第100夜 蛇の道は蛇か
「我々は日々この般若心経を唱えているから無いということが体に染み付いております。悟りとは無いことへの気づきなのであります」
父の導師をお願いした北鎌倉のご住職は80半ばを過ぎて尚聡明、祖父儀のとき同様その唱導は量子物理学を追究する私にも違和感なく腑に落ちる内容だった。御斎の席でご住職に尋ねてみた。
「この経が生まれたのは2000年前ですよね?」
「紀元2〜8世紀頃と言われてますね」
「それにしてもそんな昔にこの物質界の構造をきっちりと掴んでいたとは驚きです」
「ご施主、あなたは確か大学の物理学科でお教えになっているそうですね。丁度いいので70年唱えてきた私の考えをお話しします」
祖父儀の時はまだ物理学を学び始めたばかりの学生だったので、私はなんとなくご住職の説教に妙な引っ掛かりを感じただけであった。その後大学院に進み研究に没頭してからは世界の物理学者が自身の著書で東洋思想に触れるのを知ってはいたが、残念なことに読み流していた。しかしこの度の父儀の説教でまさに先達の記した言葉が色彩を帯び始めた。
ご住職は言う、
「まず、この世は見るから存在するのです。つまり人間という言葉と視力を共存させた存在が見なければこの世は無いということです」
「それはまさに量子力学の学説です。観測するまでは波動、観測すれば素粒子という」
「私も実は40の時に湯川先生の著書を読んでから、この真理の科学的構造を知りたくなって色々読んでおるのです」
「それから40年以上経ってますね。相当いろいろな理論が繋がってきたのではないですか?」
「ご施主、いえ教授、間違っていたらおっしゃってください。まずこの世の根本となる素粒子が結合して物質となるわけですが、素粒子にはそもそも質量がないので無と言える。いくらこの世が素粒子が結びついた物質で充満していたとしても、無の繋がりでできた物質をたまたま人間が像として把握し言葉で表現しているだけのことなので、本来は無なのです」
「今日現在の学界の認識と相違ありません」
「つまり人が一喜一憂するような物質の有無や相手の嫌な行動というのは幻想なのです。それでも人は悩む、喜ぶ。それは必要のないことです。そもそも無いのだから」
「でも素粒子はエンタングルメントとしてネットワークのように呼応します。無意識の作用が働くとも言えるのでは…」
「それが縁というものなのです。初めからどう繋がるかは決定しているもので、さらにそれが広がっていく。これはあくまで私の考えですが、この縁の広がりがつまり宇宙の拡大のことなんじゃないかと思っているのです」
「なるほど。宇宙の膨張は仮説されていますが解明は物理的に不可能です」
「三千大千世界はご存知だと思いますが、宇宙の規模も仏の教えにはしっかり描かれています。それは数式ではなく打坐から導き出された観念ですが、決して奇想天外なものではない」
「もちろんです。どういう方法で説明するかの違いでしかないと思いますが、まさに真理は一つしかないと信じます。数字での証明は納得材料となりますが仮説や観念無くしては始まりませんので」
「そうやって只管考えることで宙は広がっていくのですな」