18話 瀬川麗子
俺は油に侵された重い身体で必死に走り。
ようやく瀬川さんの腕を掴むことができた。
「瀬川さん……!」
名前を呼んでも振り返らない。
瀬川さんは今、泣いているのだろうか。
それとも俺に幻滅してしまったのだろうか。
俺とて色々思うところはある。
でも彼女はそれ以上に思い詰めているに違いない。
正直今すぐにでも話し合って誤解を解きたかった。
だがここじゃまずい。
互いの気持ちを確かめ合うには、あまりにも人が多すぎる。
「ひとまずこっちへ」
俺は少し強引に瀬川さんの手を引き。
人の少ない路地裏へと彼女を連れていった。
ここなら誰にも注目はされない。
全力で走ったせいでまだ少し息は荒いが。
そんな悠長なことを言えるほど、この状況は単純じゃなかった。
「瀬川さん聞いてください」
「もうあなたから聞く話はないわ」
今の瀬川さんは聞く耳すら持っていない。
全てを塞ぎ込み、涙を零しながら俯いていた。
だがここで俺が無理だと諦めてしまったのなら。
きっともう瀬川さんの隣に居ることはできなくなる。
一緒に美味い酒を飲んで、一緒に笑いあって。
同じ時間を過ごす幸せを失ってしまうことになる。
そんなのは……考えるだけで虫酸が走った。
「誤解なんです……」
だから俺は声を上げた。
俺を拒絶する彼女に必死になって争った。
「俺と藍葉はそんな関係じゃない!!」
瀬川さんに真実を伝えたいその一心で。
珍しく俺は、酷く感情的な一言をぶつけてしまっていた。
「わかってる」
「えっ……」
瀬川さんの小さなその声に。
俺は欠けていた冷静さを取り戻した。
「今わかってるって……」
「うん、わかってる。私が誤解してたことも全部」
全部誤解なのはわかっていた。
じゃあなぜ瀬川さんは怯えていたんだ。
なぜあんなにも辛そうに泣いていたんだ。
「わかっていたけど。でも信じれなかったの」
「信じれなかった……?」
「保坂くんが浮気をするような人だとは思わないし、藍葉さんと一緒にいたのだって、ただの偶然だったってこともわかってる。あなたはそんなことで私を裏切ったり、悲しませたりするようなことは絶対にしない人だから」
「じゃあなんで——」
「でもね」
じゃあなんで信じてくれないんですか。
俺のその言葉は、瀬川さんによって上書きされた。
「私が、私の過去が、あなたを信じさせてはくれないの」
「瀬川さんの……過去?」
「そう」
瀬川さんは続ける。
「私ね。以前に結婚を約束してた彼氏がいたの」
「以前……それは何年前の話ですか?」
「5年前よ」
5年前というと。
瀬川さんがまだ会社に入社したての頃だろうか。
「ちょっと待ってください。今結婚を約束してたって」
「そうよ。5年前、私は結婚を約束したその人に捨てられたの」
「捨てられた……⁉︎」
「相手の浮気だったわ」
衝撃的な事実を前に内容を掴めないでいると。
そんな俺のために瀬川さんは全てを話してくれた。
5年前。
当時の瀬川さんには結婚を約束した相手がいた。
その人とは大学時代に出会い。
親交を深めるうちに交際へと発展。
大学卒業と同時に同棲生活をスタートさせた。
同時期に今の会社へ入社。
社会の荒波に揉まれながらも。
瀬川さんは幸せのために必死に仕事をした。
いつか結婚しようね——。
そして。
いつしか結婚の約束を交わし。
彼との約束を果たすためより一層仕事に精を出していた。
一生懸命お金を貯め。
一生懸命彼のために尽くした。
多少の不満はどうでもよかった。
全ては彼のことを信じていたから。
心の底から愛していると言える人だったから——。
でもある時。
瀬川さんは捨てられた。
信じていた相手の浮気によって。
積み上げてきたものが一瞬にして崩れ落ちたのだ。
「信じたくなかった。話し合って和解できるなら、私はそうしたかった」
「でも相手には話すら聞いてもらえなかった……」
「ええ。やがて彼は知らない女性と家を出て行ったわ。私1人を残して。その時彼に言われたあの言葉……私は今でも鮮明に覚えてる」
教えてください。
とは、口が裂けても言えなかった。
瀬川さんの気持ちを考えると胸が張り裂けそうな思いだ。
「元々彼が女性を好きなのは知っていたの。私が貯めた貯金を切り崩していかがわしいお店に行っていたことも、そこで他の女性に貢いでいたことも全部。知っていたけど何も言わなかった。それで彼を縛ってしまう気がしたから」
彼を縛りたくはない。
できるだけ自由にさせてあげたい。
瀬川さんはその思いから、相手の女遊びを黙認していた。
「でも結果的にそれ繋がりで知り合った女性と浮気されちゃったわ。私は彼のためにと思って我慢していたけど、彼にとっての私は所詮その程度の存在だったのよ」
それ以来男性に苦手意識を持ってしまい。
一度は生涯独身でも構わないと思った時もあったそうだ。
「私だって本当は保坂くんのことを信じてあげたい。昔みたいに好きなことを好きなようにやらせてあげられる彼女でいたい。でも……どうしてもできないの」
過去のトラウマで性格が変わる。
自分が自分じゃなくなったような感覚になる。
それがどれだけ辛くて耐え難いことなのか。
話を聞いているだけでも痛いほど伝わってきた。
「保坂くんはとても優しい人だわ。こんな私のことも大切に思ってくれているし、藍葉さんや堀くん、他にもたくさんの人から信頼されている」
優しくしてくれるからこそ。
一方的に怒ってしまう自分が許せない。
信じられる人であるからこそ。
信じてあげられない自分が許せない。
「ごめんね……あなたに迷惑ばかりかけて」
自分を許すことができない。
だからこその謝罪なのだろう。
俺とて同じ立場なら、そうしていたのかもしれない。
思っていた恋愛ライフとは違う。
確かに俺は心のどこかでそう思ったりもした。
瀬川さんはメンヘラで。
釣り合うためには俺の頑張りが必要だって。
話を聞いた今もその考えが全て変わるわけじゃない。
ただ——。
これだけははっきり言える。
「迷惑とか、そんなの考える必要ないですよ」
今まで瀬川さんと付き合ってきた時間……いや、出会ってからのこの3年間で、俺は一度たりとも彼女のことを迷惑だと思った瞬間はない。
「俺はあなたのことを愛してますから」
そんな小さいことが気にならないくらい、瀬川さんは可憐で大人で心から信頼できる人間で、俺はそんな彼女のことをずっとずっと好きだったのだ。
「ほ、保坂くん⁉︎ いきなりどうしてっ……⁉︎」
だから俺は彼女を抱きしめた。
「瀬川さん。いや、麗子」
この想いを余すことなく伝えるために。
彼女の辛い過去を一緒に背負っていくために。
「あなたの傷は俺が必ず治してあげるから」
俺は心に誓った。
彼女が負ったメンヘラという傷。
その傷を癒す治療薬が見つかるその日まで。
俺はこの手でその傷を塞いであげるんだと。
* * *
泣いている瀬川さんを抱きしめ。
俺のありのままの想いを全て伝えることができた。
まではよかったのだが……。
「ハッッ……!!」
突如襲ってきた羞恥心。
それによって俺は反射的に瀬川さんから身を引いた。
「す、すいません……! つい流れで……!」
初めて彼氏らしいことをしたからだろうか。
冷静になると尚、恥ずかしさの波が押し寄せてくる。
近くに穴があるなら今すぐにでも入りたい気分だった。
「い、痛くはなかったですか⁉︎」
「ええ、大丈夫よ」
「で、でも結構強めに行っちゃいましたし……」
「いいのよ。とても嬉しかったわ」
瀬川さんはそう言ってくれているが。
今の俺はだいぶ感情が先走ってしまっていた。
(あれ? 濡れてる?)
何やら俺の肩が濡れているようだ。
もしかしてこれは瀬川さんの涙だろうか。
この感じだと結構な時間抱き合っていたのかもしれない。
「本当に大丈夫でしたか?」
「そんな気にしないでも大丈夫よ。でも——」
すると瀬川さんは、俺の鼻先を指でつついた。
「私はあなたの先輩よ? 麗子さんと呼びなさい」
その朗らかな笑顔。
優しく微笑みかけてくる彼女が、まるで天使にも見えた。
「れ、麗子さん」
「うん、よろしいっ」
ドキッ。
心臓が跳ねる音が聞こえる。
付き合って以来、いや出会ってからここまで。
瀬川さんのこんな表情を見たことがあっただろうか。
心からの笑顔を浮かべる瀬川さん。
その瞳に残った一水の涙はまるで宝石のようで。
一度その美しさを目の当たりにすれば、もう……。
……想いを抑えることは叶わない。
「麗子さん。大好きです」
「私もあなたが大好きよ」