釣合
月明かりに照らされた女の寝顔を眺める。
特に美しくも醜くもない女。
ただ機会があったから関係を持ったに過ぎないが、安麻呂の通う女たちの中では一番長い仲の女だ。
どうして自分を受け入れたのだと安麻呂が問うのに、出会ったからだと答えたことがある。出会えば誰でもいいのかと問うと、女は笑った。
「出会わない相手と恋はできないわ。大切なことよ。」
始めて会ったのは京みやこの市で。
布をすごい勢いで値切っていた。
最後に半分しかいらないと言い出して売り手と揉めていたのを、残り半分を買うと言って引き取ったのが安麻呂だ。実際に布は入用だったし、女は値切るのが上手く、渡りに船だった。
「全部買うのは厳しかったのよ。助かったわ。」
凡庸な顔立ちなのに、笑うと不思議に華やぐ女にそのまま誘われて、なんとなく通い始めた。
歳は多分女のほうが三つ四つ上。名前は茜だそうだが本名なのかはしらない。
閨に入れば特に奔放ということもなく、これという特徴もないのだが、時々見せる華やいだ笑顔が、切れ切れながらも安麻呂の足を茜の家に向けていた。むしろ奔放すぎないからこそ続いていると言えるのかもしれない。
奔放な女は安麻呂をくつろがせない。
安麻呂を振り回して疲れ果てさせてしまう。
安麻呂が求めているのはそんなものでなく、時にふと茜の笑顔を見たくなるのは、くつろぐことができるという意識があるからなのだろう。
茜の方もたまにしか来ず、生活の足しになるほどの援助をもたらす訳でもない安麻呂を、当たり前のように受け入れる。双方ともたいした執着があるわけでもないのをお互い自覚していながら、不思議に続いている
いや、だからこそ続いているのか。
思いというのはおかしなもので、どちらかが重すぎても軽すぎても上手くいかない。そういう意味では安麻呂と茜は見事に釣り合っていた。
むしろ、俺と阿礼の方が。
ふと、そんな事を思う。
安麻呂と阿礼の関係は、安麻呂の執着が強すぎる。
その執着を阿礼に見咎められることのないように、ずっと隠してきたこれまでだった。
阿礼が女なら。
安麻呂の中には今も、猿女となった阿礼がいる。
清らかな天に上る声で歌い上げ、余人を魅了する舞を舞う。真礼と相舞を舞えば何者も惹きつけずにはおかなかった事だろう。
阿礼が女でさえあれば。
実際には男である阿礼に、こんな風にいつまでも執着するのも奇妙なことだが、安麻呂の中から猿女阿礼を消すことは、どうしても出来なかった。
その執着が安麻呂に、阿礼の恋を言祝がせない。
阿礼が妻問いたいと願う相手に、安麻呂は顔を合わせた事があるらしい。
らしいというのは、安麻呂自身は今ひとつ、その相手の事を覚えてはいないからだ。
筑紫から戻って久々に阿礼に対面した折に、阿礼の影に隠れるようにしていたのが、その相手なのだそうだ。
確かに女童がいた事は覚えている。
阿礼の影に隠れて、阿礼の上衣の裾を握りしめていた。
あれはいくつぐらいの女童だっただろう。せいぜい十になるかならないかぐらいではなかっただろうか。
しかし、あの時十の女童ならすでに十四になるわけで、確かにあともう少し育てば妻問うに足る年頃になる。
阿礼に限って、その女童をただ通い処の一つになどしないだろう。そのぐらいなら女童は女童として、他にも通う女を持っているはずだ。
実際には阿礼は遊女をからかう事さえしない。その点は堅すぎるほどの堅物だった。
阿礼が妻を得たのなら大切にするだろう。そうしたいと思えない相手なら、阿礼は妻問うことなどしないだろう。
だから、安麻呂は阿礼が妻に求める相手が疎ましい。阿礼にとってかけがえのない存在になるのだろうと思うから。
安麻呂と、阿礼の気持ちは釣り合わない。
安麻呂にとっての阿礼はかけがえないが、きっと逆は成立しない。
自分の我儘だと言うことは承知の上で、安麻呂は阿礼がその女童を得るのがずっと先だといいと思っている。