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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第21夜 珈琲辻子

 あの娘が上手くいくと何か面白くない。邪魔したくなる。足を引っ張りたくなる。こんな性格じゃあいけないこと、かわいくないことは分かっている。でも直らない。直すことはできない。正直直す気にもなれない。だって、上手くいく人がいるってことはたとえ私が失敗なんかしなくても、同じ位置にいてもあっちだけ高みに行くってことでしょ。それって悔しいじゃない。だから私の場合、上手くいかない人を近くに置いて優越感を得ようとする。でもそんな子は友達じゃないの。失敗ばかりで辛気臭いんだもの。こっちまでダメになっちゃいそう。みんなが怠けることなくできる限りの努力でやっても、絶対に能力に差が出る。さらには心身の都合で出来ない人もいる。どうにもならないことだから、そこには妬みが生まれるの。自分の思うようにやりたいことを心置きなくやれること、自分のペースで目標を目指せること、進めること。それって当たり前みたいだけどできないの。だっていつもそこには他者がいるから。まあ、自分の価値観が揺らがなければ人を羨んだりしないわ。だって他人は眼中にないんだもの。でもね、人と常に比較することで自分の位置を定めている人は、その差に敏感なの。人とのズレを調整しにかかってくる。つまり相手を動揺させて、その間に同じ立ち位置について、そして邪魔してこっちの後ろに着かせるの。ほんと、嫌だ。いっそほかの人なんていなきゃいい。自分だけがいる世の中になっちゃえばこんな意地悪なこと考えなくていいのに。

 私は人通りの少ない小道を散歩するのが好き。鎌倉にはまだそういうのがたくさん残っている。あんまり使う言葉じゃなくなってるけど、小道のことを辻子(ずし)っていうんだよね。田楽辻子を散歩していたら見慣れない看板が。「珈琲 蛍」。こんなところに喫茶店があったんだ。店内は使い込まれた木のテーブルと赤いビロードの座席の椅子。壁や窓枠も時間の経った茶色い飴色の木で、窓にはレースのカフェカーテンが掛かっている。窓際に座り、カーテンを少しめくると裏庭が見えた。手をかけられたイングリッシュガーデン。その先は土地が下っているのか、空が広がっていて開放感がある。おそらく旧民家を大きく手を付けることなく喫茶店に改装したのだろう。同じく木造りのカウンターの中でマスターがサイフォンを使ってコーヒーを入れている。私はブレンドを頼んだ。

 ぶっきらぼうな感じで一組の観光客が入ってきた。店に入るなりどんどん奥の席に進み、どっかと腰を下ろしどうでもいい話を大声で始めた。一向に注文をする気配のない客にマスターは

「そろそろ喉もお渇きでしょう、何になさいますか?」

と落ち着いた調子で尋ねる。

「アイス」

「じゃあ俺も」

マスターのほうを見ることもなく伝えた。えっ、怒らないの?なぜ?あんなにこちらをかき乱されたのに。マスターはゆっくりとレコードをセットし、バッハのカンタータをかける。暗くて気づかなかったが、店の角々に大きな木のスピーカーがあった。客はその太く柔らかい響きに会話を止める。聞き入る。コーヒーを持ってきたマスターに視線で彼らへの嫌悪感を伝えると、

「あの方の中に風が吹いたんですよ。本人だって落ち着かないはずです。ほら珈琲をすすったら落ち着いたでしょう。風が止んだんです」

あれ? ってことは今まで他人に嫉妬したり憎んだりしてたのって、私の中の雷雨?じゃあ、雨雲が去ったらあんな感情は消えるわけ? 珈琲をすする。舌で転がし鼻孔へ香りを通し、そしてゆっくりと喉へと送り込む。無意識にいつもの10倍くらいの時をかけて飲み込んだのは自分でも意外だったが、自分の中に落ち着きを取り戻していることに気づく。これは珈琲の作用ではない。自分の中の空模様を意識したゆえの結果だ。ぶっきらぼうだった客は今は頭を寄せるように密やかに会話をしている。元々は礼儀をわきまえているけど、店に入る前の盛り上がりを持ち込んじゃったんだろう。今はああして大人な客になっている。あんなにも冷静に説教がましくなく嗜めるなんて、どれだけ人間ができてるの? マスターは心の中に風が吹くことはないの? ざわざわと波立つことはないの? 私はコーヒーと水を持ちカウンターに移る。サイフォンの蓋を片手に持ちロートの湯を攪拌させている動きが終わるのを待って、疑問を投げかける。

「もちろんあります。でも風はあるところからあるところへの温度差なんかでの空気の移動で起こるわけでしょ。私はだから心の中に高低差を作らないようにしてるんです。二律背反な状況を都度都度消化し、自分の価値観をひとつにしていくとおのずとフラットになってきます」

そんなの無理じゃない。生きてるとジレンマや矛盾、パラドックスな局面ばかりだし、必ず物事には表があれば裏があるし、やりたいこともあればやりたくないこともある。

「いえ、表って何ですか?裏って何ですか?例えば明るいと暗いってのはどっちもありじゃないですか。禅の言葉に一水四見ってのがあるんです。水に対する見方っていろいろあって、たたずまいがきれいな透明の物質、生物に恵みの物質、魚にとっては生きるための世界、洪水になれば恐れの対象になってしまう。すべてそんないろんな性質を持っていながら存在してるということを意識しておけば、すべてが想定内の出来事になっていくんです」

雑な人にも価値があるということ?

「いつの間にか粗暴なふるまいをする人が減っていって皆がルールをわきまえた社会になっていっているから、いまだそういった人が目立ってるということなんです。極端を言うと、人殺しをする人、それは価値観の最悪なパターンとなっているけど、人類が長い間で気づき上げた理性がその拡大を抑止してるだけのことなんです」

何か他人の存在がありな気がしてきた。威張ってる人なんてサイテーって毛嫌いしてたけど、ひょっとしたら口で防衛する自分に自信を持てていない人なんだな、なんて冷静に観察してみたくなってきた。

「それなんです。まずなんでそんな振る舞いをするんだろって考えてみるんです」

あっ、確かに解釈の仕方がいくつかあることに気が付くわ。

「コーヒー冷めちゃいましたね。もう一杯お入れしましょう」

いえ、もう私の中の風は止んじゃいましたので大丈夫です。

「それでは良い人生散歩を!」

ありがとうございます。

 啓蟄みたいな気分で店を出た。

一口のコーヒーを啜ったら、私はあっという間に全く違う世界にワープした。いえ、コーヒーはただのスイッチ、ONされた脳が私を動かしたの。脳のシナプスが何かの発想でONされる。まさに暗闇に蛍の光が今灯ったように、ニューロンネットワークが発光するイメージ。自らはその発光を仕掛けられない。何か外的な刺激による発見や気づき、そうした遭遇によって発光するの。この小道、蛍の沢みたい。

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