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鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
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第13夜 暗渠赤飯

 いつも小さなことでも喜びのあった日には赤飯を買う。主人の昇進の日も、息子の合格の日も、私が試合に勝った日も。母も私が大人になった日や学校行事の日や進学するたびに赤飯を用意してくれた。一番最後は婚約を報告した日。嬉しさと不安であまり喉を通らなかったがあの赤飯の味は今でも記憶に残っている。父もあまり手をつけず、母がその分「ああ良かった、今日のは一段と美味しいわあ」と言いながら食べていた。気持ちが上向きの時に食べるからというのもあると思うが、なにより赤飯はもち米だからいつものご飯以上に噛み締めることでたくさん唾液が出るからか特別に美味しい。普段の日も食べたいがハレの日の楽しみとして我慢している。二つだけ私のこだわりがあって、黒と白のごま塩はかけないこと。喪の色だから。そして買うお店も決めている。小町通りから曲がってちょっと歩いたところにあるお店。餅菓子やおはぎなんかと一緒に赤飯を売っている。というよりむしろ赤飯がメイン商品。少なくとも私にとっては。

 このお店の佇まいはちょっと不思議。ちょっと見にはわかりづらいけど、段葛沿いに流れる小川の上に建っている。きっと昔は小川に橋がかかってて、トントンと渡ってお店に入ってたのが人通りが増えていくうちに塞がれて道路化されたんだと思う。今や観光客のだれもそこに流れがあることには気が付かない、まさに暗渠。でも生活排水も入らないからきれいなはず。いつも細い流れがあって、雨の日は水かさが増してまた細くなってを人知れず繰り返している。

 半年前、主人が職場で倒れた。クモ膜下出血。一命は取り止めたけど寝たきりになった。東京の広告会社に勤めていた夫はコロナ禍が落ち着いてもオフィスはフリーアドレスで、会社に自分の居場所を感じられないまま営業の毎日でストレスがたまったんだと思う。

 私はといえばバドミントンサークルに入り、家事もそこそこにのめりこんで県大会では優勝するほどまでになっていた。ある日、試合をしている間にスマホに連絡が入っていた。折り返したら御茶ノ水の病院から。運び込まれたときはすでに意識はなく緊急手術を待っていると知らされた。慌てて残りの試合を放り出して駆けつけた。

 一命はとりとめたが半身不随になり、会社は5年を残して早期退職。私が働きに出ることになった。サークルの友達が、知り合いがやっている東京の会計事務所を紹介してくれた。車に慣れていた身には電車通勤がキツい。バトミントンとは使う筋肉が違うのか? 毎日仕事と家事と看病に追われ黙々と駅に通う日々。このところ赤飯を買うこともなく店の前を通り過ぎる。サークルの人たちに会うこともなくなり、仕事場では定時の間黙々と事務を行う。小さな事務所なので、私の他は就業時間の大半を外に仕事しに行く会計士二人。日中の話し相手はいない。ただひたすら事務をこなす。

 半年が過ぎると私も疲れがたまりイライラして夫に当たり散らし、やがてこれらの状況に辟易するうちについにダウン。夫の隣で床に臥せる。それでも家事はこなさなくてはいけない。仕事もずっとは休めない。あまりのつらさに絶望する。夫が元気な時、私は会社へ送り出した後に好きなことばかりしていたんだと改めて気づく。結婚して30年近く夫は毎日玄関にかかっている絵画のように同じ表情でドアを出ていっていた。仕事の愚痴も家に持ち帰ることはなかった。それなのに私は…。ささやかだが小さな喜びとあの日の赤飯のおいしさを思い出し塞ぎ込んでいると、見かねた夫が謝ってきた。

「俺のせいでごめん」

顔を合わせるたびに謝るようになった。なんで謝るの?そんな気持ちにさせたものは何?私のイライラ?病気なんて自分の責任じゃないのに。誰にだって突然襲いかかる可能性は充分にあるのに。

 私って今まで自分のことしか考えてこなかった。夫を仕事に送り出す自分、子供を無事進学させた自分、家事をこなす自分、やることはやっている自分…。そうやっていい訳をしてきた。サークルに遅刻しそうな時、洗い物をそのままにして行っても、帰ると片付いていた。会社に行く前に夫がやっておいてくれたのだ。そんなことも、いつも私がやっているんだからたまにはいいじゃないフォローしあうべきなのよ、そうやって労いの言葉もかけなかった。洗濯物も裏返しのことはなかったし、棚の上のタオルもいつも私のが低い方に移して置いてある。私が届くようにしてくれていたのだ。私が大変にならないようにいつも気にしてくれていた、それなのに、私は彼の優しさとしか考えていなかった。

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

 仕事に戻った。毎日が忙しい。一生懸命やっているのに誰かにこのつらさを分かってほしい。私は横須賀線の銀色列車で東京に向かい、数時間黙々とデスクワークをして、また銀色列車に乗る。何の変わり映えもしない日々。雪予報の日。夫は部屋を暖かくして私の帰りを迎えてくれた。雪解けでぬかるむ翌日の水曜日。私は久しぶりに赤飯屋に寄った。1年半ぶりなのに店の主人は「まいどどうも」という声で赤飯を渡してくれた。食卓に久しぶりに赤飯が並ぶ。久しぶりのもち米を噛み締める。となりに夫がいる嬉しさを噛み締める。今日の赤飯は涙の味がする。それは初めて感じた味だ。

「今日は何かあったの?赤飯なんて」

夫の声に私は返す。

「だってこんなにいい日じゃない」

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