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とってもよいに群がるトイ

作者: 空見タイガ

 自分がよいと思うものをみながよいと思わないこともある。だれもが知っているが、本当に知っているとは思えない。

 セクハラ被害者の会の代表であると善美が自己紹介をしたとき、わたしも半信半疑であった。が、次期生徒会長とも噂される都井善美の次の説明には、分断以前にわれわれは生まれてから一度もわかりあったことがないのではないかと絶望するところだった。

「紗良奈さんのセクハラにみなさん困っているのよ」

「なるほど、なぜそれをわたしに言う?」

「本人に直接指摘したら、かわいそうじゃない」

「そんなくだらないことを相談されたわたしはかわいそうじゃないのか。おのおのが不快であることをあいつに伝えればいい」

 ぱち、ぱち、ぱち。特別教室棟の廊下は人気がなく電気が切れかけていた。善美は頭を抱えて「女子ってそういうものじゃないでしょ」と言った。

「こんなこと頼みたくないのよ。ただでさえ、あの子はあなたにべったりで……」

「べったりで?」

「その、甘やかしすぎなのよ。千羽さんは紗良奈さんに優しすぎるわ。それで彼女のセクハラもエスカレートするのよ」

「あいつはわたしの体をさわってこないが?」

「説明できるけど、したくない」

「人にものを頼む態度か」

 善美は頭を下げた。わたしよりはるかに背が高いので顔が近づいただけだった。彼女はサラナが今まで犯した罪を数えた。「ほっぺにキスをしたり」「人のお茶を飲んで間接キスをしたり」「勝手に膝を枕にしたり」「後ろからいきなり抱きついたり」罪状の列挙は粛々と進められ「交尾ごっこをしようとする」で終わった。

「過度なスキンシップと思春期の相乗効果で頭をやられた女の子たちによる行き過ぎた同性への絡みあいが過熱しつつあるの。男子が話に入ってこようものなら抹殺しかねない空気。クラスの治安はめちゃくちゃよ」

「いいだろ、女の子を好きになっても」

「いいの? 女の子を好きになっても?」

 わたしの手をつかんだ善美は真剣な面持ちでこちらを見つめたが、なにも答えないと見ると咳払いをして一歩離れた。

「いくら自分はセクハラに関係ないからといって、いえ、関係あるけれど、関係ないと思ったからといって、だから知りませんとはならないはずよ。あなたは幼馴染なんだから。紗良奈さん係として、彼女をよい方向に導いてさしあげないと」

「なぜ?」

「たいせつな友だちが悪いことをしているのなら正してあげる。それが友情でしょう」

 都井善美はまっすぐと言った。友情は美しいからか、美しいことはよいことだからか。自然とため息が出た。


「すーは、すーは」

「なにをしている」

「やや、奥原の幸福成分が空気に溶けこんだから、吸ってたんだよ」

 空気の入れ替えで、昼休み中はグラウンド側の窓を全開にすると決まっていた。そのせいで外気に慣れるまではいつも震えていたが、今日は違う理由で震えていた。

「ミオミオ、どう思う」

「ミオも吸っておけばよかったな……」

 机をくっつけて作った平面二段ピラミッドの頂点に位置する布谷水脈はわたしの顔を見て「ひい」と短い悲鳴をあげた。

「冗談だよ!」

「なんでふたりしてつまらない冗談を言うんだ。榎並、いくらおまえが世界一かわいくてカッコよくてきれいな女でも、よい発言とわるい発言というものがあるらしいぞ」

「な、なんなの、そのあいまいな注意。あと世界一とかぜったいに違うよ?」

「まってください、ミオは何番目にかわいいんですか!」

「宇宙で一番目。一番はいくつあってもよい」

「やりました!」

「つまり水脈ちゃんのほうが上じゃあ?」

「宇宙が世界を包含していると思うなよ」

「ため息を吸っただけでどうしてこんな壮大な話に……」

 それにしても榎並紗良奈の見た目はじつに奥深い。長身ですらりとしているが、一般社会において母性的とみなされそうな胸部である。肩にかからないぐらいの狼さんカットは美少年のそれだが、はねを抑制するわけでもないピンクのリボンを左右につけているさまは美少女そのもの。均整を保ちつつも、表情こそねむたげで親しみやすい。そこまで観察して気づいた。なんてことだ、これではまるで……。

「ぁうう、そ、そんなに見ないで。謝るから、奥原の息を返すから。ふはー、ふはーっ」

「おまえは角度を変えると絵柄が変わってみえる素敵な下敷きのようだと思ってな」

「レンチキュラー!?」

「千羽ちゃん……すてきな、ってつけても何でもすてきにはならないよ」

 よいことはよいことなのに? サラナは箸を止めたままミオミオに「り、立体感がたりないのかな」と相談していた。セクハラをとがめるチャンスは訪れそうになかった。


 ホウキとちりとりを片付けて振り向いた瞬間をねらって、わたしはミオミオの正面に立って横から逃げられないように掃除用具入れの扉にドンと手をついた。

「こ、こんなところじゃだめです。体育倉庫で! 体育館裏で!」

「ミオミオに相談があるんだがね。サラナに胸を触られてくれないか」

「いいですよ……よくないですよ!」

「どっちだね」

 わたしの腕をくぐって脱出したミオミオははだけてもいない胸を両手で隠した。

「初恋もまだな乙女のむねですよ。鶏肉でいうところのむね肉ですよ。だめにきまってます」

「ういやつというやつ」

「へんな言葉を覚えてきちゃだめです。だいたい、千羽ちゃんがやればいい話でしょ」

「あいつはこっちの胸に触ってこない。そうすると罰を与えることができない」

 善美の話を一から聞かせると、ミオミオはわたしのあごと首のあいだに頭を入れてぐりぐりとした。天井が見える角度になって、下からいいにおいがした。

「残酷ですっ」

「群集心理というものはおそろしいな」

「わたしは千羽ちゃんのほうがおそろしいですよ、なんだか、だれもがかわいそう」

「だれもが?」

 ぐりぐりは止まったものの、ぎゅっと抱きしめられたので完全にロックされた。掃除道具入れの真上には輪郭のぼんやりとした染みがついていた。

「でも仕方ないですね、千羽ちゃんはかわいいから、仕方ないです」

 わたしがかわいいため、ミオミオはサラナに胸を触られてくれるらしい。よいから、よいのだ。


 冬のキャッチボールは痛くて寒い。いつも悲鳴が飛び交うが、今日はすこし事情が違った。

「あっはーん」

「……水脈ちゃん、ふざけてる?」

「ふざけてないですよっ、本気でつらいんです、つらき声です、これは!」

 サラナはバランスを崩して山なりのボールを投げた。遅い球をぽふっとキャッチしたミオミオは「ああんっ」とあえぎ声をあげる。冬のキャッチボールと幼馴染の視線が痛い。

「ど、ど、どうしよう、奥原。水脈ちゃんが壊れた!」

「でも、ちょっとセクシーじゃないか」

「奥原?」

「そろそろセクハラをしたくなるよな」

「奥原!?」

 ボールがわたしの頭上を抜けた。手を伸ばして飛び跳ねたのに、グラブにかすりもしなかった。ペアの子の「ごめーん」の言葉を背中にとことこと拾っているうちに、後ろが騒がしいことに気づいた。ミオミオがウィンドブレーカーの上を脱ぎ捨てて、下に手をかけているところだった。

「ぽっかぽかに暖まってきましたからね、冬眠から目覚めるときが来ました!」

「冬真っ盛りなのに!?」

 ぽつり。雨が降ってきたかと思った。手のひらを広げてみるとグラブに氷の粒が落ちた。いつものとおり天気予報が外れたらしい。校舎内で走りこみをしている陸上部は正解だったようだ。部長の一声でソフトボール一同はわたしやサラナも含めてダッシュで中央に集合するが、ミオミオだけは脱ぎかけていたズボンに足をひっかけて転んだ。ハーフパンツまでずり落ちて、くまさんパンツが上半分だけ露出していた。いつの間にか隣に立っていたサラナの顔を盗み見る。仕方がないな、ミオミオはお子様だから、仕方がない。


 身支度を整えた上で、通学路の途中にあるサラナの家に寄る。隣同士ではないにしても、徒歩で五分も掛からないご近所さんだ。寝ぐせだらけのサラナが出てきて「ぼばびょう」とあいさつをしてきたので、やつの側面にタックルをした。こちらが跳ね返されそうになった。

「最近、おまえの家にいってないな」

 サラナは一発で覚醒した。「えっ、そ、そうだっけ」というのはおそらく気のせいで、証拠に柱にぶつかってよろめいた。

「ドジめ」

「いっーや、そういえばそうだね。まあ、恋に勉強に部活に忙しかったし?」

「だれが忙しかったんだ?」

「この文脈だったらあたしか奥原しかいないでしょ」

「そうだな、だれが忙しかったんだ?」

「うう……何もかも頑張れないまま一年が終わる」

 首が痛くなる。それに歩いている最中は前方を見ていないと危ない。「だったら」今にも雨が降りそうな空気だ。

「お泊まりしようか」

「め、めっそうもない!」

「なにが滅相なんだ?」

「部屋も汚いし」

「なら掃除するがよい。木曜日な」

 指を三本折ったところでサラナは叫んだ。「明日じゃん!」そして、また電柱にぶつかりゲームセット。


 次の授業に向けて準備をしているうちに、引き出しから本を落とした。わたしが屈んで拾う前に「あら」としなやかな手が伸びた。

「なにこれ。『ペットのしつけ方』……念のために聞いておくけど、これからペットを飼うのよね?」

「まさか。サラナに使う」

 善美はぶつぶつと呟きながら、わたしの机に本を置いた。と思ったら、指のはらで本の背表紙を押しはじめた。最初はまっすぐ置かれた直方体が無言で斜めになってゆく。

「ということは、まだコントロールできていないわけね」

「ほめて伸ばすといいらしいぞ」

「あらそう。すごいわ、千羽さん」

「だから、やつがセクハラをしたら頑張ってほめるつもりだ」

 千羽さん。善美はわたしに顔を近づけることが好きらしい。わかっているかしら、千羽さん。セクハラはハラスメントなのよ。相手の許可なしにみだりに肉体を弄ぶようなことはあってはならないの。公共の場で交接を想起させることは慎むべきだわ。秩序の乱れは宇宙の乱れよ。

「教室のまん中で情慾をそそる言い方をするものだな」

「こっちは真剣なのよ」

「しかし、ヨシミン。わたしがそのセクハラとやらの光景を目の当たりにしないかぎり、行動には移せないぞ」

 それについては。トイレから帰ってきたサラナを見て、善美はわたしから離れてゆく。「きちんと観察していればわかるはずよ」


 榎並紗良奈はあくびをするときに、まず一回目は隠さない。文句のつけようのないピカピカな歯が見える。二回目は広げたパーで隠す。三回目はパーを顔面に押しつける。四回目は後ろに反る。いずれにせよ「ふわあ」と大きな声を出す。五回目は両手で顔を隠して「助けて水脈ちゃん!」と言った。

「千羽ちゃん。食事中に相手の顔をじろじろと見るのはよくないですよ」

「食事中に口を隠さずにあくびをしたり、何度もあくびをしたりするのはどうなんだ」

「たしかにそうですね。よくないよ、紗良奈ちゃん」

「だれも助けてくれない!」

「それに、授業中も見ていたしな」

 顔を隠したまま、サラナは左右に揺れた。今こそ椅子に座っているが、もし白いマットに寝かせていればまな板の上でビチビチと暴れる魚のようだった。

「うう、焦がれる。焦がれちゃう」

「捌かれることもなくそのまま焼かれたのか」

「裁かれる!? あたし、悪いことなにもしてないよ!」

「確かにそうだ。わたしもそう思う」

 水脈と目が合う。いったい善美はなにを考えているのだろう。昼食の時間まで紗良奈は何も起こさなかった。昨日だってそうだ。せっかくミオミオがあんな醜態をさらしたというのに。そもそも、同じクラスで同じ部活の幼馴染に見つからずにクラス全体の治安を乱すような真似ができるだろうか。

「ど、どうして今度は水脈ちゃんと見つめ合いはじめたの?」

「紗良奈ちゃんは飽きられたんですよ」

「そんな! やだやだ、奥原。あたしのこと、もっと見てもいいよ」

「うるさい、だまっとれ」

「あうっ」

 とにかく任務を遂行するには、サラナの本性を引き出す必要がある。わたしはミオミオにバチッ、バチッとウインクをしたが「必死でかわいいです!」以外の反応は返ってこなかった。


 サラナが廊下を掃除しているあいだに、早急に話を済ませる必要があった。ミオミオにちりとりを持たせたわたしは、ホウキでごみを入れているように装って例の件を切り出した。

「作戦としてはこうだ。まず、ミオミオがサラナに色仕掛けをする」

「昨日のあれではだめですか?」

「あれでよかったとよく思えたな」

「下着を見たのに狼にならなかったということは、紗良奈ちゃんがしっかりとした淑女である証拠ですよ」

 ミオミオはむふーっと鼻で息を吐いた。屈んだ足と足のあいだから、うさぎさんパンツが見えた。

「では、ぺたぺたと密着して、いちゃいちゃしてくれ」

「うーん、いいですけど。部活中にやるんですよね? 先輩に怒られそうですよ」

「大丈夫だ。先にわたしが注意する」

 やつの顔が明るくなった。「さすがです千羽ちゃん!」賛同する勢いで完全に足が開いて、先ほどまでパンツに落ちていた影がきれいになくなった。

「ほめてしつけるぞ」

「注意だから褒めちゃだめですよ」

 決着した。ミオミオはほとんどゴミの入っていないちりとりの持ち手でトントンと床を叩いてから、ゆるゆると立ち上がった。

「構図だけ見ると、千羽ちゃんが嫉妬して罰を与えているみたいで、紗良奈ちゃん視点で考えると、この状況は、すっごく……きゅんきゅんするのでは?」

「なくもないな」

「何がですか?」

「嫉妬」

 自分で仕組んだことのくせに、とミオミオはぷんすかしながらわたしの背後に回って「ワタシも千羽ちゃんに嫉妬されたいです」と頬擦りしはじめた。

「かわいい……無限にかわいい……無限によしよししたい……」

「頭頂部がうすくなる」


 掃除が終わるころにはすでに雨が降っていた。廊下で腕立てふせをしていると、目の前にあるサラナの足とわたしのあいだに埃を見つけた。ふう、ふう、と息をふきかけて埃をやつの領域に送りこむ。

 廊下での走りこみは善美がもっとも憎んでいる悪習のひとつである。「廊下を走るなと言うのに、なぜ運動部は許されるのかしら。私が生徒会長になったら容赦しないわ」確かにふしぎだ。今も前を走るサラナがずるっと滑りそうになった。後ろでぜいぜいとしているミオミオが転んでわたしの足を掴まないか心配でもある。前を向いたまま声を掛ける。

「ミオミオ、今がチャンスだ。ゆけっ」

「ぜーっ、だめです、これ以上走ったら死んじゃいます」

「エースで四番の心意気はどうした!」

「ミオの人生のなかでそんな重大なポジションに立ったことは一度もないです! ずっと補欠かライトです、右曲がりの人生ですっ」

 素振りもまた善美がもっとも憎んでいる悪習のひとつである。「あのね、あなたたち運動部ってエントランスホールをなんだと思ってるのかしら? 他の生徒だって使うのよ。保護者が訪ねてくるかもしれないし。すてきなパフォーマーね。容赦しないわ」集中するサラナにミオミオは抜き足差し足忍び足を背後からすっぽ抜けたバットでくじかれて倒れた。近くにいた部員が集まる。

「わっ、水脈ちゃん大丈夫!?」

「うう……お詫びにミオをやさしく介抱してください、紗良奈ちゃん」

「あたしは何もしてないよ!?」

 ミオミオの機転によって二人は保健室に向かった。わたしはそのまま素振りに集中する。これで人目を憚らずにいちゃいちゃすれば、正々堂々と注意をすることができる。人目を……憚らずに……。振りむいて、保健室へと続く廊下を見た。人目を……人目……人目が……。


 キラキラと空気の澄んだ朝。わたしのタックルをはじいたサラナは「昨日は大変だったよ」と回想した。

「保健室まできちんと自分の足で歩いていたのに、ベッドの前に来たら『お姫様だっこしてほしいです』って言いだしてさ。俵を担ぐみたいに運んだら『それはお米様だっこです!』って暴れだしたから、慌ててそのまま床に落としちゃったよ。あはは」

「それの何が笑えるんだ?」

「ひぃっ、ごめんなさいっ!」

 すぐにわたしに怯えるサラナを見ていると、この状況がいっそう不可解に思えてくる。この非力で小さな弱っちい者を前にして、ちっとも偉ぶることがない。セクハラが問題となるとき、そこには肉体的な、あるいは心理的な不可能があってノーを突き付けられないのではないか。どうしてサラナに交尾ごっこをさせられて、後ろ蹴りをできないのだろう。やつは「ま、また見てる……」とあっちを見たりこっちを見たりした。

「おまえは犬のようだな」

「ええっ、い、犬!?」

「最後には恥辱だけが残る犬」

「い、いやな犬ぅ……」

 わたしは考えた。要は善美に報告できるだけの実績があればよいのだ。改まっていなくても、改めるものなどないのだから。


 その善美が着席しているわたしの前に立った。机にひじをついて目線を合わせることもなければ、前の席を借りて座ることもなく、仁王立ちで、こちらを見下ろしている。

「進捗はどうかしら」

「犬であることをわからせてやった」

 よろしい、とやつは頷いた。なにがよろしいのかはわからないが、サラナと入れ替わりで登場するため「じつはサラナの分身ではないか」とひそかに思った。

「正義があなたにかかっているわ」

「今日の昼休みにわたしの叱咤を見せてやろう」

「あら、だめよ千羽さん。さらし者にしなさいとは言ってないわ。彼女の自尊心を傷つけたらどうするの」

 わたしは善美の顔を見た。おどけることもなければ、憎しむことも、また、慈しむこともない表情をしていた。

「作戦変更だな」


 全治半日の怪我を負ったミオミオは、事前に話しておいた作戦どおりに「今日は紗良奈ちゃんの弁当をすべて食べたいです!」と宣言した。

「えっ、い、イヤだよ。あたしの分がなくなっちゃう」

「そうですか。では、ミオに食べさせたいものをセレクトしてね」

「なんでゲームの選択画面みたいに……」

 サラナがしぶしぶとひじき煮をミオミオの口に運んでいるあいだに、わたしは立ち上がって善美がよくやるポーズをした。

「あーんをしたな」

「そりゃ、水脈ちゃんが……」

 ちらり。他のグループと食べていたはずの善美と目が合ったことを確認して、あわあわとするサラナに接近した。

「わたしには一度もあーんをしたことがないというのに」

「そ、そういうキャラじゃないでしょ! 奥原は」

「しつけが必要だな」

「何の!?」

「食べ終わったら、さっそく罰を与えるぞ」

「何の!?」

 これでどうだ。ふたたび善美を確認すると、やつは片手で顔を覆って上を向いていた。宇宙の秩序を気にしているに違いなかった。


 ミオミオあーん罪で廊下に連行したサラナの後ろに回ってひざかっくんをしたのち、「罰としてわたしを背負って丘を登れ」と命じた。

「ここらへんに丘なんてないよう」

「なら屋上前の階段前でいい」

「うわー、トレーニングと一緒じゃん」

 文句をいいつつもサラナはわたしを背負って、進みはじめた。部活でたまにやっているからか躊躇いはない。廊下を歩いている一般生徒をぐんぐんと抜いていく。

「なーなー、奥原。そんなにぎゅっとしなくても、振り落としやしないよ」

「おまえの汗くさい頭皮をクンクンしているだけだ」

「くさくないよ」

「くさいよ、ミオミオは体育のあとでもいいにおいがするのに。ちゃんと頭を洗ってるか。泡立ちのよくないシャンプーじゃないだろうな」

「うるさいなあ。水脈ちゃんと比較しなくてもいいでしょ」

「ヨシミンの頭はシアバターのかおりがする」

「どんだけ人の頭を嗅いでるん?」

 四階に上がる階段の前に来て、サラナは腕に力を入れた。

「どうするんだ、女子高校生の時点で頭がくさくて。これから歳をとったらどんどんくさくなるんだから。若さに甘えてこまごまとしたケアを怠るととんだクリーチャーができるぞ」

「ちょっと静かにしてよ、気を抜くと危ないんだから」

 頭のなかの善美が怒りだした。「おんぶをしながら階段を上り下りする? 正気で言っているのかしら。重大な事故が起こるのかもしれないのよ。容赦しないわ」サラナはひょいひょいと階段を上って、あっという間に屋上前の階段前に到着した。やつはわたしを一段目に座らせてから「満足した?」とひざに手をついた。

「えなみたん とってもすごい よくやった」

「なにそれ」

「五・七・五」

 サラナは体勢をさらに落としてわたしを見た。鼻と鼻の頭がぶつかりそうになるぐらいの近さで、まじめな顔をしていた。

「お、奥原は……」

「ん?」

「あたしにそんなに、あーんって、してほしかった?」

 つごん。鼻の先と先が触れ合っただけでは、そんなに気持ちのよい音はしなかった。サラナは「うわあ」と声をあげて廊下の端まで後退した。腰をあげた動きをそのまま継いで追い詰めにいく。

「今日の夕飯は覚えてろよ」

「ひぃっ」

 わたしはサラナを置いて教室に戻ることにした。四階の階段を降りきったところで振り向く。すこし待っても、やつはやってこなかった。

 

 ミオミオはぼんやりとホウキを動かし、わたしが持つちりとりの真横にごみを集めた。

「やっぱりおかしい気がします。サラナちゃんがわいせつ行為に走るなんて……だって、初手がひじき煮ですよ?」

「初手がひじき煮でもわいせつ行為をしていいだろう」

「初手がひじき煮であろうとなかろうと、わいせつ行為をしてはいけないわ」

 ずかずかと近づいてきた善美は「水脈さん、箒を貸しなさい。私がやるから」とホウキを奪い取ってセカセカとごみをちりとりに入れた。

「ど、どうして善美ちゃんがここに……」

「私はどこにでも遍在しているわ」

「びぃっ」

「悲鳴をあげることなの?」

 善美はミオミオにホウキを返して、わたしの目線に合わせるように屈んだ。

「昼休みは注意をしてくれたみたいね」

「鼻をあかしてやったぞ」

「だけど、逆効果のようね。さっきも報告が上がったのよ。それも複数人から」

 わたしは頭をそらして黒板の上にある時計を確認したのち、ふたたび善美に向き直った。

「そんなに時間が経っていない」

「ちょっと待ってください! 善美ちゃんも報告を受けているだけなんですよね?」

「報告は匿名ではないのよ。あなたの言いたいことはナンセンスだとは思わない? それに、水脈さんはこの不可解な状況の原因をすでに察していたと思ったけど」

 ミオミオは「ビ、ビ、ビューン」とホウキにまたがって教室を出た。善美と同時に立ち上がる。

「わたしは、おまえの依頼こそ不可解だ」

「そう?」

「仮に、万一、間違えている人がいたとして、徒党を組んでまでそいつを正そうとする情熱がわからない。もしあいつを真人間に更生できたとして、次はどんな会ができあがるんだ? 誰が対象になるんだ? それを繰りかえして、人類はどうなってゆくんだ?」

「よくなってゆくでしょうね」

「秩序を正義とするのなら、この世で最大の悪は個性だ。きちんとひとつひとつ検品された、立派で、基準を満たした、大量生産品ができる」

 ちりとりからこぼれた埃のひとつを人差し指と中指でそっとつまんだ善美は、ふう、と吹いて埃を帰るべき場所に戻した。

「父が言っていたのよ。おもちゃは良い子が好きだから、良い子のもとにやってくるんだって」

「かわいい話だな」

「それで、考えたの。とっても良い子になれば、おもちゃが群がってくるかもって」

「こわい話だな」

「だけど、どんなに良い子になってもおもちゃは群がってこなかった。そもそも、強欲だものね。とっても良い状態を目指すことは。まったく良い子の発想じゃない」

 廊下からひょいと顔を出すかたちで教室の入り口にミオミオが見えた。「ま、まだ話してる!」善美はこほんと咳をした。

「たいせつな友だちが悪いことをしているのなら正してあげる。それが友情でしょう」


 部活のときも、帰り道でも、わたしが家を訪れてからも、ご家族といっしょに食卓を囲んでいるときも、サラナはそわそわとしていた。目の泳ぎは「あーん」で最高潮を迎えたかと思ったが、続きが待っていた。

「いいいいい一緒にお風呂!? どぴでぇっ!?」

「おまえがくさいからだ」

「くさくないよ」

 サラナはくさい頭をふかふかのラグに押しつけて「ゆるしてください」と土下座をした。わたしは姿勢をくずして「うむ」と胡坐をかいた。

「きちんとシャンプーをするのだぞ」

「してるよ……します」

「指の腹を使うのだぞ」

「使ってるって……使います」

 結局、サラナとわたしは別々に風呂に入った。途中でわたしが乱入するハプニングはあったものの、ちょうどよくやつがのぼせて沈みそうになったので、人命を救うことができた。美しいことをした。

 

 わたしが風呂から上がったあとも、サラナはぐったりとベッドに寝転がっていた。やつはうつろな表情で「おかえり」と言い、仰向けから横向きに体勢を変えた。

「リボンをつけてないと、シュッとして見えるな」

「あれ、奥原がくれたやつだよ」

「知ってるが?」

「体格がよくて髪も短いから男っぽくてヤだなーって言ったらくれたやつ」

「気にしなくても、おまえはいつも女の子だったけどな」

 榎並書店に新しく入荷した漫画を物色しているところで、わたしはつんのめった。

「なんで枕を投げた?」

「べつに、なんでもないよ」

「なんでもないのになんで枕を投げた?」

「え?」

「痛かっただろうが」

 奥原投手、枕をサラナの顔面にヒットさせる。まだ足りない。もこもこスリッパを脱いで無防備なホームベース……サラナの腹を踏みつけると、セェッフゥッがやつの口から洩れた。ランニングホームラン。

「おまえのデカさから生み出されるパワーを受けたわたしの被ダメージを考えろ」

「うう、ごめん、ごめん奥原……」

「同点になったから許してやる」

 足をもこもこスリッパに戻し、矛を収める。はずみでサラナの顔から床に落ちてしまった枕を拾い上げた。

「これも榎並のにおいがするな」

「そのにおいってくさいほうのにおいでしょ」

「においがする」

「くさくないよ」

 

 どごん。どごん。ベッドを背にマンガを読んでいると縦揺れを感じた。元気になってきたサラナが仰向けになって足をばたつかせていたらしかった。勉強机に備え付けの椅子にちょこんと避難する。違うマンガを読もうと棚に手を伸ばしたところで、間抜けな声が聞こえた。

「なー、奥原。少女漫画でよくある、男が照れたときに口元を手の甲で覆うしぐさってなんか気持ち悪いよな、女っぽくて」

「仕方ないだろ。女の子は女の子と付き合いたいんだよ」

 どん、と鈍い音をした。下を見るとサラナが床にワープをしていた。胸の前で手を組んで、見開いた目で天井を凝視している。

「今日は床で寝るのか? ありがとう」

「ちゃんとベッドで寝るから……それより解説を……その発言の釈明を……」

 わたしは新しく手にとったマンガをぱらぱらとめくりながら、椅子をくるくると回した。

「だってそうだろ。少女マンガのイケメンのどこが男らしい? あいつらはみなツルツルじゃないか。ケアをする前の女の子より毛が生えていない。まつげもビシバシ。男が中性的であるということは女に近いということだ。やさしい男の子が好き。そのやさしさは気配りや思いやりのことだ。少なくとも、争いのない平和な現代においては。話の面白い男の子が好き。その面白さはコミュニケーション能力や共感性の高さのことだ。少なくとも、公平と公正を愛する現代においては。短距離走の得意な男の子が好きというのは才能が好きの言い換えで、これは金と権力が好きと関連する。かつては金と権力が男に集中していたため、男を好きになるしかなかったが、本心として女性は女性的なものに安心するし、ママに頭を撫でられたいと思うし、ママに守られたいと思うし、成人に近づこうとしている男の子の容姿は醜いとわかっている。宗教とその歴史によって構築された社会の仕組みとそれを内面化した価値観によって育まれる世間体さえなければ、女の子は女の子と交際するだろう。男と付き合いたい人間なんて男の同性愛者しかいない。男のプライドはもはや多額の借金である。男らしい男がヒーローになるにしても変わり種のギャグマンガとして処理。王道は女のような男。やさしくしなやかで美しく綺麗で金と権力をもった性欲のない男」

 回転に疲れて止まると、ちょうどサラナのいる向きだった。やつは目を閉じてすうすうと気持ちのよさそうな寝息を立てていた。まったく……。わたしはもこもこスリッパを脱いだ。


 サイドランプによる濃い影を見ているだけで眠たくなってくる。しかし、サラナが床に落ちる音でたびたび覚醒する。

「もっとくっつけ」

「奥原のこと、つぶしちゃいそうで」

「わたしをか弱い生き物だと思っているな」

 思ってないよ、の声がうわずった。やつはふたたび重たい掛けふとんの中に滑りこんだ。ひんやりとした空気が巻きこまれて、すぐにぬるくなった。

「すごく、小さいとは思うけど」

「器が」

「い、いや、違うよ。からだがね」

「おまえのベッドはわたしにはデカすぎる」

 耳元で、うん、うん、と鳴るサラナの低い相槌が、羊を数えるようだった。

「でも、寝苦しくなくていい。むかしは最悪だった、横にも上にもぬいぐるみがぎゅうぎゅうで」

「あたしも成長したんだよ」

「わたしに配慮して、棚に隠しただけだ」

「大事なものだから……つぶしたくないと思っただけ」

 その日は、ヘンな夢を見た。そこはおもちゃの王国で、すべての壁はプラスチックのブロックで出来ていた。パンチで砕きながら直進すると、これまたプラスチックのブロックで作られたお城があって、プラスチックできた兵隊が何列も並んでいた。一ミリの誤差も許さず、まったく同じ顔で。最前列の左にいる兵隊を横からパンチすると、ドミノのようにばたばたと兵隊たちが倒れていった。

 さわやかな朝だった。

 サラナはすでに起きていた。なぜか勉強机に備え付けの回転椅子でひざを抱えてこちらを見下ろしていた。

「早起きだな」

「え、あ、変な夢を見たから」

「どんな夢?」

「奥原の髪留めの船が、じつは折り紙のだまし船だったって夢」

「現実だぞ」

「えっ」

「うそ」

 椅子からはみ出ていたやつの靴下の先が、ぐにっと丸くなった。


 弁当を取りにいってから合流し、いつものように学校に向かう。冷たい風を避けるついでにサラナにタックルをすると躱された。やつは上の空で「お店のトイレを借りたら、便所虫がいたんだよ。便所虫ってほんとうに便所にいるんだなってちょっと感動した」とボヤいた。

 どうでもいい話をするな、とは言わなかった。

 われわれには、こよなく、あそびが必要だ。不揃い、欠品、ちょっとした出来心、歪み、にょろっと出た糸、偏った綿、パチモンが、想像できない作用を及ぼし、世界にひとつだけしかないという、愛着をうみだす。

「なんか、便器のほうに近づいてくるんだよ。それで足を上げてさ、ああ、本当にダンゴムシに似てるんだなって思って」

 この不条理もまた、愛着のひとつであった、が、決着をつける必要がありそうだ。

 榎並紗良奈を加害者としたセクハラ被害者の会が存在する。

 榎並紗良奈は何もしていないように見える。

 セクハラ被害者の会の代表である都井善美はみなの声を聞いている。

 被害者たちが実名でウソの告発をするメリットはない。

 都井善美にウソをつくメリットがあるだろうか。

 全体の秩序も個人の尊厳も守ろうとする者がそれをよしとするだろうか。

 しないだろう。

「ダンゴムシは丸まるけど便所虫は丸まらないんだっけ。むかしそう聞いた気がして」

 では、だれもウソをつかなかったと考えよう。

 セクハラ被害者の会は実在し、みなの被害も事実であり、都井善美の正義もまた真実であるとしよう。

 いったい、何が隠されていたのだろう。

「だけど、触って確かめる勇気はなくてさ」

 隠したのはよく見せようと思ったからだ。それはけっして綺麗な想いではない。隠さなければよく見せられないことをした自覚がありながら、続けるために隠した。

 悪意だ。

「だから、本当にあれが便所虫だったのかわかんなくて。これはダンゴムシの話だったかもしれないんだよ」

 教室のドアを開けようとするサラナの手を引いた。やつは目を丸くして、ぽかんとしていた。

「どうかした?」

 自分がよいと思うものをみながよいと思わないこともある。だれもが知っているが、本当に知っているとは思えない。気付かないだけで、目につかなかっただけで、見逃されているだけで、知ってもらえさえすればよいと思ってもらえる、好きになってもらえる、そう信じている。

 知ったらみなが嫌いになることを自分だけが知らないなんて、思ってもみない。

「おまえがどうしたんだ、榎並」

「何が?」

「とってもよい人間にならなくても、べつによかったんだぞ」 

 ドアの透明ガラスをぴょんと覗けば、すでに大半のクラスメイトが揃っていた。呆然とするサラナの手を引っ張ったまま、やつのかわりにドアを開ける。

「わたしも、悪い子だからな」

 そのまま教卓の前まで進み、掴んでいたサラナの腕を天井までぴんと伸ばさせて、宣誓。

「榎並と付きあうことになったぞ」

「え?」

「これはわたしの運命だ!」

「ええ!?」

 席を立ち上がる勢いで、見知った顔がバンザイの挙手をした。

「まってください、ミオはいったいどうなるんですか!」

「おまえは二番目だ」

「宇宙一かわいいのに二番目の女!」

「一番はいくつもあってはならないからな」

 手を離したのに、サラナはひとりで腕を上げたままこちらを見た。わたしは困惑しているクラスメイトたちから目を離さなかった。

 思ってもみなかったのは、疑うことを忘れるぐらい、好きだったからだ。信じたことで掻くかもしれない恥を耐えられるぐらい、大好きだったからだ。

 みんながよいと思わないものでも、自分がよいと思うものをよいと思ったままでいたい。

「こいつには、もう、指一本ふれさせないからな」

 静けさのなかで、くすぐったそうな声が聞こえた。次第に抑えきれなくなったらしく、咳まじりに腹まで抱えだしたその声の主は、もはやクラスメイトの視線も、両手を上げたまま項垂れるミオミオも、片手を上げたまま戸惑うサラナも、わたしのことすら気に留めないで、おもちゃに囲まれた子どものように。

 都井善美はとってもよく笑っていた。

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