1.コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属、タナゴ
金曜の朝にインターフォンが来客を告げた。時刻は九時を少し過ぎた頃だった。
玄関チャイムではなくインターフォン。つまり、『今側』の玄関からの呼び出し。
そう、我が家には二つの玄関があるのだ。いともややこしいことに。
ともかく、僕は階段を駆け下りて『今側』の玄関へと向かった。すると案の定と言うべきか、ドアの向こうに居たのはエプロン姿のチャーミングなお姉さんだった。
「親戚が甘夏を送ってくれたんで、はい、おすそわけ」
来客はお隣の奥さんだった。
よかったら食べてねと言ってお隣さんは季節の果物がいっぱい入ったビニール袋を差し出した。さわやかな柑橘の香りが鼻先をくすぐった。
僕が越してきて早一ヶ月、お隣さんはこうしていつも僕を気にかけてくれている。まるで弟みたいに。
慣れない一人暮らしの僕にはその気遣いそのものがありがたかった。
お礼を言って甘夏を受け取ると、奥さんはくすくすと笑いながら僕に言った。
「やっぱり、インターフォンの受話器は使わないのね」
「え?」
「せっかくインターフォンがあるのに、あなた、いつもそれには出ないんだもの」
「ああ、いや、あはは……」
とりあえず笑って誤魔化す僕である。
インターホンのついている今側の玄関にはお客があまり来ないので慣れていなかったのだと、そう説明するのは少しならず憚られた。
※※※
この辺は、つまりこの女化界隈は、知れば知るほど奇妙な土地である。
たとえば、女化は龍ケ崎市でありながら龍ケ崎市の中にはない。
龍ケ崎市を飛び出して、隣接する牛久市の中にぽっかりと飛び地として存在している。
より厳密に解説すると、龍ケ崎市に属しているのは女化神社の境内およびその敷地内に限定されており、神社の周囲に広がる女化町それ自体は牛久市に属する。
地図という平面的な観点を介してさえ、この町は輪郭がひどくぼやけている。
でも、なんで?
「ああ、そりゃ龍ケ崎と牛久で女化を分割して受け持ってんだよ」
僕の疑問に答えてくれたのは件の女化神社に住んでいる少女だった。彼女はこの龍ケ崎市における僕の最初の友達でもある。
「分割してって……またなんでそんなややこしいことを……」
もたらされた回答によってさらなるハテナ顔となった僕に、彼女はやはりこともなげに、「そんだけ特殊な場所だからだよ」と言った。
「うちの神社を中心にしたこのあたりは、昔から人と人でないものが混じり合って暮らしてるんだ。で、そういうのは行政側もちゃんと把握してるからさ」
「昔からって、いまも?」
いまもだよ、と彼女は肯定する。あっさりと。
「まぁ、そういう場所はけっこういろんな土地にあるらしいけど、女化の場合はちょうど市境になるポイントにあったからさ。龍ケ崎と牛久、どっちが引き取るかで揉めに揉めて、最終的に神社は龍ケ崎でその周辺は牛久って形で話がついたんだって」
「揉めたって、押し付けあったの?」
「逆だよ逆、二つの市で女化を取り合ったんだよ」
またも意外な答えである。
「女化みたいに人間にとっての異形と親い場所が行政区内にあると、国から、ええと……助成金? みたいのが貰えるんだってよ。それに自治体として箔もつくらしいし」
「へえー」
「まぁ、こっちとしちゃ迷惑だったけどな。だって神社だけ龍ケ崎で周りは牛久だろ。ってことは当然学区とかも違うんだ。小中学校の時はあたし以外の近所の子たちはみんな違う学校でさ、近くに友達が一人もいないんだ。寂しい思いしたよ」
最後だけやけに現実的というか人間的な問題だな、と僕は思った。
しかし実際、この界隈には人でないものが数多に存在していた。
そしてそういう連中は、折に触れて我が家の玄関チャイムを鳴らした。
たとえばある夜、僕が自室で仕事に集中していると(珍しくかなり集中出来ていたのに)玄関のチャイムが鳴った。
それはひどく陰気な響き方に聞こえた。
とにかく、作業を邪魔された僕が舌打ちなどしながら『昔側』の玄関に向かうと。
引き戸の向こうには、髪の長いずぶ濡れの女が立っていた。
「夜分遅くに失礼つかまつります。あの、椎葉八郞太様でいらっしゃいますか?」
「はぁ、いかにも椎葉ですが」
答えながら女の肩越しに玄関先を見ると、屋外には雨など降っていないしまた降っていた形跡もない。
「夜分、本当に恐れ入ります。わたくし、牛久沼に住むタナゴでございます」
「タナゴ……と、おっしゃりますと……?」
「はい。いわゆるコイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属の、タナゴです」
「学者か専門家でもないとあまりいわゆらない言い方な気もしますが……つまりタナゴとは、魚の?」
「はい」
「ええと、あなたが?」
「はい。ちなみにわたくし、外来種ではなく正真正銘日本固有種のタナゴでございます」
いなたくも泥臭いタイリクバラタナゴとかではなく、と女は言った。
もちろん僕は頭がクラクラしてきている。
「叔父上様には牛久沼一同大変お世話になっておりました。それで、このたびその甥御であられる椎葉様が越して来られたとお聞きし、こうしてご挨拶にあがりました次第で。ほら、そもそも日置様は奥様が牛久沼の関係者だったでしょう? わたくし、奥様とは捕食者と被捕食者の関係にありながらそれはもう仲良くしておりまして――」
思わず天井を仰ぐ僕には構わず、髪の長いずぶ濡れのついでに魚臭い女は聞いてもいないのにとうとうと引っ切りなしに話し続け、やがてびちょびちょと水っぽい音を立てながら去っていった。
言うまでもなく、その夜はもう仕事など手に付かなかった。




