第5夜 躑躅宿
雨の季節を彩るのが紫陽花なら、桜の後の鎌倉に色を添えるのは躑躅。紗栄子にとっても異論はなかった。つてをたどりどうにか借りることのできたこの大町の古民家ではあるが、あまりに開放的すぎて日当たりのいい縁側に腰掛けていてもどうも落ち着かない。行き交う通行人が結構な割合でこの古民家を眺めていくのだ。いずれはこの空間を多くの人にも味わってもらおうと思っているが、この落ち着きのなさは自分の価値観では許せない。そんな悶々とした生活の末、一年を経てこの視界問題を解決するべく動きだした。やはり目隠しが必要だ。が、金属やコンクリートの塀は選択肢にはない。黒焼の杉板、竹枝、いや四季を感じることができ、通行人にも楽しんでもらえる生垣がいい。それもどうせなら思い切り華やかなものにしたい。鎌倉は生垣の宝庫。ひとしきり街を巡り、マサキ、マンサク、ツゲ、コニファー、サザンカ…、家々の主張を目の当たりにしたが、大町安養院の見事な躑躅に惹かれそれに決めた。躑躅の漢字はつい足を止めてしまうことから当てられたというだけに咲き誇る姿にはくぎ付けになる。
さて、安養院のように斜面に配し壁の如く植え込むと目にも楽しい躑躅壁を築けるのだが、この古民家にはそんな斜面はないので、通行人の目線より高く伸ばすしかないが、それでは相当間伸びした印象になってしまいそうだ。紗栄子は土を盛りそこへ躑躅を並べ植え、土には苔をしつらえた。ことのほかこの作戦は功を奏し、鎌倉の路地を引き立てることになり鎌倉の景観賞ももらう結果となった。鎌倉の観光客はほぼその日に帰ってしまう。電車なら北鎌倉で降車し円覚寺~建長寺~鶴岡八幡宮のルートをたどると大体ランチタイムどきだ。では午後をどう使うか。大抵は長谷の大仏へ向かい江ノ電で鎌倉か藤沢から帰途に就く。大町観光に訪れる人はごく少数。ここはほぼ地元の人たちの生活の町なのだ。が、躑躅が包むこの古民家は違った。人々が抱く鎌倉のイメージである古都の落ち着き、文豪好みの空気、潮の香漂う緩やかな時間がここにはある。紗栄子がカフェを始めたら居心地の良さが評判になり、自分の居場所を見つけたとリピート客がここでの時間を目的にやってくるようになった。大抵は一人客だ。縁側から足をぶらぶらさせながら文庫本を読む女性。ひたすらノートPCに何かを打ち込む若者。畳に横になり肘枕で生垣上の空を日がな眺める初老の男。自分の家のように思い思いの時間をここで過ごしている。なにかこんな居候みたいな人たちを養う気分も悪くないと思いつつ、紗栄子は新たな構想を練っていた。
「日帰り観光地なんて鎌倉くらいじゃない。もっと長い時間過ごしていただだきましょうよ」
近所の友人茜を巻きこんで宿泊を始めた。ハイランドの桜トンネル、安養院とこの宿の躑躅、明月院をはじめとする紫陽花、滑川とその支流にぼんやり舞う蛍、報国寺竹林の葉音、銀杏とモミジの混生する獅子舞の紅葉、鶴岡八幡宮源氏池の牡丹、半径数キロの鎌倉ビオトープに身を置くと嫌でも自然の動植物に意識がゆき空や宇宙が身近になる。東京からわずか1時間のこの土地が特別なのは間違いなく海の存在だ。鎌倉幕府の風水では朱雀に位置するこの海が街に波動というサイクルを与える。大波の日は街も昂る。はるか太平洋の先の風が水面を叩き何キロものバトンタッチを経て由比ヶ浜に大波をもたらすのだ。月の明るい夜、海面の反射光が自分に向かってゴールドカーペットを延ばすと、普段穏やかなこの由比ヶ浜では地球規模の舞台が上演される。照明、音声、演者全て正真正銘自然界のものだ。この夜を初めて目の当たりにした者はしばらく釘付けになる。さて翌朝。夜通し波の砕けた飛沫が大気に残り潤う。からりとした空気も爽やかで気持ちがいいが、肌に何か湿ったものが接するような感触は自身の体も細胞内外の水分で成り立っていることを改めて気付かせ、さらに地球も大気が包んでいることで水分が維持され成り立っていることに思いが行き着く。細胞を構成する原子、さらにその元の素粒子はそもそも宇宙の元…つまり梵我一如に意識がたどり着く。朝のビーチのヨギーやヨギーニもウパニシャッドの探求はより容易なのかもしれない。自然界の上演がない夜は紗栄子が上演を催した。三味線も三線もウクレレもボンゴも胡弓も尺八も鎌倉の夜の波動にぴったりだった。
評判が評判を呼び、紗栄子の宿泊客以外にも湘南地区の住民や観光客がこれを目当てにやってきて、先々の上演リクエストに応じるうち規模は拡大し、バリからガムランを招聘することになった。ガムランは鉄、銅、錫などの金属系のほか、自然素材である竹からも作られる鍵盤打楽器を大小幾つも使った合奏で、ヒンドゥーマンダラのような宇宙観をも思わせる深く壮大なスケール感なのだ。さすがに紗栄子の宿では狭すぎると、材木座の禅寺が境内を解放してくれることになった。本場のバリでは20名ほどで行うが、絞りに絞って最低限の3人でやってもらうことにした。晩夏とはいえ鎌倉の夕刻はまだまだ残暑厳しいが、バリからやってきた3人は涼しい顔で境内の地面に並べた楽器の調整を進める。日没の開演を前にうちわを片手に観客が続々と集まり、
ガムラン隊を囲むように円座していく。紗栄子と茜、そして手伝いを頼んだ近所の友人たちはバリに倣ってオイルランプを所々に配していく。禅寺はまさにウブドの寺院の様相だ。
「サマになったわね。もうすぐ日没よ、いよいよ始まるわ」
いくつもの炎が人々、樹木を浮かび上がらせると、銅鑼が始まりを告げた。
いつもはお鈴と木魚のこの禅寺に新たな音色とリズムが刻まれる。根源の追求に決まりはなく、過程に方式はない。単打の余韻も連打の波動も宇宙の先への意識を刺激する。瞳を閉じるとそこはもはや鎌倉でも地上でもなく、我をも超えて、根源が取り囲む梵の中なのだ。演奏が進むにつれ意識は次元の旅をする。音が消え目を開く、そこからは鎌倉の新たな夜が始まる。