8話 記憶 (麗子視点)
仕事をしていても、時折思い出す。
数年前に起きた、あの日の出来事を。
『その人……一体誰よ』
頭が真っ白になったあの瞬間。
現実を受け止めきれないあの感覚。
5年経った今も、私の脳裏にべったりとこべり付いてる。
『違うんだ麗子……! これには事情が……!』
あの人の震えた声音、慌てた表情。
その隣に座る知らない女の顔さえも。
私の消えない記憶として、今も鮮明に残ってる。
戸惑い、不安、そして怒り。
私の心は様々な感情に包まれていき。
やがて胸に穴が開くような、とても悍ましい感覚に襲われた。
『もういいや。じゃあな麗子』
そして私を捨てたあの人。
彼が最後に残したたった一言で。
色鮮やかだった私の思い出が、意味のない白紙へと変わった。
——そこそこ楽しかったよ。
* * *
あの日以来。
私は自分に自信を持てなくなっていた。
いつしか男性や恋愛に苦手意識を持ってしまっていた。
仕事で顔をあわせる男性も。
私に好意を持って近づいてくる男性も。
誰もが全て怖い猛獣のように思えてしまう。
どれだけ立派な言葉を並べていようと。
どれだけ熱く想いを告白していようと。
最後まで私の目を見てくれる人は、誰1人としていない。
だからこそ全てが詭弁に聞こえてしまい。
結局私は誰も信じることができなかった。
信頼してもどうせ最後は裏切られる。
期待してもどうせ最後は幸せにはなれない。
そうやって全てをマイナスに捉え続けて。
気づけば私は数年間、ずっと1人のままだった。
でもある時。
私は1人の新入社員の男の子と出会った。
彼はとても誠実で、真面目で。
優秀じゃなくとも、常に真剣に仕事に取り組んで。
いつも私の目を、まっすぐに見つめてくれていた。
仕事で顔を合わせる時も、それ以外の時も。
いついかなる時も、彼は私のことを信頼してくれる。
私の言葉を素直に受け止めてくれる、とても不思議な人だった。
やがて私と彼は時間を共有することが多くなり。
彼と一緒にいればいるほど、私はたくさんの感情を抱いた。
人を信頼できることの大切さ。
人に信頼してもらえることの温かさ。
私の心に空いていた穴を、彼が埋めてくれていた。
本当の意味で私を見てくれている。
本当の意味で私と向き合ってくれている。
そう思えるだけで、私は彼に救われてたのかもしれない。
ある日——。
私は彼に告白された。
心の底から嬉しかった。
白紙になった私の記憶を、彼でいっぱいにしよう。
そのために私は、彼のために自分の全てを捧げよう。
絶対に大切にしてしてあげるんだって、心に誓ったはずだった。
なのに……。
なぜ私は、あんな態度を取ってしまったのだろう。
彼の気持ちも考えず、理不尽に感情をぶつけてしまったのだろう。
今になると彼の言っていたことが正しいってわかる。
会社で一緒にいることが増えれば、必ず噂になるだろうから。
そのために彼が気を遣ってくれていたこともよく理解できる。
でもあの時の私は違った。
気づけば彼に当たってしまっていた。
どうしようもなく不安になってしまっていた。
私がおかしいって今ならわかるのに。
なぜあの時は、気づけなかったんだろう。
昔の私ならあんなことしなかったはずなのに……。
「どうしちゃったのよ……私」
気持ちに全く余裕がない。
感情が思い通りにならない。
まるで自分が自分じゃないみたいに。
彼に嫌われたかもしれない。
また捨てられてしまうかもしれない。
そんなマイナスな感情が私の心を酷く乱していた。
「……でも、謝らないと」
* * *
昼休み。
私は意を決して彼の元に向かった。
先日のことを謝罪するため。
昼食ついでに彼と少し話をしたかった。
「保坂くん、少しいいかしら」
「せ、瀬川さん。どうしたんですか急に」
でも、私が声をかけた瞬間。
私に気づいた彼の表情が、少し引きつったような気がした。
(やっぱり嫌われているんだわ……)
そう思うと、抑えていたはずの不安が一気に湧き上がる。
5年前の”あの時”のように、また私は捨てられてしまうんだろうって、まだ起きてもいない結末を、勝手に想像して落ち込んでしまう。
「や、やっぱり何でもないわ」
やがて彼と目を合わせるのも怖くなり。
気づけば私は、自ら彼の元を去ってしまっていた。
こんなことをしたら、私は更に嫌われてしまう。
頭ではそうわかってはいても、思いとどまれなかった。
振り返って、彼と会話するだけの勇気が私にはなかった。
でも——。
「あの、瀬川さん!」
彼は私のことを呼び止めてくれた。
「もしよかったら、これからお昼でも一緒にどうですか?」
「えっ……?」
しかもそれだけじゃない。
彼はちょっぴり照れながらも、こんな私をお昼に誘ってくれたのだ。
「ど、どうですかね」
「え、えっと……」
とても嬉しい。
嬉しすぎて言葉が出てこない。
だって私は彼に嫌われていると思っていたから。
彼の方から誘ってくれるなんて夢にも思ってもいなかった。
「いやあの……無理にとは言わないんですけど」
「ううん、嫌なわけじゃないの。むしろ逆で……」
「逆……?」
さっきまであれだけ落ち込んでいたはずなのに。
彼のたった一言で、こんなにも気持ちが晴れてしまう。
今まで悩んでいたことが、どうでもよくなってしまう。
やっぱり私は、おかしくなってしまったのかもしれない。
これで彼に嫌われてないことになったわけじゃないことは、流石の私もわかってる。
それに彼が私を誘ったのだって、ただの偶然なのかもしれない。
でもね——。
「喜んでご一緒させてもらうわね」
彼が私を気遣ってくれたこと。
私を見て少し照れてくれたこと。
それがたまらなく嬉しく思えてしまった。