9 森の散歩
白銀の青年が無表情の少年たちと何やらトラブルになり、それが原因で青年の頬が腫れるに至ったことはわかった。
しかしそのトラブルの内容はどうしても教えてはくれなかった。
エルネストは彼ら3人の関係者ではないので当然と言えば当然なのだが、毎日会っているので気になるのだ。
それを言うと青年は「エルは優しいね、大丈夫」と頬を押さえながら微笑むだけだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
目が覚めてエルネストは白んできた窓の外を見る。
青年が外に出ると言ってたので少しでも雲が晴れるかと期待したのだが、天候は魔王の意思には関係なさそうだ。
今日も重々しい灰色の雲が一日中空を覆うだろう。
朝食後、部屋に入ってきた青年に黒いローブを渡された。
エルネストが魔王討伐の旅で着ていたものによく似ている。しかし生地は汚れたり穴が開いたりしておらず新品同様だ。
「外は寒そうだから防寒しないとね」
そう言う本人もいつの間にか青灰色のコートを身につけていた。触らなくても羊毛を使った上等なものだとわかる。
エルネストがローブを纏うと青年は慣れた仕草でその手を取った。
「顔の腫れは引いたようだな」
「あ、そう?」
青年は空いている手で自分の頬に触れる。
これほど美しい顔立ちなのに鏡は見ないのだろうか。
「ああ。元通り綺麗になっている」
「……っ」
息を飲み込むような音が聞こえた。
エルネストは不思議に思い青年の顔を覗き込もうとしたが、一瞬後にはくらりと視界が歪んだ。
肌に触れる空気の冷たさで外に出たのだとわかった。
エルネストが瞑っていた目を開けると、うっすらと積もった雪と枯れた木々が現れる。
「こんなに寒いなんて思わなかった」
青年が言葉と共に吐き出した息は白くて煙のようだ。
振り返るといくつもの細い塔でできた魔王の城があった。
「へえ、こういう形だったんだ」
感心する青年にエルネストは訝しげな視線を向けた。
「外から見たことはなかったのか?」
「見た……かもしれないけど、随分昔のことだから忘れちゃってた」
彼はエルネストとあまり変わらない年齢に見える。だが本当に魔王だとすれば100年近く生きているはずだ。
その顔をじっと見ていると、視線に気づいた青年は「あっちに行ってみよう」と森の奥を指さした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
白銀の青年はエルネストの少し先を歩き、たまにこちらを振り返ってきた。エルネストが遅れずについてくるのを確かめると、にっこりと微笑んでまた先を進む。
エルネストは魔物が現れないかと気にしていたが、時折木の枝に鳥がとまっているくらいで何も出てこなかった。
仲間たちと城を目指していた時に何度も凶暴な魔物に遭遇したのが嘘のようだ。
昼近くなってもローブを着ていなければすぐ凍えそうなくらい寒い。しかし歩いていると体が温まってきた。
青年はぴたりと足を止めて振り向いた。
「ちょっと疲れちゃった。エル、休憩しよう」
「ああ」
そう言う割に青年は平気そうな顔をしている。
だがエルネストは断る理由はないので頷いた。
周りを見渡しても今までと同じように枯れた木に囲まれただけの場所だ。見える範囲には鳥も何もいなかった。
「じゃあここにどうぞ」
視線を戻すと目の前に椅子が2脚ある。エルネストが使っている部屋にあるのと同じ物だ。
森の中に椅子が現れるなんて奇妙極まりない。しかし不可思議な魔法を見せられ続けたエルネストはあまり気にならなくなっていた。
エルネストが腰掛けると、青年ももう1脚の椅子にちょこんと座った。
「エル、この森はとても広いの?」
無邪気な質問にエルネストは一瞬目を見開いた。
「ああ……。森近くの集落から城までかなり歩いた」
「歩いたのは夜明けから夜までくらい?」
「まだ夜にはなっていなかった」
「それでもほとんど1日中歩いてきたんだ。勇者たちの体力すごっ!」
「いや、魔物を倒しながら来たから何度か立ち止まった」
「もっとすごいよ……」
青年に感心されてもエルネストは苦々しい気分にしかなれない。
魔王城に着いて魔物たちを蹴散らしながら奥の間に入ったが、魔王には全然歯が立たなかったからだ。
「どう言われようと俺たちは無力だった」
「エル?」
史上最強のパーティと言われながら魔王に一矢を報いることさえ無理だった。それでは何もできなかったのと同じだ。
青年はこてんと首を傾げた。
「エル、どうして勇者たちは城にいる魔王を倒そうとするの?」
「……は?」
からかうにしてはタチの悪い冗談だ。
エルネストはそう言い返そうとしたが、青年の素直な目に揶揄する様子はない。
「魔王が現れてから、森が拡大し続けている」
「うん」
「森は不毛の土地だ。それに魔物が近くの人々や家畜を襲っている」
「それは、魔王を倒せばなくなること?」
「そうだ」
そう答えたが根拠は古い文献だけだと聞いた。
エルネストは奇妙なもどかしさを感じながら話を続ける。
「同じことが1000年ほど前にも起こったらしい。王都から勇者たちが森へ入り、城にいる魔王を倒した。すると森は拡大を止め、魔物も出なくなったそうだ」
「そうなんだ」
青年は訝しむこともなく素直に相槌を打った。
そんな彼を見てエルネストは何故か気まずさが湧き起こる。
今まで王や学者たちを疑ったりはしなかったが、本当に魔王が元凶なのだろうか。
「それでエルネストたちも城に来たんだね」
エルネストが頷くと、青年はすっと立ち上がった。
彼は優雅にエルネストに歩み寄る。
そして腰を曲げて息がかかりそうなくらい顔を寄せた。
「エル、魔王を倒したい?」
突然の問いに息を呑んだ。
この質問が数日前ならすぐに「そうだ」と答えただろう。
しかしエルネストは即答できず、ただ彼の目を見つめるだけだった。
青年は少し困ったように眉を下げた。
「うーん……。じゃあ、森が大きくなるのも魔物が出るのも困るよね?」
「ああ」
答えてから、大人に言い含められた子どものような気分になる。
「だが……」
エルネストが言おうとした言葉を遮るように、青年は目の前に手をかざした。
そして、ゆっくりと両手で包み込むようにエルネストの手を握る。
「エル、僕を殺せば魔王を倒せるよ」
「な……」
何を、と続く言葉が出ない。
頭の奥では彼に同意する自分がいる。
青年はエルネストの両手首を取り、その手を自分の首へ当てた。
「エルの魔力がなくても体力は残ってるよ。このまま絞められるでしょ?」
温かい手と違い、彼の首は雪のように冷たい。
エルネストの心臓はずきんと鳴った。
固まったままのエルネストへ、青年は優しく微笑む。
「抵抗したり逃げたりしないから大丈夫」
「そういうことじゃない」
これは冗談でもないし、油断させようと企んでいるわけでもない。
青年は本気で自分をエルネストに殺させようとしている。
エルネストは本能的にそう悟り、乱暴に彼の手を振りほどいた。
後ずさりしながら急に心臓がうるさく鳴り始める。
「絞殺は生々しいかな? じゃあ……」
青年の手に靄がかかる。
それがいつの間にか細身の短剣へと変わった。
「エルは元々は騎士になるつもりだったんだよね? これくらいの剣なら扱えるでしょう」
ほら、と渡してきた短剣をエルネストは手に取る。軽く柄を握るとそのまま地面へ投げ捨てた。
「俺は……人を殺したりしない」
断言すると青年は少し悲しそうな顔で首を横に振った。
「エル、僕は人じゃないと思う。……たぶん」
「たぶんとはどういう意味だ?」
本当に彼が魔王なのか、そうではないのか。
魔王であれば倒すべき相手だが、エルネストは無抵抗な者に武器を使うほど非情にはなりきれない。
「魔法が使えても僕の体は普通の人くらい弱いんだ。僕という器がなくなればきっと魔王の力もなくなるよ」
だから、と言いながら青年は短剣を拾おうとした。
エルネストはその両肩に手を置いて制する。
「人じゃないのに他人に食事を出すのか」
「だってそれは……」
「人じゃないのに仲間へ手紙を書かせて届けるのか」
「エル……」
どんな魔法を見せられても、恐ろしい声を聞かされても、この白銀の青年はエルネストにとって優しい人間だった。
そう口にするつもりだったのに、唇にぴたりと長い指が当てられた。
ーー視界が歪む。
最後に見えたのは「さよなら」と口を動かす綺麗な青年の顔だった。