23.夕声ぎつね(前)
栗林夕声と僕が出会ってから、およそ三ヶ月になる。
長いようで短い、だけどべらぼうに濃密な三ヶ月だった。
出会ったその夜から、彼女はとりもなおさず『自分はキツネだ』と主張し続けた。
正体を少しも隠そうとせずに、むしろ積極的に彼女はそれをアピールした。
だけど、夕声がその証左を僕に披露したことは、これまでに一度も無かった。
たとえばタヌキたちのようになにかに変身して見せてくれたりとか、あるいは本性であるキツネの姿を見せてくれたりとか、そういうことは。
折に触れ僕が『狐の姿を見せてくれ』と頼んでも、からかうように一言『スケベ』と言ってかわしてしまうのが常だった。
だから。
だから彼女がそれを切り出したのは、波瀾万丈を極めたその夜にあってさえ、最も大きな衝撃だった。
少なくとも、この僕にとっては。
※
文吉親分からの伝言を携えて階段を上っていると、二階から物音が聞こえてきた。
急いで部屋に駆けつけた僕と夕声が見たのは、内側から檻に体当たりを繰り返しているアライグマと、そのアライグマを心配そうに見守っているタヌキだった。
「お、おい! やめろよ、怪我しちまうよ!」
夕声が慌てて檻に近づくと、それまで後ろに控えていたタヌキが前に飛び出して、アライグマを庇うようにして威嚇の声をあげた。
「ふ、二人とも落ち着いて! 文吉親分が君たちのことを認めてくれたんだ! だからもうそんなに荒ぶらなくていいんだよ!」
僕が夕声の肩越しにそう呼びかけても、タヌキの……小次郎君の剣幕は少しも緩みはしなかった。
前肢を突き出した前傾姿勢に身構えて、牙を――意外なほどに鋭いその牙を剥き出しにしながら、くぐもった唸り声をあげ続ける。
顔見知りであるはずの夕声を全身全霊で敵視する小次郎くんの姿は、完全に野生動物としか見えなかった。
「……ダメだな。煙に巻かれすぎたんだ」
完全に理性を失ってやがる。そう言って夕声は首を振った。
「こうなったらもう、変化の力を取り戻すまで人の言葉は通じないよ」
「どうしよう……下からタヌキのひとに来てもらう?」
僕の提案に、夕声は再び首を横に振った。
「それもダメだ。文吉親分がわざわざあたしたちに伝言役を頼んだ意味、わかってないだろ。いまのこいつらの前にタヌキなんか連れてきたらパニック起こしちまうよ」
よっぽど怖い思いしたんだろうな、と夕声は嘆息した。
檻の中の小次郎くんと桔梗ちゃんを僕は見る。
手負いの獣同然に追い詰められた二人を、早く許されて認められた少年と少女に戻してやりたかった。
だけど、今この場面で僕に出来ることは、どうやら本当になにもないようだった。
「……わかっちゃいたけど、やっぱり僕は、悲しいほどに普通なんだなぁ」
自分の無力を嘆いて、やれやれと僕が言った、そのときだった。
「……あのさ、ハチ」
夕声が僕に言った。ひどく不安そうな声で。
そしてその不安の向こうに、なにかを決意したような声で。
「悪いけど、しばらく部屋を出ててくれるか?」
「理由は?」
もちろん僕は即座に問い返す。
だってそんなに決然とした調子で切り出されて、どうして理由を確認せずにはいはいと聞き分けられるだろう?
逡巡の間があった。夕声は答えるのを躊躇って、気まずそうに視線を床に落とす。
やがて、そうしていても埒があかないことを夕声は理解したようだった。僕が彼女をじっと見つめて、片時も目をそらさなかったからだ。
「今のこいつらには、人間もタヌキも言葉を届けられない。人の姿をしているあたしも」
さらに少しだけ言い淀んだあとで、夕声は、だから、と続けた。
「だから、あたしがやる。あたしがこいつらを救う。あたしが……元の姿に戻って」
元の姿。それは、つまり。
「キツネの姿に戻るってこと?」
夕声が、小さく、だけどはっきりと肯く。
「……あたしはこれから、人ではない姿をさらす。だから、あんたにはそのあいだ、部屋を出ていて欲しいんだ」
部屋を出て、ふすまを閉じて、ついでに目もしっかり瞑っててくれ。
夕声はそう言った。ほとんど懇願するように。
「……もしも中を覗いたらどうなるの?」
僕がそう言うと、夕声は悲しそうに笑って、わかってるくせに、と言った。
「そしたら、あたしはあんたの前からいなくなる。永久に」




