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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第80夜 往来の残光

 リタイアしてからこいつとの散歩だけが私を外に連れ出してくれる日課だ。コーギーのキッシュ、9歳。私は68歳。ドッグイヤーからしても多分まだ私の方が年上じゃないかとは思うが、日々のこの億劫さはキッシュは少しも持っておらず、朝早くに私が目覚め動き出すとすぐに散歩に連れて行ってくれることを期待してソワソワしだす。そのテンションには相当な年の差を感じる。滑川に掛かる東勝寺橋を渡り小町大路を越え宇都宮辻子を行くと段葛に出る。ちょうどその角にあるモーニングが人気のカフェが散歩の目的地だ。7時のオープンに合わせ到着するように家を出て、短い足のキッシュの歩幅に合わせ歩くこの片道距離が私にはちょうどいい。昨年心臓のバイパス手術を行い、激しい運動は避けてきた。現役の頃は毎週末テニスやゴルフで家にいる間もなく体を動かし続けてきたが、退院してからはめっきり家に閉じこもりがちになった。妻からはせめても歩かないと長生きできないと言われるので、こうして1日一度はキッシュと歩くのだ。

 日陰でひんやりしたタイルが心地いいのか、キッシュはいつもこの花壇の縁を陣取りだらっとしているが、しばらくすると毎日同じように遠くを伺うようなしぐさをする。あの老婆の気配を感じたからだろう。歩道に張り出して置かれたオープン席の隣の花壇からは段葛の往来がよく見える。きっとこのオープン席はこの往来を眺めることを狙いとされているのだろう。パリのカフェのように。行き交う人々は様々ゆえ飽きることがない。インバウンドのバックパッカーは鎌倉観光をするのに何故そんなにも大きなザックが必要なのか? 八幡宮の参道は石畳で歩きづらいのに何故そんなピンヒールでやってきたのか? そのストローの刺さった氷入りのドリンクを飲み終えたらどこに捨てるのか? ここに座って心が動くのは、変わり映えのしない毎日に目に入ってくる違和感や疑問が大半だ。そんな中でこの老婆は違和感なく毎日同じ時間にここを通り過ぎる。ごま塩のひっつめ髪、薄手のレインコート、花柄の長靴、エンジ色の手引きカート。おそらく西御門あたりの家から連売市場に野菜を買いに行くんじゃないかと毎日推測している。段葛の桜並木が作る木陰がこのカフェの前だけスポットライトのように朝日が差し込み輝いている。そこを選んでいるかのようにゆっくりとした歩みで通過すると一瞬全身が鮮明に印象付き、同じペースで歩き抜けいつしか視界から消えていく。

 今朝はキッシュがいつになく興奮している。タイルに寝そべることなく段葛の往来をソワソワ伺っている。キッシュは体内時計で生きているゆえ、ルーティンに厳格だ。餌も散歩も排泄も狂うことなく実行するが今日はTODOリストのひとつが叶わないでいる。そう、老婆がやって来ないのである。低い体高を目一杯引き上げるように首を伸ばすが老婆は見えない。そのうち私に助けを求めるように擦り寄り膝に乗りたがる。首筋の毛並みを整えるように撫でてあげると落ち着きを取り戻したが,老婆はついぞ現れることはなかった。

 翌日も翌々日も同じ状況が続き、さすがにキッシュは興奮することは無くなったが、タイルに顎を乗せたまま意気消沈しているのを見るのは辛い。ダメもとで連売へ行って聞いてみることにした。キッシュを抱き老婆の姿形を伝えながら次々と農家の人たちに当たると5人目で回答を得たが、それは残念なものであった。私の様子を見たキッシュはそれを悟ったかのように、私の左肩に顎を乗せ脱力した。キッシュもあの世へ行ってしまったかのように私の腕にかかる重みがスッと消えた気がした。

 その後変わらぬ日常が続くが、私たちはいつもの時間になると同じ場所を伺う。桜も枝を伸ばしたのか、いくぶん朝日のスポットは小さくなったようだが、ごま塩を照らすことはなかった。キッシュは穏やかにタイルに顎を戻した。

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