表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鎌倉千一夜  作者: Kamakura Betty
106/165

第106夜 異郷の机

 柴田哲也の筆速は滞っていた。怖いくらいにイメージが溢れ出すのだが、それを書き出す行為がついていかないのだ。柴田は40を過ぎてからの20年間は拘っていた手書きを離れ、もっぱらキーボードを使うようになった。きっかけは利き手の腱鞘炎。画家とは違い縦横無尽に手を動かす必要などなく、キーボードさえ押すことができれば極端な話指一本だけあればなんとかなる。炎症は治まったがそれからというもの、むしろそのキーボードすら持て余している。自身のイメージのアウトプット、言い換えればPCへのインプットに手の速度がついていかないのだ。手書きに戻してみたが、すでにキーボードの方が効率的なほどスキルが向上している。手が遅いなら口でと思い、喋った言葉をテキスト化するソフトも使ってみたが、変換がついてこられなかった。インプット、その後のリファインは脳内運動だが、アウトプットは動作を伴う。自分の中に置いておくだけならそれでもいいが、この思いを忘れないように残したり他者に伝えるとなると話し伝える以外には書き記すしかない。その際の出力、つまりアウトプットの速度が問題だ。なんとかこの思いをそのままの速度で残したい…。

 箇条書きで書き出し、後で文章に整えてみた。能率は上がったがメモ書きのような文字の羅列は、他者に話を伝える手法としては心持ちが違った。いっそローマ字にしてみた。これは明らかに漢字ひらがなへの変換に時間がかかった。柴田は悪あがきをやめ、イメージの方の速度を落とす方向へ切り替えた。思考した言葉にひとつづつ形容詞をつけることにした。「日差しを浴びた老婆が店先の木陰に溶け込んでいった」のような情景描写は、「鏡に反射したかのような凝縮された日差しを浴びたロマンスグレーの老婆が、このオープンカフェのシンボルツリーであるオリーブの巨木が作る木陰に息を引き取るかのように溶け込んでいった」のように。いちいち形容詞を捻るので文章をまとめるのに数倍の時間が加わることになったが、今までは削ぎ落としていた周辺描写を無理に加えることで、自分的にも絵画を描くような楽しみすら感じるようになった。

 さて、モチベーションを取り戻した柴田ではあったが、今度は書斎のPCに違和感を感じるようになった。確かにこの大画面モニターは調べ物には非常に重宝する。特に位置関係や表記の確認などで多用する地図ソフトはピンチインもピンチアウトも実写表示も自由自在だから最強だ。しかし文章を入力するにはあまりにサイズが過剰なのだ。表示させるものはビジュアルでも数字でもなく文字だ。少なくとも400字が見渡せたらそれでいい。気になりだすとどうにも抑えきれない。またもや能率が落ち始める。柴田は出先用にと手に入れたままになっていた二つ折りbluetoothキーボードを引っ張り出し、愛用のiPhone SEに飛ばしてみた。メモに使っているソフトであるDraftsに適当な言葉を打ち込む。すると何か先程までの心の靄がスッと晴れていくのを感じる。この最小環境は針穴に糸を通すかのように集中力が圧倒的に高まる。横向きにスタンドさせたSEの画面を細胞分裂の如き文字がどんどん占拠していく。

 さらにこのミニマル執筆環境に思わぬおまけがついてきた。というのは家の書斎に留まらず出先でも30cm四方の平面があれば十分に執筆ができることになったのである。旅の車内や機内の簡易テーブルでも快適に執筆ができる。さらに、車内というのが思わぬ重要なポイントのようで、流れていく景色に都度都度脳が刺激され、シナプスの結合が絶え間なく続くのだろうと思われるほど思考が円滑に回るのだ。居馴れた書斎ではその結合は時として停止する。そんな時の30cm四方だ。まずは環境を変え、二つ折りのキーボードを開き、SEのTOP画面からDraftをタッチすると白紙画面が開きインプットの準備が瞬時に整う。今この瞬間のイメージが即書き込むことができるのだ。

 近所の喫茶店でもいいし、図書館でもいいが、シナプスの結合が最高に発揮されるのが旅だ。初めて訪れる地は何より五感全てに新鮮。建築中の建物を見るだけでも、どうしてそこに建ててどんな景色を毎日眺め,どんな事が会話されるのか気になる。粟大福を掲げる和菓子屋は毎日早朝から粟を蒸し捏ねる。その手は皺だらけだろうが迷いのない動きで、欲張る事なく50個をしっかりこさえるのだろう。などと。元より執筆の合間に旅を重ねてきた柴田にとって、この機動性は有難い。作品に登場する犯人のトリックも俄然リアリティを増した。初めて見る景色がくまなく脳内にインプットされ、それらがお互いに連鎖結合しかつてない発想が溢れ出してくるのだ。

 旅先が書斎となった柴田は躊躇なく愛するバリ島に通うようになった。ウブドのカフェは柴田にとっての最高の能率机。喧騒の往来に向かって階段状に配置されたテーブルは世界からの人々が往来し、まさにキャラクターのカタログ。平気で数時間を過ごすことになってしまう。ライスフィールドに向けられた円形のカフェは、朝のアーサナを終えたヨギーニたちが居心地のいい場所を見つけ、胡座をかきながら手紙のようなものを書いている。柴田といえば稲穂のそよぎを眺めながら、宇宙における最高の友人である犬の立志伝プロットに唸っている。バリという固有の土地の磁場に完全に感化されて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ