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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第87夜 鈴虫の懺悔

 喜寿を数ヶ月後に控え糖尿病が進み失明した。今まで見ていた世界が消えるということは身体器官による時空間の把握手段をひとつ失うことを意味するが、それまでの経験と補助ツールによりある程度カバーできる。スマホのようなのっぺりとしたデバイスは使い物にならないが、テレビリモコンはまだそのボタン位置が指に染み付いているから操作が容易だ。ONにすればスピーカーから音が出る。ラジオの方が解説は行き届いているが、その分少々くどい時があり、聞こえる内容からイメージを膨らませるという意味では私はテレビをつける。会話もナレーションも流れない今のこの画面には何が映っているのだろうと想像するのが楽しかったりもするが、それが特番などの長時間番組だったりすると時間を失ってしまう。そういった意味で長寿番組というのはマンネリというもどかしさはあるが、コーナーの始まりで正確な時間を知る事ができるという案外別な価値があったりする。それもあって私は将棋番組を目指す。日曜午前10時スタートなのだが、ブラインド生活にも慣れたもので大体数十分の誤差で番組が始まる。将棋はいい、一手ごとに座標位置がアナウンスされるのでマトリックスの如く全体像に察しがつく。囲碁は目の多さからなかなかそうはいかない。私が頭中で指す手は大体棋士とはズレる。そのまま進行し番組内では必ず勝敗がつく。私が一方の手を外した時点から後の展開は無数に枝分かれしていくのだ。だから楽しい。

 そういえば妻の気配を感じないので、今は夕方なのだろうか? 先程ソファでうたた寝をしたからその間に買い物にでも行ったのだろう。外にいれば太陽の気配や往来の賑やかさの加減で解りやすいが、空調の効いた室内空間では時間を判別しづらいので、いつものようにテレビで時間を確認することにする。とはいえあくまで地上波頼みだ。衛星系は再放送が多かったりして健常時にもつけっぱなしにしてこなかった私にとって放映内容はカオスのままなのだ。右中段の切り替えボタンで地上波を選ぶと想定通りに局が切り替わっていく…はずが一向に音が現れない。音量ボタンを押してもだ。電池切れに違いない。こうなるともはや電池のありかは知る術もないのでお手上げだ。私は諦めてソファに体を埋める。

 またもうたた寝をしたようだがそれでも妻の気配はないままだ。かれこれ数時間はたっているだろうから、きっと暗い部屋にカーテンが引かれないままなのだろう。テレビのつかない部屋は静かで、これまで気にしていなかった音がやけに気になる。遠くのバイクの音や救急車のサイレンの音、それらが行ってしまうと庭先から虫の鳴く音が突然始まった。子供の頃に家で飼っていた鈴虫の音がフラッシュバックしてきた。プラスチックの飼育ケースの中できゅうりやナスと暮らしていた鈴虫。ここでの鈴虫は外で自由自在に動き高らかに鳴く。それに引き換え私はといえば家の中で動くこともできずにいる。そろそろ空腹も気になり始めた。うたた寝続きだったのでトイレにも行きたいが、バリアフリーにしたのを機にリビングの模様替えをしたばかりらしいので、トイレへの導線もまだ把握し切れていないので怖い。もし、妻に何かがあったとしたら…。私はこのままこのソファから動けないまま、カーテンが遮ることもなく通りの往来に晒され朽ちるのだろうか?  

 再び鈴虫の鳴き声が始まる。実家でこの音を聞いていたのは夜だった。布団でオレンジの常夜灯に照らされた天井の木目を見ながら寝付けなかった夜が蘇る。21時には母親にうるさく言われ布団に入れられどのくらい寝付けなかったのだろうか? その間鈴虫は鳴いていた。すると今は22時頃? そんなにも妻が何も言わずに外出することはなかった。そうなるとやはり何かあったのではないだろうか? こうしてはいられない、意を決してソファから立ち上がり手の感触を頼りに伝い歩く。どうやら壁側に向いていたソファはキッチン側に向きを変えられている。きっと調理中もソファの私の様子を見ていられるからだろう。リビングのドアは外され、手摺が取り付けられている。きっとこれ伝いに行けばトイレに行けるのではないか? 案の定それはトイレにつながっていた。私は自力で用を足す事ができたことに僅かながら達成感に浸った。だが肝要は妻の安否だ。私はさらに伝い歩く。

 妻の名を何度呼べど返事はない。後は2階だがさすがに怖い。一度ソファに戻りテーブルを探るとバナナが手に触れた。これは有難い。剥け具合からしてまだ熟してなさそうだが、この際贅沢は言えない、空腹には変え難い救世主だ。2本食べると落ち着いたが、相変わらず妻はいない。最悪の事態を想定することにした。スーパーへ行く途中車に轢かれた? それならここへ警察から連絡が入るはずだ。 誘拐? 失踪? …浮気? 喜寿近いのに? 待てよ、まだ確認できていない2階で倒れているのでは? いやそうに違いない。返事をしたくてもできない状態、脳出血?心筋梗塞? 居ても立っても居られない、2階へ行くんだ。だが見つけたとしてどうやって伝えるんだ? 玄関を開けて叫ぼう、それしかない。

 ソファを立ち上がる。手摺り伝いにリビングを抜ける。トイレの先が階段だ。意を決して一段目に足を掛ける。片足が地面にあるうちはまだ安心だが2段目からは空中だ。私は慎重に地面にあった足を持ち上げる。緊張感が高まるその時、玄関の錠が開けられる音が鳴った。

「ただいま。あら、お父さんどうしたの? ちゃんと手摺り使えるようになったのね」

「今何時だと思っているんだ!」

「何言ってるのよ、5時よ。今から夕飯作りますからね。今日は鯖の味噌煮よ」

ん、5時? じゃあさっきの鈴虫はなんだったんだ?


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