4.茨城県と平将門公
お店から件の駐車場までは五分とかからない。
その短い道中で、様々な考えが頭をよぎっては消えていった。
コロッケ電車のこと。
厳めしい封筒に入った督促状と、そのプレッシャーから解放されたカタルシスのこと。
実直に年季の入った龍ケ崎市役所の建物のこと。
ハートの形のリンゴのコロッケのこと。
それに彼女の友達とやらのこと。
夕声の交友網は実にカラフルだ。それに、彼女はいつでもそうした人間関係の中心にいるように僕には見えた。
学校のクラスメイトたちも、女化神社の関係者や神社に参拝に来る近所の人たちも、それに人ではない連中も。
みんな彼女が好きなのだ。
彼女にとって、僕はたくさんいる友達の一人に過ぎない。
それもひときわ色味が薄くて、ひときわモノトーンな。
……はて、なんで僕は、それがちょっとさみしかったりするんだ?
そうこうしているうちに神社に辿り着いた。僕はそのまま境内を通り過ぎて、敷地の裏手にある駐車場まで歩く。
コンクリート塀の角を折れると、しゃがみ込んだ制服の後ろ姿がそこにあった。
予想に反して、駐車場にいたのは彼女一人だけだった。
「ゆうご――」
と、呼びかけようとして僕が声を出した、その瞬間。
なにかの動物が数匹、弾かれたようにして近くにあった車の影に駆け込んでいった。
「お、ハチ」
おっす、とこちらに振り返りながら夕声が言う。いましがた目撃した謎の疾走に面食らいながら、僕も「お、おっす」と返す。
「な、なに? いまの?」
タヌキか?
いや、奴らがあんな風に弾丸じみて動けるはずがないことを、この二ヶ月ほどで僕はよくよく知っている。
びっくりした時、タヌキたちはまずその場で硬直するのだ。たとえば夜道で車のヘッドライトを浴びた時などに。だからしばしば悲しい事故は発生する。
「ん。ほら」
そう言って、夕声はその場に一匹だけ残っていた毛玉の塊を抱き上げた。
それから、彼女はその獣を僕の目の前に持ち上げて、「にゃあ」と言った。
「……ねこ?」
「うん」
答えて、それから夕声は小さく吹き出す。
「この現代日本でイヌネコよりも先にタヌキを思い浮かべるって、あんたもずいぶん毒されてるな」
「……ほんとにね。自分でも驚くよ」
いっだい誰のせいだろう。
そのとき、夕声の腕の中で、猫が小さく身をよじった。
「ん? どうしたマサカド、降りたいか?」
夕声は抱いていた猫を地面に下ろしてやる。
三毛模様の小さな子猫だった。この子だけが逃げなかったのは、まだ子供だから警戒心が発達していなかったのかもしれない。
「……水沼さんが、君は友達と一緒にいるって」
「うん。あたしの友達。ここの駐車場がこいつらのたまり場なんだ」
「こいつら?」
「こいつら。猫たちの」
言いながら夕声があたりを見る。彼女の視線を追うと、少し離れた場所にあるマツダの軽自動車の影から別の猫がこちらを見ていた。ダイハツの軽トラの近くにもいる。
「そういえば前に君、猫が好きだって言ってたね」
「うん。全部の動物の中で猫が一番好き」
「自称キツネのくせに」
「あんたは好きな動物聞かれて人間って答えんのかよ?」
……たしかに。
やれやれと、僕はいつものように村上春樹的なため息をつく。
なんだか、気が抜けてしまった。水沼さんも人が悪いよ。わざと誤解させるような言い方をして。
「なんだ? あたしの同級生と引き合わせられるとでも思ったか?」
「ん……まぁ、そうかも」
僕が正直に答えると、夕声は「ふーん」と言った。そこはかとなく楽しそうに。
「女子か? それとも男子?」
「は?」
「だから、あんたの予想の中であたしと一緒にいた同級生って、女友達? それとも、男だった?」
「え、あ、いや……」
なんだこれ、どう答えればいいんだ?
不意打ちの質問に思いっきり動揺する僕に対して、夕声はいつものようにからかうような表情を浮かべている。猫がねずみをいたぶるように嗜虐的な。
あるいは、キツネが人を化かすような――。
「ええと……マ、マサカドって、ずいぶんごつい名前だね」
結局、僕は答えを保留して、というかごまかして、話を子猫の名前へとそらした。
「うん、あたしがつけたんだ。他の誰かはもっと別の名前をつけてるかもだけど、あたしにとってはこいつはマサカドなんだ」
野良猫の名前なんてそんなもんだろ? と夕声。僕は肯いてそれに同意する。
マサカドというのは、確認するまでもなくあの平将門公にちなんだ命名だろう。
朝廷にクーデターを起こした逆賊。死して後も祟りを撒き散らす大怨霊。
そんな風に他県では一般的な将門公のネガティブなイメージはしかし、この茨城県では否定される。
特に彼の出生地である茨城県南部では、将門公は義侠心に富んだ男の中の男、民草の為に行動を起こした大英雄として今なお尊敬されている。
「猫につけるにはちょっと恐れ多い名前だけどな」
照れたように笑って、それから続けた。
「それに、あんたがタイラ好きだって言ってたからな。ちょうどいいと思って」
「……はい?」
「だってあんた、平家物語が好きなんだろ? で、『僕は源氏より断然平家が好きだ』とか力説してたじゃん」
「え、あ、いや……」
だからそう名付けたの? と僕。
だからそう名付けたの、と夕声。
「強いオスになるんだぞー、マサカド」
そう言って子猫をあやす夕声を、僕は呆然とした思いで見つめていた。
『僕が好きな平家物語に登場する平家の皆さんは、将門公じゃなくて将門公を滅ぼした平貞盛のほうの子孫ですよ』とは、口が裂けても言えなかった。
「ん? どうした? 複雑な顔して」
「……なんでもない」
夕声はふーんと言って、それからまた猫のマサカドと遊び始めた。
やれやれ、と僕はまたおなじみのため息をつく。
それから、僕の好みが彼女の大切な猫の命名を左右した、その事実に思いを馳せる。
「……やれやれ」
まったく、どうして僕はそれがちょっと嬉しかったりするんだ?




