24.夕声ぎつね(後)
「そしたら、あたしはあんたの前からいなくなる。永久に」
答えたと同時に、夕声が泣き出しそうな顔になる。
自分で口にした仮定に、自分で傷ついたみたいに。
その瞬間、僕の内側に様々な理解が生まれた。
夕声が頑なに狐の姿を見せようとしなかったこと。
にもかかわらず、彼女が『自分はキツネだ』と主張し続けたこと。
矛盾していると思われた事柄すべてに合点がいった。
つまり夕声は、彼女は僕にキツネである自分を受け入れて欲しくて、同時にそれによって拒絶されることも恐れていたのだ。
正体を知られた狐嫁のように、僕の前から去らなければいけなくなることを。
「もしも狐の姿を見られたら、君は僕の前から消えてしまう」
あらためて確認した僕に、夕声が痛切な表情で肯く。
そんな彼女の顔が、あまりにもけなげで、愛おしくて。
だから、僕は言った。
「そっか、それじゃあ――絶対にお断りだね」
夕声が、びっくりした顔で僕を見た。
「部屋は出てかない、目も瞑らない。ああ、全部お断りだね」
「え……だっ……なんで…・…」
「僕はここにいる。ここにいて、君の狐の姿をとっくりと拝ませてもらう」
宣言するようにそう言って、続けた。
「君が狐だろうが人間だろうが、僕はもうとっくに君を受け入れてるんだ。だったら、いまさら瞑れと言われて目を瞑るのは、それこそ君との友情に悖ることになる」
だから出てかないし、目も瞑らない。
「それにさ、最初から目を瞑らないでおけば、いつか魔が差して目を開いた時に君を失うって危険もなくなる」
だったら瞑らない方が絶対得じゃん。そう冗談めかして僕は言った。
夕声はなにも言わなかった。
なにも言わずに、しばらく両手で顔を覆っていた。
ややあってから、夕声は意を決したように、ただ一度だけ力強く肯いた。
そして。
「……『とっぴんぱらりのぷぅ』」
夕声がそう唱えた瞬間、彼女の輪郭がぐんにゃりと歪んだ気がした。
それから、目眩に似た感覚がやってきた。
僕はたまらず目頭を押さえて瞑目する。
そうして目を開けたとき。
夕声の姿は消えて、その空白に滑り込むようにして一匹の狐が現れていた。
「……!」
その狐の美しさに、思わず息を呑んだ。
真っ白な、雪よりも真っ白な毛並みの白狐だった。
アルビノではない。瞳はうばたまという言葉を想起させる艶めいた黒で、そこにははっきりと知性の輝きが宿っている。
狐は檻に近づくと、鉄柵の外側から中の二匹に小さく鳴きかけた。
すると、檻の中の二匹はさっきまでの猛り狂いが嘘のようにおとなしくなって、狐に応じるようにこちらもまた小さく鳴く。
それから、少しでも狐に近づこうとして鉄柵に顔を近づける。
三匹の獣たちは、鼻面を至近に接して、かすかな声でしばし鳴き交わしていた。
その様子を、僕は言葉もなく見守っている。
言葉なんてどこかに忘れ去って。
やがて、檻の中の二匹は丸くなって眠り始める。お互いに身を寄せ合って、お互いの体温でお互いを温めるようにして。
それを確認したあとで、狐はゆっくりと、静かに檻から離れた。
「ぐ……」
僕が再びの目眩に襲われたのはそのときだった。
そうして目を開けた時、美しい狐の姿はもうどこにもなかった。
僕の目の前には、いつもの姿の、いつもの夕声がいた。
「……お、おっす」
いつもの彼女が、いつもの挨拶をした。なんだかひどくバツが悪そうに。
「えっと……こいつらのことはこれで大丈夫だよ。もうなんにも心配いらないんだって、ようく言って聞かせたからさ」
「う、うん」
ぎこちない空気が僕と夕声の間を流れていく。
「そ、その、あの」
ややあってから、夕声がおずおずと声を発した。
「……あの、どうだった?」
ひどく不安そうな顔で彼女はそう聞いてきた。
「あ、うん、ええと……」
僕はどうにか言葉を探して、ようやく答える。
「すごく綺麗だった……」
「……は?」
「だって、見るからに触り心地のよさそうな、完璧を越えて完璧な毛並みで……あの、今度一度モフらせて欲しいって言ったら、これってセクハラとかに当たるかな?」
コンプライアンスを気にしつつも最大限に素直な感想を口にした僕を、夕声が呆れきった顔で見つめている。なんだその反応は?
「え、どうだったって、そういうことじゃないの?」と僕。「ああ、狐の姿を見てなにか意識が変わったかってこと? 最初に言ったけど、そんなの変わらないよ。その程度で見る目を変えるには、この三ヶ月で僕は君に鍛えられすぎてる」
そんなの当然とばかりに僕がそう答えると、夕声はしばし言葉を失って。
それから、二つの瞳からぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「え、ちょ、え……」
女の子の涙に慣れていない僕は、今夜の無様を更新するほどに取り乱してしまう。
そんな僕をよそ事に、夕声は泣いた。
声をあげて、子供みたいに泣きじゃくった。
そうしてしばし泣いて、泣いて、泣き続けたそのあとで。
彼女は泣きはらした顔の上に、とびきりの笑顔を浮かべて僕に言った。
「スケベ」




