16.こういう男なんだよ!
水沼さんと別れた後は再び県道バイパスまで戻り、来た時と同じ道を来た時と同じように歩いて引き返した。
時刻表を確認すると次の電車までは三十分近くあったし、乗り継ぎのことを考えると歩いた方が早く戻れる気がしたのだ。
歩きながら、僕は今後について考える。
とにかく、まずは僕にかけられた呪いだかまやかしだかダークパワーだかを取り除かなければならない。
もちろんそれは問題のゴールではなくむしろスタートラインに過ぎないのだけど、しかし後のことは後で考えればいい。今は余計なことを考えるな。
往路ではしっちゃかめっちゃかだった脳内が、今は嘘のようにクリーンに片付いていた。
状況は依然として絶望的なのだけど、少なくとも闇雲な絶望ではなくなった。
まだ行動の余地があることがわかったのだ。それは些細にして決定的な違いだ。
とはいえ、残された時間はそう多くはないという気がした。
夕声がいなくなってから、すでに丸一日が経とうとしている。
一昼経ち一夜越すごとに、彼女はどんどん遠くなってしまう――そんな根拠のない胸騒ぎがあった。
カウントダウンはすでにはじまっているのだ。残り時間の見えない秒読みが。
女化界隈に戻ってきた頃には、すでに東の空は夜に染まりはじめていた。
あたりには馴染みの風景が現れている。
セブンイレブンとエネオスのガソリンスタンドが業務提携した店舗が交差点の角にあり、そこを左に折れれば我が家はもう目と鼻の先だ。
その交差点で、しかし僕は左ではなく右に折れて進路を取った。
見えない秒読みは刻一刻と進行していて、だから、家路につくにはまだ早い。
※
大理石のテーブルにオレンジジュースが置かれた。目の前で栓の抜かれた瓶のオレンジジュースが、ご丁寧にもコースター付きで。
「よろしければ、椎葉先生、是非お注ぎさせてください」
「い、いやいやいや、若輩の身ですので手酌で、ほんと、お構いなく」
お気持ちのみありがたく頂戴いたしますと僕が断ると、見覚えのあるタヌキの旦那はそうですかとすんなり引き下がった。
やれやれ、ここでも僕は椎葉先生か。
瓶の口からかすかに立ち上る冷気の煙が、火を吹いた直後の銃口を連想させた。きっと場所が場所だからだろう。
それほどまでにこの部屋は、組事務所めいている。
「やぁ椎葉くん、お待たせしたね」
タヌキの旦那たちに囲まれながら待っていると、やがて奥から待ち人が現れた。
「親分、本日はお時間をいただいて、誠に――」
「ああ、そうかしこまらんでくれ」
ソファーから腰を浮かしかけた僕を、文吉親分が手振りで制する。
「わしと君の仲じゃないか。素直に甘えてくれたほうがわしは嬉しいぞ?」
そう言った文吉親分は、まるっきり言行一致した顔をしていた。
ほくほくと機嫌がよくて、純粋に僕の訪問を喜んでくれているのだとそう伝わってきた。
おじいちゃん子だった僕には、なんだか懐かしくて嬉しい感覚だ。
「ありがとうございます。話すと長くなるのですが、実は……」
「夕声ちゃんに化かされてるみたいだね」
ズバリ言い当てられて、二の句を失う。
「別に難しいことじゃないよ。君にかかっているそれはキツネにかけられたまやかしだろう? 君と付き合いのあるキツネはあの子しかおらんからな。そしてなにより」
と、親分はそこで意味ありげにニヤリと笑って、
「意気地無しの君がこうして一人で訪ねて来た、それが一番の証拠じゃないかね?」
「……おみそれいたしました」
文字通り両手をお手上げする僕であった。
それから、僕はソファーの上で姿勢を正す。対面に座した親分に向かって。
「文吉親分、この呪い、どうにか解いていただくことはできないでしょうか?」
「だから、そうあらたまるなと言ったばかりだろう」
再び僕を諫めたあとで、親分は短い言葉で仲間に指示を出す。タヌキの一人が冷蔵庫から瓶入りのプリンを持ってきて僕と親分の前に置いた。ひとまずそれを食べて落ち着きなさい、と親分が言う。食べるまで話は聞いてやらんぞ、と。
「しかし、キツネのまやかしは、悪いがタヌキではどうにもできんよ」
プリンを食べ終えたあとで文吉親分は言った。
「化けるならともかく、化かすことにおいてはタヌキじゃキツネにはとても敵わん。いや、タヌキに限らず、キツネのまやかしをどうこうできる化生なぞそうはおらんだろう」
「そうですか……」
消沈して、僕は大理石のテーブルに視線を落とした。
そんな僕に、親分は言った。
「なぁ、椎葉くん。まやかしを解くことはできんが、力になれんわけではないぞ?」
親分の提案は、次のようなものだった。
「君の目的はまやかしをどうこうすることじゃなくて、夕声ちゃんと仲直りすることだろう? だったらわしがあの子に口を利いてあげよう。
まずは龍ケ崎タヌキ総出で夕声ちゃんを見つけ出し、そして一言『椎葉くんと仲直りしてあげなさい』と言うんだ。簡単に仲直りできない事情があるとしても、せめて君に連絡するようお願いしよう。夕声ちゃんはいい子だから、この文吉のお願いを無碍には突っぱねんはずだ」
どうする? と文吉親分。
いったい、なにを迷うことがあるだろう。
僕は一秒の半分も考えずに答えた。
「せっかくですが、お断りいたします」
そう言って、僕は親分に頭を下げる。
「親分のご提案は、正直とても魅力的です。だけど、もしもここで親分にお願いして、それで無理矢理夕声を連れ戻せたとしても、それでは本当の意味で彼女を取り戻せたことにはならないと思うんです。……いいえ、その選択肢を選んだ瞬間、僕はもう二度と夕声を取り戻せなくなる。そんな気がするんです」
ですから、大変ありがたいお申し出ですが、お遠慮させてください。
一気にそこまで言って、下げた頭をさらに深々と下げた。
しばらくの間、誰もなにも言わなかった。
その場にいた全員が無言となった。組事務所めいたリビングを沈黙が支配した。
誰かが唾を飲む音が聞こえた気がした。
それから、突如としてその沈黙が破られる。
上機嫌を極めた大笑によって。
「わはははははは! よくぞ言ったぞ! さすがはこの文吉が見込んだ青年だ!」
相好を崩しに崩した文吉親分が、言っただろう、こういう男なんだよ! とタヌキたちに言う(既視感のある言い回しだった。というかこっちがオリジナルか?)。
今日はじめて顔を合わせたタヌキたちの僕を見る目が変わったのを感じた。
さっきオレンジジュースを注ごうとしてくれた旦那が、なぜだか得意そうに肯いている。
「おい、椎葉くん。今夜こそ付き合ってもらうぞ」
と、盃を傾けるジェスチャーで文吉親分。
「下戸なのは知っとるが、この文吉の親切心を突っぱねたのだ。罪滅ぼしに一杯くらい付き合え」
「……いやでも、僕ほんとに弱くて……」
と、断る言葉を途中まで口に仕掛けたとき、不意に思い出したのだった。
『酒が邪気や魔を払う』という話を。
「……いえ、わかりました! 是非いただきます!」
試せることはなんでも試そう。
そんな覚悟と共に、僕は親分のアルハラを受け入れた。




