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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
172/174

第172夜 笄町の地下書斎

 その老いた物書きは昔話を嫌った。大概の老人ほとんど全てが過去を向くのに。


<人は誰もが小さな不滅の火花を自分の内に秘めている>


敬愛なるドイルの言葉を85年携えたまま夜刻の地下に佇つ。今東光、柴田錬三郎、開高健、横尾忠則…、先人たちの愛情に包まれた日々をそっと壁の額に留め、授かった含蓄を躊躇なく来客に振舞う。

 青春に紙魚と戯れ、朱夏に玉稿を抱きしめ、白秋に世間を創り、玄冬の今、こうして麻布の地下に運び込んだ生涯の全てと共に夜半を過ごす。訪れる者数多、来るものは拒まず、とっておきのモルトをまるで茶筅で茶を立てるかの如く能く混ぜ静かに差し出す。マホガニーの書庫は高い天井に達し、書肆さながらの蔵書と色褪せた写真が空間を埋め尽くす。中には青木功や中部銀次郎らと回ったスコアカードも。

「ハーフ44とは中々ですね」

「マリガンですがね」


〈小さなことが限りなく重要であるというのが、私の長年の原則だ〉


慕い、想い、尽くした先に開かれた先人たちの書斎には意表をつく悶々とした沈殿があった。溢れ出す甘露などこの世のどこにもなく、ひとつづつ小石を磨くが如く果てし無く唸る。その先にこそ珠は輝くということを。


〈人生は人の心が考え出すどんなものよりも、はるかに奇妙なものだ〉


容赦ない残忍やどん底の絶望、ましてや舞い込むハッピーエンドなどこの世にはない。断言する。それは人生とは人の行うものであるからに尽きる。全ての人は縁の網で繋がり、その結び目には珠がある。それを宝珠という。珠は互いを映し反射し合う。もちろんそれも心が考えたイメージ。人の考えなど及ばぬものがこの世を包んでいる。ある僧がそう説いていた。


〈私は仕事で疲れたという記憶はまったくない。しかし、何もしないでいると、くたくたに疲れきってしまう〉


こうしてここに佇つ時間は80半ばの身にはキツかろうと思うだろうが、このカウンターは勉強机だ。何、私が先生だと? そんな訳がない。カウンターのそちら側の貴方が先生でもあるんだ。ご覧の通り身体を動かすのも難儀になってしまったが、街に出向かずともこうして貴方がやって来て過去でも未来でもなく今の人間を見せてくれるのだから。文献をかき集めたような小手先や、ましてやAIを繋ぎ合わせたような物語に任せてはいられない。私は人に会い話を聞いて自ら考えるのだ。


 3杯目のモルトが空こうとする頃、気がつけば空間は私だけになっていた。夜更けのドイル老師は疲れた表情すら見せることなくむしろ身を整え直して問いかける。

「ところで貴方は恋をしてますかな?」

若き日の老師は数多のミューズと接してきた。ユニバース絶世のミューズだ。もちろん接しても接触なしで。毎月、毎週、レンズ越しに求愛するミューズの絶頂表情をセレクトしピンナップしてきた。つまり愛の数は数多。

「〈誤解して愛し合い、理解して別れる〉これ以上語ることはありませんが、恋は人生にいつだって必要だ。一人だけで生きているなんて思ったら間違いだ。足元でなく真っ直ぐ前を見なきゃいけない。このモルトには明日の英気の素が入っているからしっかり飲み切って」

数々の言葉を頭葉で熟醸させているとグラスの氷が均衡を解きコロンと音を立てた。

「 <愛を語れない者に人生の物語は書けない> 」

不意に老師が言う。その言葉は先人のものではなく、穏やかに身に付けた老師自身の心芯だ。老師は小さなジャグから私の5ozグラスに水を注ぎながら言った。

「朝が貴方を待ってますぞ」


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