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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第66夜 縁側の女時(めどき)

 富貴子はリタイア後に田舎に移住した娘夫婦の新居を1泊2日で尋ね東京郊外の家に戻ると、小旅行ながら疲労した身体を縁側で休ませていた。さすがに80半ばの身には堪える。膝を立て3里のツボを中指薬指を使って圧すると、疲れで感覚が鈍っていた筋肉がやがて我に返りその刺激に張っていたコリがわずかな悲鳴をあげ、やがて楽になる。ここから目に入る庭は小さいながらも手入れを怠らず維持してきた。いつの間にか一番面積を占めるようになった数種の紫陽花はあと半月ほどで三尺玉のような大輪を咲かすだろう。毎年満開の頃、冷酒をここで乾杯していた夫も一昨年他界した。座布団にあぐらをかき、茗荷味噌を舐めてはチビチビとガラスの盃を口に運んでいた横顔が今でも蘇る。夫は“千世は元気かなあ”を繰り返していた。一人娘を嫁に出してからは庭を眺める時間が長くなった。“母さん、あそこに紫陽花を植えないか? 手入れは私がやるから“。それからは毎年新たな品種を植えここまで広がった。


「お父さんが転勤ばかりだったから千世が羨ましいわあ。こんな立派なお家建てちゃうんだもん。私はお父さんの定年後にあの中古住宅に落ち着くまでは社宅や借り上げ住宅しか知らないのよ。だから、キッチンを一番明るい場所に作ったり、リビングよりダイニングを一番眺めのいい場所に置いてこんなに大きな窓を付けたりするなんて夢のようだわ。お料理好きのご主人も素敵じゃない」

「おかげさまで第二の人生は毎日が楽しいわ。それだってお母さんがいつも丁寧にお家を綺麗にしてくれていたのを見ていたからよ。古いお家だったけどいつも柱を磨いたり障子を張り替えたり手をかけたから見違えるようになったわ。それにも増して、とくにお庭は大事に手入れしていたよね。紫陽花は満開を過ぎたらすぐに剪定して家に飾っていたから枯れた花は見たことなかった。庭は明月院みたいにいつだって見事だし、家の中もいつも花があふれていて華やかだったわ。私もそんな風に暮らしたいって思っているの。それなのにお母さんを東京に置いて私はこっちに来ちゃってひどいよね、ごめんね。お母さん、ひとりで寂しくない?」

「ううん、ちっとも。お天気の日に縁側でお庭を眺めていたらそれだけでいいの」 


 ひとりは解放と放棄を併せ持つ。巣を出た後、伴侶を一度でも得たものは一人に戻ることをそう感じる。束縛からの自由かつ看護なき浮遊。身体に不安を抱えた場合は後者の念が心を占拠する。朝目覚めた時に隣にいてくれる、身が重くどうにも動かせない衰弱時に支えてくれる、迷う時に導いてくれる、ふたりでいることのそんな何気ないことは、実は人生の貴重な時間なのだ。冨貴子は庭を見ながらそんなことを思っていた。

「あの時が私にとっての男時だったのね」

能を好む冨貴子はふと世阿弥の言葉を思い出す。勢いのある状態、それが男時。逆が女時。人生これを繰り返す。

「衰弱が女だなんて失礼しちゃうわ」

夫と植えた紫陽花たちは昨年多めに剪定した分、今はこうして盛大に蕾を備え今にも咲き誇ろうとしている。三尺玉のように大きく周囲を照らし、それを上書きするかのように新たな大輪が花開く、まさに梅雨時の色彩の競演。そんな中で山紫陽花の花はとても華奢だが古来の野生種なので半日陰の方で涼しげにしている。

「派手で粗野なのが男時…、だとしたら繊細な状態が女時よ。そうよ、この花たち、陰に追いやられても決して衰弱なんかしてない。勢いがいいなんて見た目だけのことで、実は目立たないものほど着実に何かを蓄えてるの。お父さんがいなくなってひとりになった私は、愁いを蓄えてる。寂しい、辛い、不安、苦しい…、でもそれは必要なもの。男時には決して思い至らないもの。でも身につけなくてはいけないもの」

千世がお土産にくれた信州そばを茹でることにし富貴子は腰を上げた。 

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