第20夜 蝉と桜と
新緑にピンクの霧吹きをかけたような桜は数日の後、緑に溶け込むようにその姿を消す。あんなにも賑やかに、あんなにも激しく心昂らせたのに…。人々はいっとき浮かれ、そして忘れる。
私はリビングのソファから庭で盛りの桜を日がな一日眺めて過ごす。齢80を超えると体もあちこちが音を上げ、両足の股関節が一生分の軟骨を使い果たし骨がぶつかり合い悲鳴を上げている。この足ではもう好きなようには動けない。逗子ハイランドの桜のトンネルや衣張山の山桜を見たいが、今年からは家の桜で満足することにした。
でもこの家の桜で十分なのだ。庭の桜は50年以上を経て、この平屋を完全に覆い、どの部屋の窓からでも何かしらの枝が視界に入るほど成長した。浴槽からは摺りガラスの戸を少し開けると、こちらの明かりを受けてほの明るい花たちが姿を見せる。キッチンの窓からは手が届くほどに枝が伸びているが、あえてそのままにしている。季節には2輪の花のついた枝をつまみ、箸置きとするから食卓が華やぐのだ。桜に包まれたビオトープのように私はこのシェルターの中で暮らし生きている。生かされている。だがこの桜も果たしてあと何回見ることができるのだろう。
10年前に胃癌で夫がこの家からいなくなってやっと一人に慣れた頃、嫁いでいた娘に乳癌が見つかった。手を尽くしたが40の若さで父の元へ行ってしまった。塞ぐ私を時々励ましに来てくれていた息子も運転中のもらい事故で昨年の冬に二人を追って逝ってしまった。私はどうにもならない絶望から喜怒哀楽の感情をいっさい失い、抜け殻のようになって毎日縁側の一人がけソファから動く気にならず身をそこに埋めていた。結露で曇るサッシを少しだけ指で擦ると変わらぬ庭が小さく姿を見せる。家族が揃って過ごした思い出が嫌でも甦る。私にはもはや出る涙はないが、曇り窓の切り取られた庭の下にはいく筋かの雫が垂れていた。
谷戸の鶯が発声練習を始めるころ、昼の暖かい時間だけ縁側のサッシを開ける。放置した庭の木々は競うように新緑を吹いている。私はその生命力に心の奥を少しずつ突かれ、我にかえり始める。私くらいはこの家に残り続けなければ。木々たち、そして一緒に歩んできたこの桜と1日でも多く居続けなければ。私は数か月ぶりに庭に出る。少しだけ背伸びをして、膨らみかけたつぼみを付けた枝に手を伸ばし摘むと、一人では今や広すぎる食卓テーブルに花瓶を引っ張り出してきて挿した。翌朝つぼみのうちの一つが花開いていた。生きよう。そう思った。
夏。桜は大木ゆえ平屋にしっかりと木陰を作ってくれるのだが、うるさいほどの蝉もこの木にやってくる。けたたましい鳴き声に暑苦しさは増すが、賑やかなのはまあ良しとしている。ひとしきり辺りを騒がせもう用事が済んだかのように何かにぶつかりながら蝉が去っていくと、また一人であることを思い出す。自分だけが止まっているかのように日々が過ぎ、桜の葉は茶色く染まり一枚また一枚と散り、空を広げる。やがて冷たい秋雨を受け黒く湿った裸の大木は寒さで背を丸めたかのように春夏の存在感をすっかり失っていく。
2月3日、みぞれ続きの日、風呂場の脱衣所で胸が締め付けられるような痛みが襲いうずくまった。床を這って何とかリビングテーブルのスマホに手を届かせ救急車を呼ぶことができた。私は病室でも一人だった。朝になると看護婦さんがカーテンを明けてくれる窓からは公民館のコンクリートの外壁と、建物の隙間に少しだけ公園の木々が見える。すき間の木々は散ることを知らない常緑樹で、屈託なくその濃い葉が風に揺らいでいる。来る日も来る日もその濃い葉は変わることなくそこに蔓延っている。私の胸の締め付けは止むことなく定期的に起こり、そしてひと月半後、それらの葉は私の視界から消えていった。いや、私が消えたのだ。
見事な桜の大木は根を取り去るまでそう時間はかからなかった。更地はすぐにアスファルトが敷かれ月極駐車場になった。蝉は7年幼虫7日成虫、7年7日の潔い一生。けたたましい鳴き声はもちろん、生の形跡は何も残らない。そして今年もあの薄紅色に華やいだ季節はカーテンを閉じるように終わる。