第8夜 竹林のクオーク
「人生100年って言われるけどな、今俺は56歳なので半分を過ぎたところではあるが会社のOBたちの平均寿命を見ても70~80なわけだから、せいぜいあと余生は20〜30年だ。」
大久保先輩は茶碗に残った抹茶を啜るように飲み切ると急に重い話題を始めた。いつも何かに感化されるとそんな風に人を刺激するような話を始める。きっとこの報国寺の竹林に何かを感じたに違いない。鎌倉のクライアントに年始の挨拶に来たついでに「正月らしく抹茶飲んで帰ろう」ってことでこの竹林内の茶店に男二人で来たのだ。
「ここまで社会人を34年やってきたけど、余生はそれより少ないということだ。わかるか? 働き終わったら残りの人生は働いてた日数より少ないってことだぞ。しかもそのうちの5年ほどは病気との闘いになることを考えると残り人生15〜25年足らずだ、そんな年月なんてうかうかしてたらあっという間に終わっちゃうだろ」
「そんな風に考えたら自ら人生を短くしている気がしませんか? もっと楽しく考えましょうよ」
「楽しくってなんだ? そんな浮かれた気持ちでいたら生きてる間に肝心なことをやり逃しちまうぞ。まずな、お前は時間のあるときに人生の目的を考えてみな。愛した人とともに生き抜くことか? 社会のためになることをやることか? 欲するものを全て得ることができることか? 何か違う気がするだろ。人生ってのは奇跡なんだよ。何億年かかってできた宇宙の中では砂の粒にもならない大きさの地球上に生を受けてわずか100年ほどだけ過ごすんだからな。宇宙からしてみたら俺たちが普段気にもしてないバクテリアの一生と何も変わらない。どうだ、取るに足らない感じがしてくるだろ」
「極端だな先輩は。人間はバクテリアみたいな単細胞とは違うんですから」
「そんなの細胞数の差でしかないわ。しかも細胞を作るのは多くの素粒子だろ、ちょっとそれらが多めに集まっただけのことだ。大事なのは素粒子が見事な秩序で寄り集まってこの体を作り上げてるってことだ。いわばその製品である体が存在する100年間に何を味わうかってことが人生の目的なんだわ。人から指図されて動いて忙しいまま余生のカウントダウンが始まってしまうなんて許せん気がしてくるだろ?」
「確かに許せないです。ちょっと待ってください、そもそも先輩には入社してからずっと指図されっぱなしじゃないですか」
「お前が自発的に動かんからだろ!」
「まあ、そういわれると言い返せないですけどねぇ…。そうだなぁ、僕ならいろんなものを見て回りたいかな。世界というより地球を隅々まで観光してみたいですね」
「それは有りだな。自然にせよ人工物にせよ網膜が取り込んだものを像として脳に送り込んでるわけだから、生きてるうちはそうやって体に備わった機能を存分に味わうべきだ。人生の目的は食べることでも寝ることでも愛することでもない、そんな身体を維持する生理的欲求じゃないんだ、ましてや所有して満ち足りた気になる俗的欲求でもない。もっと何気ない事じゃないのかって思うんだ。たとえば朝目覚めてその日をどう過ごそうかって思ったときにとるような直感的行動が案外それに近いのかもしれない。ある人は本を開いているかもしれない、ある人は野山に分け入っているかも知れない、またある人は掃除洗濯など身の回りを整えているかもしれない」
「みんな好き勝手やったらあっという間に無秩序な世界になりませんか?」
「要は欲するものを所有しようとすることから秩序が崩れていくんだわ。確かお前去年車買っただろ、これからは地球にやさしいEVだとか言って、家に充電器つけたり大変そうだったよな。みんな所有欲だ」
「エンジンの音がなくて音楽聴いてのドライブは最高ですよ」
「ほら、お前が欲するからそれを作る奴が出てくる。作る奴がどんどん出てきて競争を始める」
「物が無かったら便利な世の中になっていかないですよね? ましてや原始生活のまま100年なんて生きれっこないですよね?」
「まあ俺くらいになると欲しないんだよ何も。良寛さんも言ってただろ“炊くほどは風がもてくる落ち葉かな‘って。知足だよ。足るを知ることだ」
「なんでこんな清々しい竹林でそんな人生訓聞かなきゃいけないんですか!」
「馬鹿だなあ。中国の七賢人も逍遥したように竹林は黙考の環境としてはうってつけなんだ。頭上を覆う葉の切れ目に空を伺えるくらいの林の中で座禅の半眼のごとくゆるくまぶたを閉じつつも、”見ようとする意識”を続けると、瞼の裏がスクリーンのようにざらつく景色を映すことに気が付く。目を開けてるのと瞼の裏とは違うぞ。試しにやってみな」
「う~む、確かに頭で思ったことが、見てるわけじゃないけど見えてるような気がするし、想像している状態とも違うような気がするなぁ」
「なあ。それが瞑想だ。竹のさらさらっとした葉音もいい感じだろう? 今のお前は夢見てるんでも、熟睡してるんでも、覚醒してるんでもない、体から意識を切り離して地球とかそんな狭い範囲じゃないもっと宇宙的なところまで行っちゃってるんだわ」
「行っちゃってるのは先輩なんじゃないですか? なんか相当オカルトっぽいですよ」
「茶化すな。俺はまじめな話をしてるんだ。お前が感じたのはインド思想におけるアートマンだ。個々人を構成する摂理のことだ。さらにそのアートマンをすべて包含するいわばこの世の摂理の根源がブラフマンだ。人はそれを神と呼んでいる。そこまでは人知のなしてきた結論だが、ではそういったものたちというか成り立ちを生んだ存在があるはず。つまり神以前は何だったのかってことだ。今後後世がそれを探求しつきとめていくはずだ。果てしなく答えは出ないだろうがな」
微風に揺れる小さな葉たち、青空を背景に見せる枝たちのフラクタルなシルエット、奥へ行くほどに密集しながら薄緑から濃い緑へ向かうグラデーション、竹林に溢れる生命感がみなぎり、そこには見えないはずの素粒子の存在が見えてくるような気がする。素粒子が原子、分子へと繋がり、DNA連鎖による個種が誕生する。
「聞いたところによると時代はものを奪い合い所有してきた“地の時代“から、連携し繋がり合う“風の時代“に入ったそうじゃないか。荒野に線を引き自身の土地、我らの国と主張し、侵略し、争い、失い合い、そして気がつくんだ。“奇跡の集まるこの地球は、自分のものではない、誰かのものでもない、一緒に使うもの、維持し壊してはいけないもの、後世へつなぐものだと。ここから200年の間徐々にその意識が高まり絶頂に達し、次の水の時代へと向かうんだってさ。もはやひ孫のその先の話だな」
大久保先輩に宇宙論を言わしめた竹寺報国寺の茶席は異次元へのブラックホールへつながっているのだろうか…?