17/了 狐火
得意げにそう言い切った彼女の声は、なんだか妙にしっとりとして僕の耳朶に触れた。
それから夕声は、今度は普段通りの声で僕に言った。
「なぁハチ。あんた、今でもまだあたしがキツネだってこと、信じてないだろ?」
問うというよりは確認するような言い方だった。
どう答えようか少しだけ迷った後で、僕は、やっぱり素直にうんと頷いた。
「そっか。じゃ、どうしたら信じてくれる?」
「そうだなぁ。目の前でなにかに化けてくれるか、それともキツネの姿を見せてもらえたら信じてもいい」
僕がそう言うと、夕声はくつくつと笑いながら「スケベ」と言った。
いったい何がスケベだったのかわからぬまま、それでも僕はちょっとだけ赤面する。
それから。
「じゃあさ、こんなのはどうだ」
そう言って、夕声は手にしていたビニール袋から何かを取り出した。
彼女が僕に見せたのは、さっき食べていた手羽先の、その骨だった。
「いいか、見てろよ」
それだけ言うと、夕声は両方の手に持った骨を口元に持っていき、交差させた。
彼女は骨に向かって、そっと、小さく息を吹きかける。
すると。
「……すごい」
夕声の唇の先に、炎が燃えていた。
温度を感じさせない、美しい炎だった。
青、白、そして黄金……炎は瞬間瞬間に色を変えながら燃え。
やがて、静かに消えた。
「いまの、なに?」
「狐火だよ」
呆然として問う僕と得意げに答える夕声。
「あたしたちは動物の骨を使って炎を起こすんだ」
彼女は得意げに言って、それから続けた。
「どうだ? これで、半分くらいは信じたか?」
夕声が再び僕に問う。僕は少しだけ迷ったあとで答える。うん、信じた。
「信じたよ。半分くらいは」
ちぇっ、ケチな奴、と夕声が言う。
さしてがっかりした様でもない声で。
「ま、いいさ。だってあんたとはこれから長い付き合いになるんだもん。だったらまぁ、最初は半分で十分だ」
なにせあたしは日置さんからあんたのことを頼まれてるんだからな、と夕声。
「お楽しみはこれから、だ。今後ともよろしくな、ハチ」
そう言って、彼女はくふふと笑った。
僕は、こちらこそよろしくと言おうとして。
「こちらこそよろしく。……夕声」
そこで初めて、僕は夕声を夕声と呼んだ。
はじめて、僕は彼女を呼び捨てで呼んだ。
夕声と言うのは、やっぱり、どう考えたって素敵な名前だ。
だから彼女のその名前を、余計な添加物など一切抜きで口にしてみたいと、そのときなぜだかそんな欲求が生まれたのだ。
呼びかけてしまったあとで、「やってしまった」という気分になった。
後悔と羞恥の念に駆られながら、僕は彼女の反応を待つ。
ほんの少しだけ間があった。実際以上に長く感じられる間が。
そのあとで、夕声は言った。
「うん。友達同士なんだしさ、やっぱりそのほうがいいよ」
そう言った彼女は、今まで見た中で一番嬉しそうな顔をしていた。
多分、自惚れではないと思う。
僕に夕声と呼び捨てに呼ばれて、彼女はとても喜んでいた。
※
そのあと、僕は夕声を住まいである神社に送り届けてから帰路についた。
夕声は自分の方が僕を送ると何度も主張したが、それは断固として断った。
僕にだって男としてのプライドはあるのだ。
帰り道で、僕は何度も空を見上げた。
啓蟄も過ぎた三月の夜、春霞の大気の向こうには初春の星空があった。
遠くの道路を自動車が走り過ぎていく音が聞こえた。
ゆるい風が吹いていた。
言葉にしがたい感傷が……いや、きっと言葉にしてしまうのは無粋ななにかが胸のうちにあった。
やれやれ、と僕は思う。
やれやれ、どうしてこんなにも気分がいいのだろう。
様々な、実に様々なものを見聞きした夜だった。
にも関わらず、脳裏をかすめるのは彼女の……夕声のことばかりだった。
――『化かす』ことについてならあたしたちキツネの方が上なのさ。
そう言った彼女の言葉が蘇る。
もしかして、僕はもうすっかり化かされているのだろうか?
ところで、今夜もまた彼女の名前を褒めるのを忘れてしまったと、そう気づいたのは家について玄関の鍵を開けるときだった。
でも、まぁいいか、と僕は思う。
夕声が言った通り、お楽しみはこれからなのだから。




