1.ようこそ、龍ケ崎市へ
上野で常磐線に乗り換えると、目的地の駅まではそこからさらに一時間弱かかった。
効きすぎた暖房と午後の気だるさの相乗効果はいとも凶悪で、僕は危うく降りるべき駅を乗り過ごしてしまいそうになる。
JR龍ケ崎市駅は奇妙に湾曲した長いホームを持つ駅だった。
電車は少しだけ傾いた状態で停車して、そのせいでホームと降り口の間には大きな隙間が口を開けた。
下車した時にはすでに発車メロディが鳴りはじめていた。僕がホームに飛び出したのとほとんど同時に背後でドアが閉まり、車掌がホイッスルを吹く。
それから、僕を運んできた特別快速が、ゆっくりと発車する。やっぱり少しだけ斜めに傾いだままで。
「……なんで白鳥の湖なんだ?」
手荷物と共にホームに取り残された僕は、そうひとりごちてみる。
今しがた電車を送り出した発車メロディが『白鳥の湖』だったのだ。
それから、ゆっくりと、しかし深々と空気を吸い込んで、吐き出す。
見知らぬ土地、見知らぬ街の空気を僕は呼吸する。
今日から生活を営むことになる、我が愛しき新天地の空気を。
※
その春、茨城県という土地について僕が知っていることはあまりに限られていた。
というか、ほとんどなにも知らなかった。
太平洋側に長い長い海岸線を所有する、北関東唯一の海有り県。
政令指定都市には届かないものの、県庁所在地の水戸市はかなりの大都市であるらしいこと。
近年、大洗という海辺の町が戦車のアニメで町興しに成功したこと。
僕が知る茨城とはこの程度のものだった。あとは納豆と黄門さまで有名、とか。
だから、ある日突然「お前、茨城県民になってみないか」とそう打診された時は、まさしく『狐につままれたような顔』になっていたはずだ。
事情はこうだ。
僕の父方の叔父(つまり父の弟だ)はもともと変わった人だったのだけど、数年前に結婚するとその奇矯っぷりにはいよいよ拍車がかかった(一応断っておくけど、叔父の奥さんはものすごく良い人だ。色白でおしとやかな美人さんで、正確な年齢は知らないけど叔父よりも十歳は年下に見えた。まったく、叔父にはもったいないお嫁さんである)。
かくして変人から大変人に昇格した叔父は、このたびなにやらひどくスピリチュアルな理由から北海道への移住を電撃決定したのだが、では茨城県の持ち家はどうするかということになった。気に入っている家なので売りに出すのは忍びない、かといって他人に貸すのは不安である、と。
そこで白羽の矢が立ったのが僕だった。
僕の仕事はある程度居住する土地を選ばないし、叔父夫婦とも親戚内で一番親しくしていた。
僕にだったら安心して任せられる、安心して住んでもらえる、と。
「もちろん家賃なんかいらんぞ。むしろ家守になってくれるなら光熱費くらいはこっちで負担してやろう」
必要ならインターネットやらなにやらの契約もそのままにしておいてやるぞ。
電話口の叔父はガハハと笑ってそう言った。
やれやれ、まるでライトノベルだな、と僕は思った。
降って湧いた一人暮らしの話。新天地での。それもお金持ちの親戚に打診されて保証された、そこそこ不自由のない暮らし。
僕が高校生の主人公だったら、きっとお隣には自分の可愛さに気づいていないタイプの美少女が住んでいるはずだ。髪の色が赤とか青とかの。
しかしもちろん(あえて念を押す必要もないだろうけど)、これはフィクションではなく現実で、僕も高校生ではなく今年成人式を迎えたハタチの青年である。
それも、成人してなお実家暮らしの自分に焦りとか不甲斐なさのようなものを感じている、悩める二十歳だった。
だからつまり、叔父の申し出は、僕にとっても渡りに船だったのだ。
返事はすぐでなくていいぞと、そう言ってくれた叔父に、しかし僕は即決で応える。
ぜひよろしくお願いします、と。
「あれ。そういえば叔父さん、茨城のどこに住んでるの?」
決断を下してしまったあとで、僕はいまさらのようにそんな質問をした。
僕の問いに、南の方だよ、と叔父は答えた。
県南の、ほとんど千葉との県境に近い。東京にも電車で一時間かからない。
「龍ケ崎って街だ。住むには良いところだぞ」
茨城県龍ケ崎市、それが新天地の名前だった。
※
龍ケ崎に海はないのだと、そう教えてくれたのはキヨスクで出会ったお婆さんだった。
「龍ケ崎はねぇ、茨城でもちょっとだけ内陸の方だから。ちょっとだけね」
そうですか、と少しだけがっかりして僕は言った。生まれてこのかた北関東の海なし県に住んでいたので、海にはちょっとした憧れがあったのだけど。
JR龍ケ崎市駅の構内には昔ながらのキヨスクがあり、彼女はそこで店員さんと世間話をしていた。
店員のおばさんとそのお婆さんの間にはいかにも親しげな空気があって、二人の談笑が日常的なものであることを物語っていた。
突然話しかけた僕を(こう見えて僕は結構誰にでも話しかけてしまうタイプなのだ)、二人は少しも嫌な顔をせずに会話に加えてくれた。
「海に行くより、霞ヶ浦のほうが近いかね。霞ヶ浦、知ってるかい? 日本じゃあ琵琶湖の次にでっかい湖なんだよ」
「やだね、近さでいったらなんといっても 牛久沼じゃないの」
「ああ、そうだねえ。白鳥がねえ、三〇羽もいるんだよ。一年中いるんだよ、あそこに住み着いてるからね」
私は四〇羽って聞いたよ、とキヨスク店員のおばさん。
そうしてしばし、二人は白鳥の話で盛り上がる。
ちょうどその時、今しがた僕が登ってきた階段の先、下り線のホームからまたも『白鳥の湖』の発車メロディが聞こえてくる。
「もしかしてこの発車メロディって、そういうことなんですか?」
僕がそう指摘すると、二人は口々に「そうそう、そうなんだよ」と言った。
かくして謎は解けた。思った通り、下り線の発車メロディである『白鳥の湖』は、その牛久沼なる湖沼に生息する白鳥に由来しているらしい。
ちなみに上り線の発車メロディは『RYUとぴあ音頭』で、これは市のオリジナルお祭りソングだそうである。
七月には『RYUとぴあ音頭パレード』なるものが開催され、総勢六百名の市民がダンスのキレを競う、とか。
思わず脱力してしまう僕であった。
出しすぎだろう! あまりにも! ご当地色を!
市民よ、と思う。
龍ケ崎市民よ、どんだけ地元愛に溢れてるのだ。
そして、 念う。
今日からは、僕もその街の一部になるのだ、と。
「こういうのは、若い人にはちょっと、あれかね。ダサい、かね」
「とんでもない! むしろ素晴らしいと思います、そういうの!」
少しだけ心配そうな顔で尋ねる二人に、本心からそう答える。
あるいは、この土地に来て最初に話したのがこの人たちだったのも扶けてのことかもしれないけど。
僕は、早くも茨城県龍ケ崎市を好きになりはじめていた。少なくとも、第一印象は最高だ。
好い人たちが暮らす良い町。その一員になれることに、嬉しさを感じていた。