13話 オムライスと焼肉 ③
「お会計が23400円になります」
俺は耳を疑った。
夢かとすら思った。
「嘘だろ……」
ここは特別高級な店というわけでもない。
何ならこの辺では安くて美味いと評判な店なはずだ。
確か前に堀と来た時は、せいぜい2人で1万円くらいだった。
それなのにだ……。
俺たちの会計は同じ2人でも2万3千円オーバー。
どう贅沢したら同じ店でここまでの差が生まれるんだ。
表示された数字を見ても、今だその事実を受け止めきれない。
「センパイ、ごちそうさまで〜す」
「お、おう……」
当然藍葉は奢ってもらう気満々。
この金額を前にしても顔色ひとつ変わりやしない。
俺が奢ると言ったのだから、それはそうなのだが。
「……カードで」
なんて、格好良く言ったはいいものの。
許されるのならば、今すぐにでも泣きたい気分だった。
入社1年目の新人に奢るには、あまりにも痛い出費だ。
(良い肉ばっかり頼みやがって……)
これじゃ高級焼肉店と何も変わらない。
強欲な藍葉に気を遣って小さい肉ばかり食べていたが。
こんなことならもっとでかい肉を食っておけばよかった。
「はぁ〜、お腹いっぱい」
「あんだけ頼んだからだろ……」
「え〜? 別に普通だと思いますけど」
「あほ。これが普通であってたまるか」
店を出ると藍葉は平気な顔でそう言ってのける。
こいつの価値観がおかしいのはさておき。
使ったお金はもう戻っては来ないわけで。
いつまでもぐずぐず落ち込んでもいられない。
「満足したなら明日からまた仕事頑張れよ」
「まあ少しくらいならいいですけど」
この焼肉が藍葉のやる気につながるのなら。
今日の痛手が、多少なりとも報われる気がする。
意地でもこいつには、焼肉分の働きをしてもらわなければ。
「その代わりまた奢ってくださいね!」
「はぁ……お前はそれしか言えんのか」
「てへへっ」
あざとく誤魔化そうとして来たが。
あいにく俺にそんな小賢しい真似は通用しない。
そもそも藍葉は俺なんかよりもずっと優秀な人材だ。
学歴もセンスも覚える早さも確かなものを持っている。
もしかしたら数年後、俺はこいつに抜かれているのかもしれない。
だが現状は違う。
いまいち自分の能力を活かしきれていない。
それは藍葉の一番の欠点が、できるのにやらないことだからだ。
「お前はやればできるんだから、少しは頑張ってみたらどうだ」
「も〜、せっかく気分が良かったのに説教ですか〜?」
「また奢ってくださいとか、生意気なこと言うからだろ」
「いいじゃないですか〜。今日の焼肉だって楽しかったし〜」
「ほーう。それじゃ今のままお前が仕事にやる気を出さないようなら、俺は今後一切お前には飯を奢ってやらんからな」
「えぇぇ〜! そんなぁぁ〜!」
給料だけではやる気につながらないのだろうか。
俺が少し脅すと、藍葉は必死にすがりついてきた。
「まあ奢らないと言うのは冗談だ」
「な〜んだ。それならよかったです」
「だけどできる範囲のことは、なるべく自分の力でやるんだぞ」
「は〜い。わかってま〜す」
先輩として後輩の更なる成長を願い。
俺は今日使った23400円に永遠の別れを告げたのだった。
「駅まで送る」
* * *
「センパ〜イ」
「んー」
「ちょっと酔っちゃったみたいです」
駅に向かう途中。
後ろをついて来ていた藍葉が、不意にそんなことを言い出した。
「調子に乗って飲むからだろ」
「だって、あのお酒美味しかったんですもん」
「だからってペースを考えないで飲んだらダメだろ」
「むぅぅ〜、センパイはすぐそうやって説教する〜」
「説教って……別にそんなつもりはないが」
確かに藍葉の足取りは、少し覚束ないようだ。
おまけに呂律も上手く回っていない気がする。
「ほら、腕貸してやるから」
もし転ばれたりしたら大変だ。
そう思って俺は藍葉に左腕を差し出した。
その瞬間——。
「危なっ……!」
藍葉はふらふらっと重心を崩し。
俺の胸に勢いよく飛び込んで来たのだ。
「お、おい。大丈夫かよ」
「すいません。ちょっと足がもつれて」
慌てて藍葉を受け止めた俺。
ふと彼女の足元に視線を落とすと。
「お前今日ヒールだったのか」
歩きにくそうなヒールを履いていたのだ。
酔っている時にこれでは、こうなるのも仕方ない。
「とりあえず怪我とかはないか。足を捻ったりだとか」
「はい、おかげさまで」
「そうか」
突然の出来事に驚きはしたが。
藍葉に怪我が無いようでひとまずはよかった。
どうやら駅まで送る俺の判断は正しかったらしい。
「な、なあ藍葉」
「なんでしょう」
「その……そろそろ離れてくれると助かるんだが」
「それは無理です。まだちょっと頭がふわふわしてます」
藍葉が無事なのはいい。
転ばなかったのは本当にラッキーだった。
しかしだ。
今はそれを素直に喜べる様な状態じゃない。
なぜなら受け止めた藍葉との距離があまりにも近すぎるからだ。
「だからって流石にくっつき過ぎじゃないか?」
「くっついてないと、私また倒れちゃいますし」
俺から離れればまた倒れてしまう。
という藍葉の言い分はよく理解できる。
俺としても目の前で後輩に怪我をされるのは避けたい。
だとしてもだ。
酔っ払った男女でこの距離感はまずいだろ。
俺とていつまでも平静なままじゃいられないぞ。
「センパイ、意外といい匂いしますね」
「っっ……」
おまけにそんなことを呟いたと思えば。
藍葉はなぜか、俺の胸元に顔を埋めて来た。
「ま、まだ辛いのか……?」
「はい、まだ全然無理そうです」
一向に離れようとしない藍葉。
俺にもたれかかるように、全体重を預けて来ている。
なので離れようにも、俺からは全く身動きが取れなかった。
(あとでセクハラだの何だのって言われないよな……)
後輩へのセクハラを告発されて会社をクビ。
なんて凡人の俺からしたらシャレにならない。
一刻も早くこの状況を何とかしなければ……。
「センパイ」
俺が1人テンパっていると。
俺の胸に顔を埋めていた藍葉がふと顔を上げた。
その頬はお酒のせいか薄い桃色に染まっており。
浮ついた瞳で、俺の顔をじーっと見つめてくるのだ。
「な、何だよ」
急な視線故に俺は思わず息を飲む。
ゴクリと飲み込んだそれが喉元を過ぎたその瞬間。
胸の鼓動が一気に加速したのが、自分でもよくわかった。
「具合でも悪いのか」
苦し紛れに出たその問いに、藍葉からの返事はない。
沈黙と緊張が交差する中、なぜか目の前のこの子だけは平静に見えた。
何も言わずただじっと、俺のことだけを見つめていたから——。
「センパイ。まだ帰りたくないです」
やがて藍葉から出たその言葉。
それがどんな意味を含んだものなのか。
この時の俺は、瞬時に理解してしまった。