憧憬
「稗田の里の沙伎?」
その娘の名を真礼は知らなかった。稗田というのは森の端にある小さな里を半ば揶揄して比売田の里人が呼ぶ名だ。
古風な、稗田ばかりの目立つ里を、半ば同族のように思う者も多いが、元々は本地の違う他族である事を真礼は知っている。
あれは出雲から流れてきた一族なのだ。
出雲から伝承を抱えて流れてきた一族は、伝承を伝えるという共通点故に比売田の助けを受けて、そのすぐ近くに定住した。
比売田の里との関係は良好だが、朝廷における立場はかなり違う。
片や天孫降臨より従う一族。
片や天孫に国譲りした出雲の一族。
その差は里の扱いにはっきりと現れている。
かつてもてはやされた鍛冶の職人を根こそぎ戦のために奪われ、残った里人の内から少なくない数を京みやこの造営のための人夫として求められ、人夫のはずが最後は戦にまで駆り出されて、多くの里人を失った不運は、おそらくは一族の出自に由来している。
遠くない先に消えるであろうとわかりきっている里だ。
戦や普請に人を奪われただけでなく、雷や地震でも多くの女子供を失い、老人ばかりが生き残っていると聞く。このままでは早晩立ち行かなくなるだろう。
その、稗田の伝承を継ぐ娘が阿礼に望まれており、おそらくは阿礼と結ばれるのだという。既に双方の大刀自同士の話し合いも進み、沙伎の成長を待って京みやこの邸に住まわせ、阿礼を迎えさせようという話になっているらしい。
沙伎はまだごく若い娘だという。
婿を迎えるほどに育つにはもう少し育たなければならないらしい。
どんな娘なのだろう。
阿礼が妻問うなら、と真礼は考える。生まれた娘を一人貰い受けたい。相手の娘はその里の語り手になる娘だそうだから、きっと歌える声を持っているのだろう。そういう娘が阿礼との間に生む娘なら次代の猿女になれるかもしれない。
そう考えれば阿礼の妻問は喜ばしいことだ。
真礼は強いてそう考える事で、波立つ心を抑えようとしたが、そううまくはいかない。その夜は見たこともない沙伎の影がちらついて、真礼を眠らせなかった。
仄かな月明かりの下で、一人真礼が舞う。
眠れなければ舞をさらう。それは真礼の日常だ。
舞っていればやがて雑念は消えてゆき、ただ理想とする舞と、真礼だけが残る。
ただ今宵は雑念を払うのに少し手間取った。
幾度も幾度も動きを確かめ、胸の奥に問いかける。
阿礼ならどんなふうに舞うだろう。
真礼は夢想する。
阿礼の舞うこの上なく美しい舞を。
阿礼の挙祖は美しい。見よう見まねに舞った子供の時でさえ、その舞は恐ろしいほどに美しかった。
阿礼が女であったなら、理想的な猿女になっただろう。
だれよりも多くの物語を知り、歌い上げ、この上なく美しく舞う猿女に。
その姿を自分の中に結び、必死になぞる。
そのなぞろうとする阿礼に、ふと沙伎の影が被る。
どんな娘なのだろう。
阿礼はいったいどんな表情をその娘に向けるのだろう。
沙伎の影は真礼の気を散らせ、真礼の動きを止めてしまう。
動きが止まってしまうたびに頭を振り、見知らぬ沙伎の影を払った。何度でも猿女阿礼の姿を心中に結んでなぞる。
繰り返す内に沙伎の影は薄れ、思い浮かべ慣れた理想の猿女の姿が結び始めた。
出仕する前、阿礼を真礼に似ていると、多くの人が言った。
本当は反対なのだ。
真礼が阿礼をなぞっているのだ。自分の中の理想の猿女の形代として。
もしかしたらこんな執着は、あまりに度を越しているのかもしれない。実際には阿礼は男で、猿女であるのは真礼なのだ。
それでも真礼には、自分の中に結んだ猿女阿礼をなぞり、同化しようとする以外に、この思いを、執着を、昇華させる術を見つけることが出来なかった。
どうして自分たちは双子なのだろう。
どうして自分は女で阿礼は男なのだろう。
いっそ一人だったなら良かったのに。
そうでないなら
自分が男で阿礼が女であっても良かった。
そうしたら沙伎の影にこれほど心を揺らされることなどなかったはずだ。
きっと男である自分は、最上の猿女阿礼を心を尽くして守っただろう。
ただひたすらにその声に酔い、物語に憧れながら。