5.蛇沼公園の女王(前)
僕の暮らすニュータウン北竜台には蛇沼公園という名の公園が存在する。
住宅地のど真ん中にあるにはちょっと不自然なほど大きな公園で、さらに園内は人工物が希薄で雑木林や小川などの自然ばかりが濃密だ(あるいはこの公園も意図的に『昔』を切り取って保全している場所なのかもしれない)。
いつでも神秘的な気配が立ちこめるこの場所をことさら神秘的に演出しているのが、園内最深部に見える大きな沼だ。
園名にもなっている『蛇沼』という名前は、細長く曲がりくねった形状に由来するとされている。
表向きには。
さて、五年前のある冬の夜、一人の男がこの沼で自殺を図った。
男は近くの小学校で三年生のクラスを担任する若い教師だった。
なんとなく教員免許を取得してなんとなく先生になりましたという教師も多い反面、この男は教育への理想を胸に宿した熱血漢だった。自宅には山田洋次監督の『学校』シリーズが揃っていた。
しかし、夢かなって参入した教育の現場は、彼の想定と覚悟を遙かに上回って過酷だった。
想定していなかった種類のストレスをいくつも味わう羽目になったし、覚悟を殺すような諦めと妥協を強いられることは日常だった。
理想が確かであれば確かであるほどに、現実が彼を打ちのめした。
そうしていつものように残業で遅くなった夜、帰宅途中のコンビニでおにぎりと幕の内弁当を温めてもらっていた、まさにその瞬間。
まるっきり唐突に、彼のすべてが限界に達した。
コンビニの駐車場に車を停めたまま、彼は徒歩で近所の公園に向かい、そのまま迷うことなく暗い沼へと飛び込んだ。
そのようにして若い熱血教師は沼底の深みへと沈んでいった……はずだった。
意識を取り戻した時、彼は岸辺の草の上に仰臥する形で横たわっていた。
「あ、気付かれました?」
顔をあげると、すぐそばに女が座っていた。
和服姿の美しい女だった。真っ暗な闇の中なのに、なぜだか彼はその女の美しさを二つの眼に捉えることができた。
「この沼で身投げなんて、いつ以来かしら。戦後とか高度成長期とかそういう時代にはまだ結構あったのだけど、でもほら、最近は自殺の方法も増えたでしょう? なんといっても多様性の時代ですものね。娯楽の多様化、性の多様化、自殺の多様化……いずれにせよ、沼に身投げっていうのは昨今ちょっとレトロ過ぎるもの」
「……あの、あなたが助けてくれたんですか?」
「ええ、余計なお世話かとも思ったのだけれど。……余計なお世話でした?」
女が悲しげに眉をひそめるのを見て、熱血教師は反射的に首を横に振った。とんでもない、助けてくださってありがとうございます。
「それでその、あなたは……」
「ああ、すっかり申し遅れまして。私はね、こういうものです」
言って、女はべーっと舌を出す。
長い舌は、先端が二股に割れていた。スプリットタンというやつだ。
女は舌の先端を器用に交差させてみせた。
「ええと……元ヤンかなにかですか?」
「どうして元ヤンが夜の沼で人命救助してるんですか?」
「では、ビジュアル系のバンドをやってらした、とか?」
「つくづく察しの悪い人だわぁ」
呆れた様子もあらわにそう言ったその後で、女はにっこりと笑って自己紹介した。
「私は、古くからこの沼に棲む蛇でございますよ」
いわゆるヌシというやつですね。女はあっけらとそう明かした(最近わかってきたのだけど、この土地の化生たちは実に簡単に正体を明かすのだ)。
さて、それからはじまったのは長い長い身の上話の時間だった。
自称蛇女はたいそうな聞き上手で、自殺を決意するに至った教師の苦悩を一つ一つ、解きほぐすようにして聞き出した。
真夜中の水辺で行われる対話は一種のセラピーだった。教師はたまりにたまった鬱憤を問わず語りに吐露した。
語りながら、いつしか彼は泣いていた。
「つらかったんですね」
すべてを聞き終えたあとで、蛇女は泣き続ける教師の背をそっと抱きしめた。
そのあとで、同じ背中を、今度は励ますようにぱんっと叩いた。
それから言った。
「ねぇ先生? もう少しだけ、もう一回だけ、ファイトっ! してみませんか?」




