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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第90夜 竹林のケアハウス

「佐藤さん、牛乳残したらダメじゃない。こないだも鎖骨折れちゃったんだから、ちゃんと飲んでおいてくださいね」

「そんなこと言ったって緑さん、俺は昔っからファミマのさっと溶ける粉コーヒーを牛乳で割って飲むのが朝の習慣だったんだ。それをあんたたちがコーヒーはダメなんて言うから、いきなり素の牛乳をそのまま飲めなんて言われてもすみません無理だわ」

「ダメです。そんな子供みたいなこと言わないでください」

「じゃあさっと溶けるコーヒー持ってきてくれよ」

毎朝のこのやりとりにいい加減堪忍袋の尾が切れた清田さんが割って入る。

「佐藤さん、確かあんたの故郷の新潟には安田牧場ってのがあったよな」

「そうよ、あそこの牛は新潟で一頭最初に呼び寄せられたジャージー種なんだ。美味えぞ、なんてったってコシヒカリの藁を食ってんだからな」

「佐藤さん、あんたのその紙パックよく読んでみな」

「いつもの高寿苑牛乳じゃねえか。チェーン展開しているからって、なにもこんなオリジナルの牛乳作ることねえだろ」

「もっとよく見ろって。成分表の下だよ」

「成分なんてどれも一緒じゃねえか…。…ん?」

「だろう? 製造元はお前さんの安田なんだよ。それも知らずにお前さんは毎日つっ返してきたんだ」

「緑さん、早く言ってくんなくちゃ!」

「出鱈目だよ、あんた」

 竹寺として有名な報国寺に隣接するケアハウス高寿園は全国展開する高齢者ケアハウスだが、各施設が寺社隣接という立地にこだわっているため人気で、入居者もその意味を知っている向学心の高いシニアが多かった。施設がこだわったのは、借景としての永久性だけではなく、その緊張感だ。

「清田さん、あんたはいつもその本を読んでるが、何度も読んでて飽きないのかい?」

「これか。この禅語録はな私の田舎町の坊さんが書き溜めたのを地元の新聞社が出版したもんなんだが、ここまで言葉を集めたもんはそうはないんだ。私は齢85になるが、読むたびにそれぞれの言葉に新たな解釈が浮かぶんだよ。あんた乾屎橛かんしけつって知ってるか?」

「昔尻拭いてたヘラだろ? 禅語にあるのも知ってるがその教えは忘れちまった」

「あれはな、尻を拭くヘラみたいに淡々とその身の役目を果たせ、と一般的には言われてるが、ヘラなんかじゃなくクソそのものだと言うものもいる。悉有仏性、つまりクソも仏だって言うんだ」

「そりゃずいぶん飛躍したもんだな」

「俺はな、今朝布団の中でこれを読んでて思ったんだ。こうして思いを巡らすことをクソに喩えたんじゃないかってな。クソは毎日無意識に体からアウトプットしているが、決して怠ることはないわな。どうしたって催すからな。でも思いは怠る。ボーッとしてるのは楽だもん。でもそうするとクソみたいに詰まるんだわ。そんで気がついた時に青ざめる。快思快便が一番なんだな」

 この談話室も高寿苑の売りで、一番の借景をここに据える。京都南禅寺館は碧雲荘の池から寺の大方丈までのパースペクティブが特徴だったりするが、ここ鎌倉報国寺館は象徴の竹林に巡らされた小道を大きなガラス窓いっぱいに取り込み、日差しと共に細かい葉たちが変化する、計算され尽くした絵画の如きフレーミングなのだ。始終これを目にする入居者たちは自ずと竹林七賢人めいていく。

「宮越さん、与党大敗ですな」

「だからって野党に何ができますかな、角田さん。アナログの時代は誰か代表が国を動かさんと混沌としたもんだが、今はもっと国民総意で動かせやしないか? 組織じゃあ所詮利益誘導で乱立した意見を調整して妥協策が講じられるんだろうが、大なり小なり課題の事案に寄せられる国民の全意見をデータ処理し数値化することで、一部の思惑なんかの介在しないフラットなジャッジが叶わないか? そんなもの今のテクノロジーを持ってすれば簡単なことじゃないか」

「確かに意見を寄せもせずに文句だけ言うような奴は排すればいいからな。だがしかし、いつの世にも利益を囲い込もうとする奴が存在するんだ。その財力で持って意地でも譲らない。ひでえ奴は人のものまで奪いにいこうとする。だから争いが絶えないんだ」

「そんなにものを抱え込んでも、冥土にまでは持って行けないのになあ。歳取るごとに身軽にしていかなきゃなあ」

「全くそうだ。まさに放下着(ほうげじゃく)ですな。綺麗さっぱり手放して、あの竹林に埋もれたいもんですわ」

「全くですな」

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