景色っていうのもあります」

「な。俺もそうだった。そんなのが繰り返されるうちその生活を逆にしたくなったんだ。故郷から東京を想い、東京に来てからは故郷みたいな田舎を想い、この富士山麓に釣りしに通ってるうちその想いが占拠して、引退と同時に入れ替えたってわけだ」

「旅は帰る場所のありがたさを実感できるって言ってましたけど、住むとなるとそれを逆転させるってことですもんね」

「そうだ。一晩じゃあわからない土地の呼吸みたいなのが分かってくる」

「土地の呼吸?]」

「リズムっていうのか、心動っていうのか、大きな波だ。おそらく無限の想いがエンタングルして波を生み出しているんじゃないかってのが俺の説だ」

「庄さん、さっきの量子力学の話に戻りますけど、離れているって私たち地球生物だけの概念で、物理学的な高次元には時間も距離の概念はないんですよね。つまり私がここと東京を時間をかけて行き来しているのは、体の血流みたいなものなんでしょうか?」

「それはいい例えだ。想いが心動を生みそれが呼吸となり血が巡る。それが必然だ。身を置きたいところに身を置くのは必然と言える」

「居たい場所がたくさんある場合は?」

「たくさんあったら何泊も出来んだろ。2カ所くらいがちょうどいいんだ。それもそのうち一つになるだろうがな」

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