第4夜 躊躇コロッケ
揚げ物専門のこのお店は材木座から逗子マリーナへ向かう道から酒屋脇の小道を入ったところにこじんまりと佇み、小道に面したガラス越しにいつもフライヤーがぶくぶく泡を貯えていた。トンカツ、コロッケ、メンチ、ハムカツ…、お馴染みのオールスターがこんがり色で泡から顔を出し芳ばしい香りを漂わせている。ここでコロッケを買ったら、角の酒屋で缶ビールを買い材木座の浜へ向かう。陽の長い夏は仕事終わりの帰宅途中でも十分日没に間に合うから、2日に一回ほどのペースでこのサンセット晩酌「浜ビール」を楽しむわけだ。それは私だけではなく浜に似たようなシルエットがポツポツ並んでいたりする。皆了解事項として揚げ物は肌身離さないようにし一口ずつ袋から齧るようにしているから頭上のトンビのひったくり対策も万全だ。稲村ヶ崎に日が沈みあたりが暗くなる頃、申し合わせたように晩酌は終了し三々午後家路に向かう。材木座の浜から国道134号下をくぐるトンネルで久しぶりの顔に出会う。
「あれ、稲田さんご無沙汰してました。いらっしゃってたんですね、やっぱり浜ビールでしたか?」
「何年ぶりかなぁ、来てみましたよ。ちょっとは昔のことを思い出すんじゃないかってね」
「なにかお忘れになったんですか?」
「すべてをね」
聞き捨てならない内容なので詳しく聞きたく、もう一度トンネルを戻り浜に突き出たコンクリート提に並んで腰を下ろす。
「お恥ずかしいのですが、お顔は見た気がしたので会話を合わせたんですが、実はあなたのお名前も忘れてしまっていて。去年の冬に脳梗塞で倒れた時頭を打ったようで。一命はとりとめられたんですが、いろんなことが記憶から消えてしまったんです」
「そうだったんですか…。私は坂田です。以前稲田さんの書道教室に通ってました。おかげさまで会社の定年後も浄明寺で御朱印書きやらせてもらってます」
「おお、私は書道教室なんかっやってたんか。このところ字も書かんようになってなぁ」
「お書きになってみますか?」
いつも寺で書く字は同じなので凝り固まらないよう、参拝客の少ないときは持ち歩いている筆ペンでいろんな字を書くようにしている。
「こんな紙しかありませんが」
半紙を何枚か丸めた筒から一枚取り出してコンクリの上の砂を手で払い、半紙を石で重しした。
「ずいぶんと握っておらんが」
稲田さんは中字の筆ペンのキャップを取ると当時のままの筆さばきで半紙に一画目を置いた。予想とは全く違い、半紙をはみ出るかの勢いで画数を重ねていく。半紙の元の白い隙間がほぼなくなるかというところで
筆は止まった。みごとな「躊躇」という二文字だった。稲田さんは疲れたといい書を残し去っていった。
秋分を過ぎると日に日に日が短くなり、
11月では材木座海岸にさしかかる頃にはすでにあたりは真っ暗だ。そんな中、小道の先のフライヤーのガラスは煌々と明かりを灯している。引き寄せられた蛾のように自転車のハンドルを小道に切るとあの芳香が鼻腔をくすぐり寒いにもかかわらず浜コロッケを決め込むことにした。コロッケを二つ、酒屋で保温庫からワンカップ酒を買い浜に出る。人の姿はほとんどなく、遅めの犬の散歩をする人くらいだ。あの日稲田さんと話したコンクリート堤に腰掛ける。尻は冷たいが風はないので何とかいられる。冷めないうちにワンカップの封を切りひと口含むと何とか温まってくる。稲田さんとこうして話した数日後、書道教室のあったところへ行ってみたが更地で放置された感じになっていた。隣家の庭に老人がいたので聞いてみると、確かに稲田さんが書道教室をやっていたが、10年以上も前に救急車が来て稲田さんを乗せていってから家屋は誰もいないまま放置され、ある日業者が更地にしてそのままだという。
どこかに引っ越していたからあの時は何年かぶりの材木座海岸だったのか? それとも…。リュックの中からいつも持ち歩いている半紙の筒を取り出して稲田さんの書を見返してみてもあの日のままだ。しかし記憶のないまま反射的に持ち前の筆力で記した字が、よりによって難解なこの二文字になったことも気になっていた。その時お腹の上のほのかな熱を感じ、コロッケを買ってあったのを思い出した。夜に鳥目が効かないトンビのことは気にせず、しかし冷気にさらして冷めないよう袋から出さずにかじりつく。あの日が蘇る。達筆に気が行ってしまい、二文字を書いたわけを聞かなかったことが悔やまれてきた。記憶はないがしっかりと浜まで向かってきた稲田さんには何かを躊躇する事情があったに違いない。が、もはや迷宮入りだ。夏とは違い海岸を通る国道も車の往来は減り、それに反比例して海上に見える星の数は増える。正確に言うと星のほかにもひときわ輝く人工衛星、そして神奈川の基地を行き交う軍用機の光たちだ。
「きっとこの光の中の稲田さんがこうしてここに呼んでくれたんじゃないかな…」
ワンカップが空いたので腰を上げ、コンクリートの砂を手で払い、あの日のように半紙を広げ、もう一つのコロッケをその上に置いた。




