第16夜 銀河鉄道の汽笛
銀色に青とベージュのストライプの入った車両の横須賀線は何かがあると大船で折り返し運転になってしまう。大船から先は森のトンネルのような鬱蒼とした場所が多いので、台風が来ると木々が倒れ線路をふさぎ、ちょっとした積雪に足止めを喰らう。歴史的とも言える大雪の時は、走っては止まりどうにか大船に辿り着くも、その先は運休となり鎌倉まで通勤の革靴で雪中行軍する羽目になった。北鎌倉エリアから鎌倉エリアへと繋ぐ巨福呂坂は車の往来もずっと前に途絶え、積もるがままのスキー場と化していた。それでも私は重い足を運び家を目指す。誰が待つわけでもない家へ。両親から残されたこの家を売って東京の勤め先に近いところに移る気はしない。両親との思い出で形あるものはきっとひとつづつ壊れ朽ちていくはずだから、せめてこの家だけは手を施しながら守り続けようと思っている。
私は何かドキッとして心臓の鼓動が早まると耳がいつも赤らんでしまう。それは子供の頃からコンプレックスだった。そのせいで気が弱く緊張していると思われて人から舐められる。電車で座っていても餌食にするかのように粗暴そうな男が前に立ち私の靴先を蹴り続ける。席を変われという圧力だ。変わるまで続けられるのでしょうがなく立つ。だから外に出かけるより家にいる方が好きだ。家は唯一自分の思い通りの環境を作れる場所だ。父が耕し苗を植え母が手入れしていた庭も荒れないよう自分なりに維持している。ネット画像で心に訴える花の種を取り寄せ、手入れしやすいように畑を4か所だけ囲いで土を一段上げ、それらの間をぬかるまず歩けるよう砂利を取り寄せ敷いた。花、ハーブ、根菜、トマトやシシトウなどの季節野菜で4つの畑をまわしている。隣家との塀際には父が植えた柚子や月桂樹がそのまま大木に育っている。庭の管理に余裕ができてくると、もっといろんなものを世話したくなってくる。毎朝車窓から東戸塚の線路脇の牛舎を見るに、牧草をフォークで運んだり餌をあげたり体を拭いてあげたりして過ごすなんていいだろうなと思う。9時5時の水道部品メーカー経理部の仕事を終え、今日もまたひとりの家に長時間かけて帰る。仕事後、飲みの誘いもここ数年かかることはない。目立たない存在だからだろう。
その日は仕事をしている時に経験のない激しい揺れが襲いすべてがストップした。鉄道は夜になっても運行の見込みがなく、家が遠くない人たちは歩いて帰ることにし一人また一人と出ていったが、私はそのまま会社で過ごすことにした。つけっぱなしにしたテレビからは各地の様子が断片的に流れる。東京の混乱からすると震源地寄りの状況はどこまで被害が広がるか想像がつかないほどだ。朝になり線路の安全確認が済むと横須賀線はどうにか大幅に間引きながら復旧した。翌日は間引き運転のすし詰め状態で、車両は安全を確認しながら止まったり進んだりゆっくりと走る。路線の町々は郊外ほど電気が復旧せず停電している。大船を出ると家々は蝋燭の光では窓すらも照らせないようで真っ暗闇のまま、トンネルか地下鉄のように電車内の明かりだけが暗闇を抜けていく。北鎌倉駅を出て浄智寺前の踏切が近づくと、列車は警戒して警笛を鳴らす。いつもホームで白線をはみ出た客に鳴らすようなけたたましいものでなく、今まで聞いたことのない柔らかく、かつてSLが鳴らしてたようなアナログな汽笛に近いものだ。乗客は誰一人騒ぎ立てるものはなく、静まり返っている。街灯もない月もない真っ暗な空間を銀色列車が走る。鎌倉駅前もすべてが闇、タクシーのヘッドライトだけがサーチライトのようにあちこちを照らす。暗闇の先に待つ我が家には灯りはない。温かい食事もない。それでも私は家に帰る。なぜこんな思いをしてまで家を目指すのか?
銀色列車はいい日も悪い日も黙々と目標へ向かって走る。時にはアクシデントで止まり、乗客がまばらな時もすし詰めの時も変わらず走る。私も走っている。だが私の終点はどこなのだ。どこへ何のために走るのだ? 家路の暗闇にあの柔らかな汽笛が遠く聞こえた。