6.蛇沼公園の女王(後)
「ねぇ先生? もう少しだけ、もう一回だけ、ファイトっ! してみませんか?」
そう言って蛇女がどこからともなく取り出したのは、つやつやとした光沢を放つ円いものだった。
彼女はそれを小さな巾着袋に入れて教師に握らせた。
「これ、貸してあげます。お守りです」
「……お守り?」
「はい。霊験あらたか、御利益は絶対保証。でも、袋の中は見ちゃダメです」
ともかく、蛇女の励ましを受けた教師は、死ぬのをいったん保留することにした。
死ぬ前にもう一回だけ、ファイト! してみようと決めたのだ。
そうして彼は翌朝もストレス渦巻く学び舎へと出勤した……のだが。
その日から、教師は恐ろしいほどの幸運に見舞われることとなる。
まずはじめに、周囲の彼を見る目が急速に変化した。
彼としてはそれまで同様にしているつもりなのに、生徒が、同僚の教師が、それにPTAをはじめとした保護者たちが、彼の言動をやたらと好意的に受け止めるようになった。
これまで放置され続けていた熱意や真面目な勤務態度が、なぜだか一気に評価されはじめた。
いくら熱弁しても届かなかった説教が、いきなり生徒らの胸を打ち始めた。
それに、やたらと都合のいい偶然が相次いだ。
前日の夜にテレビで見た話題が翌日の職員会議で議題にのぼったり、忘れ物を取りに戻った駐車場で児童の危険な悪戯を目撃してあわやでこれを防いだり、遅刻した朝に行き倒れのご老人を助けて感謝状をもらったりもした。
言うまでも無く、これらの偶然もまたすべて彼の評価へと結びついた。
かくして日常からストレスは去った。
また、最初こそわけのわからない幸運によって与えられていた評価だったが、それによって自己肯定感を獲得した彼は、次第に与えられる評価にふさわしい内面を備えるようにもなった。
前向きな自信とみなぎる積極性、北竜台小学校のミスターポジティブとは彼のことだった(というか、何度も書いているように彼はもともと熱血野郎だったのだ。ちょっと心が折れかけていただけで)。
教師は幸運に見舞われて、見舞われて、見舞われ続けた。
蛇女の貸してくれたお守りのおかげだということは、疑いようもなく明らかだった。
「へぇ、また教頭先生に褒められたんですかぁ。よかったですね」
あれ以降、教師は足繁く蛇沼公園に通うようになっていた。どんなに忙しくとも三日と空けることなく、可能な限りほとんと毎晩。
そうして彼が日々の出来事を報告すると、蛇女はいつも嬉しそうにそれを聞いてくれた。
「これもみんなあなたのおかげです」
「なにをおっしゃいます。立派なのは先生ですよ」
二人が出会ってから一年が過ぎようとしていた。
はっきりと証拠を見せられたわけではなかったのだけど、彼女が蛇であるという突拍子もない話を教師は信じていた。どんなに親しくなっても教師が蛇女と会うのはいつも夜の蛇沼公園だったし、公園に来た彼が沼に向かって呼ぶと、いつの間にか彼女は彼のすぐ背後に現れているのだ。音もなく、まるで蛇が這い寄るように。
彼女の本性が蛇だという話を教師は信じ、受け入れていた。
「本当に、とっても立派になられたわ。つらい人生から逃げ出すために身投げなんてしてみたものの全然死にきれなくて挙げ句に助けてくれた女に泣き言を聞かせていた惨めったらしくて情けないヘタレ男とは、もうまるっきり別人みたい」
「昔の自分とはいえそこまで辛辣に言われると傷つく……まぁ、全然否定できませんけど」
困ったような照れたような顔になる教師に、蛇女がくすくすと笑う。
そのあとで、彼女は寂しそうに言った。
「でもこれで、私の役目もそろそろ終わりですね」
「え?」
「だって先生はもう、私がいなくてもやっていけそうですもの」
それから、蛇女は語り出す。
気まぐれで助けた人間に、情が湧いて肩入れをして……そうしてズルズルと関わり続けること早一年。別れよう、もう別れようと思いながらも、それでも決心つかずに巡る季節を見送って……。
だけどもう、優柔不断はこのくらいで終わりにしなければ。
なにしろ、御身は人で、この身は畜生。棲む世界が違うのですから。
「思い立ったが吉日と申しますし、今夜今晩いまここで、お別れしましょう。というわけで、別れの句など一首詠みますね……えー、『蛇沼の みなも暗しき――』」
「結婚しましょう!」
詠まれはじめた別れの句を遮って、教師が蛇女の手を取って叫んだ。
「……え?」
「結婚しましょう!」
「え? え? え?」
「結婚! しましょう!」
交際の手順を二つも三つもすっ飛ばして、いきなりのプロポーズだった。
しかしそれが勢いだけのものではないことは、汗ばんだ手と真剣そのものの瞳が証明していた。
熱血教師の熱血のすべてが、今この瞬間だけは学校も生徒も教育委員会も完全に忘れ去って、目の前のただ一人の女に向けられていた。
だから。
「ひゃ、ひゃい。よろしくお願いいたします」
気づいた時には、蛇女は呆けたようになって彼の熱血を受け入れていた。




