1-4 まずやるべきこと
藤見湖へと通じる唯一の山道。藤見湖までは直線距離でおよそ2キロ、道なりに進めば藤見湖南湖畔にある藤見学園までおよそ8キロの位置にある駐車可能台数3台の藤見湖東展望駐車場に戻ってきたようだ。
今のオレの状態は、地震と錯覚した衝撃波を受けた時と変わらずに運転席に座った状態のままであった。そしてすぐに身体の状態と頭の状態を確認する。具体的には車のドアを開け、屈伸、垂直飛び、反復横跳び等で身体に不具合が生じていないかを確かめ、続いて自身の名前、生年月日、携帯番号、暗証番号等がすぐに思い出せるかを確認する。そして、ホッと安堵の息を吐いた。
「よかった。ホントによかった」
思わず涙ぐむ25歳。情けないと言うなかれ。下手をすれば異世界生活開始後即終了の危機だったのだ。自我崩壊もしくは心神耗弱による身体能力低下が原因で魔物の餌確定となりかねなかったのだ。それこそ自業自得で。
「さて、ここまでしたんだから身についててくれよ」
心の声を無視して言霊に縋る。危うく自身の限界を見誤って自己崩壊する寸前であったが、この世界で生き抜くための情報収集と分析、それを基に行った自己研鑽は誰にも負けない程行ってきたつもりである。根本的にオレの考えが間違っている可能性もゼロではないが、端末を通して得た情報が一部間違っていることについては確信がある。そしてそのことをいち早く察し、真実に近づいて鍛錬することで俗に言うチートには届かないかもしれないが、この死地を切り抜けられる力には十分なってくれるはずだ。
「まずは魔力廻流」
すでに言霊に頼ることなく出来るはずだったが、本来の肉体の下での魔法行使は初であるため、あえてオレは両手を右胸に添えて言霊を発する。右胸にはこの世界に逆召喚された時に生成された己の魔石が存在する。この魔石こそが魔力の源であり、そこから引き出した魔力を用いて様々な事象を引き起こすことが出来るのがこの世界だ。今行うのは言うなれば身体強化スキルの行使である。まあ、この世界、アメイジアには魔法はあってもスキルはないのだから魔法というべきだが。
右胸から湧き出る魔力を隣の心臓へと流し、そこから血流に沿って全身へとゆっくりと流し込む。そして指先等末端まで行き渡り、さらには心臓まで戻ってきたことを確認するとオレは軽くその場でジャンプする。
「っしゃ成功!」
普段であれば軽くジャンプした程度では50センチも飛べないだろうが、どう考えても1メートルは飛べている。つまり、倍以上の身体能力向上だ。この世界の定義で言うならば、身体強化ランク5の資格試験合格基準であり、身体強化ランク5とは冒険者であればランクB相当、国家や貴族の軍であれば騎士の称号を得られる程度となる。冒険者も騎士も身体強化以外に必要とされる資格ランクはそれなりにあるが。
「よし。ここからは移動しながら確認だな」
オレはすぐにでも身体強化以外の魔法を試したい衝動を抑え、次の行動を取るに相応しい装いに着替えることにする。なにしろ、今のオレは藤見学園へ仕事の一環で向かっていたためにスーツに革靴姿なのだ。これから戦闘を行うには不向きな装いである。愛車に積んである保温効果の高い長袖Tシャツとシャツ、ジーパンを身に付け、トレッキングシューズに履き替える。武器として薪割りにも枝打ちに使える鉈を左手に持ち、キャンプの際に調理用として重宝するナイフを腰に差す。流石に剣や槍なんてものは持っていないのでこれで準備完了である。それに、初撃は出来るだけ遠距離からの魔法で攻撃し、弱らせてから近接戦闘を行う予定である。
「さて、行きますか」
初の実戦ではあるが、オレに気負いはない。すでに精神世界で戦闘訓練は十分に積んでいる。戦闘によって生物を殺す覚悟は出来ているし、場合によっては人を殺める覚悟も出来ているつもりである。それが出来ないと自分が死ぬことになるのだから。
オレは現在藤見湖を基点として考えるなら、東南に向かって山中を走っている。つまり、藤見学園とは逆の方向へ向かっているということになる。常識的に考えるなら、初動としては共に異世界へ渡ることになった同胞のいる藤見学園へ行くべきだろう。そして協力して周辺の魔物や魔獣から身を守り、戦う術を学び、食糧が尽きる前にこの世界の住人が作る文化圏内へと向かう。幸いなことに、この世界にも人類と呼べる存在がおり、文化生活レベル的には中世に毛が生えた程度ではあるが、それなりに発展しているのだから。
ただ、オレにはそれが簡単なこととは思えなかった。
アメイジアの地に降り立った直後に取るべき行動については、精神世界で調べるものを調べ、鍛えるべきを鍛えた後、10倍の重力に押し潰され、味覚・臭覚・聴覚・視覚・触覚を奪われつつある状態の中、精神世界崩壊の間際まで悩んだのだ。
「まず、最初で躓くだろうからなぁ」
オレが藤見学園へ行きつくことが出来るかどうかではない。魔素という地球には存在しないものがあるとはいえ、車を含めた機械は問題なく稼働するため車で20分も移動すれば問題なく到着出来る。魔物や魔獣といった敵対生物も藤見湖周辺10キロが環境ごと転移した直後の現在はその範囲内に存在しないからだ。問題は、藤見学園の中等部3学年各3クラス計270名、高等部3学年各4クラス計360名、教職員(学生寮、食堂、売店等学園運営関連職員を含む)100名、合計730名が協力体制を取れるかどうかである。
今夜行われる予定であった同窓会の主要メンバーである悪友その1によって寮生活中に語られた言葉を借りれば、『集団転移で初期に起こる問題は2つ。魔物侵攻と内部崩壊だ』とのことである。ライトノベル由来の知識であることは承知していたので、半ば聞き流していたのだが、今の状況を考えると無視出来ないどころか、その通りになること請け合いである。
藤見湖を中心とした半径10キロが転移したのは、3つの魔物魔獣勢力のど真ん中であったのだ。西にゴブリン1200匹、東にオーク500匹という魔物の集落が存在する。そして、南には野生動物が魔素によって狂暴化した魔獣の一種であるフォレストウルフの縄張りがある。こちらは100匹以上を率いるボスの群れを中心に衛星のように小規模な群れが存在し、総数は500程。この3勢力が拮抗して存在していた地のど真ん中に730名の人間が現れたのだ。
ちなみに、1対1の戦闘の場合、ゴブリンであればこの世界の非戦闘員の一般人でもまず間違いなく勝てる。武器さえあれば。ただ、大規模な集落を維持しているとなればほぼ間違いなく最上位個体であるキングが存在していることから集団戦になる。己の精神世界へと送られた200名は何らかの魔法を使えるようになっている可能性は高いだろうが、必ず勝てるとは言いきれない。もしも3勢力同時に襲われれば生き残れる人数はかなり少ないだろう。
次に内部崩壊。全ての人間が非常事態の中で理性的になれるものか? 否である。これは比較的理性的で温厚と言われる日本人も例外ではない。水害、地震などの大規模天災に見舞われた時、相応の犯罪が起きている。空き巣、暴行、略奪……これらが必ず起きている。
そして、今回の集団転移には現在抑止力がない。警察機構という犯罪抑止力がないため、箍が外れやすい状態なのだ。未成年者が多い点もそれに拍車を掛けかねない。さらには自衛隊による災害派遣もない。救援の可能性がないことは心理的負担が大きく、ただでさえ外れやすい箍を吹き飛ばしかねない。極めつけは、彼の精神生命体によって仕分けられた持つ者持たざる者の差である。早々に退場させられた500名余りの者たちはこの世界へ飛ばされることになった経緯の他はこの地の人類の言語知識しか与えられていない。他方、持つ者である200名には、精神世界での事前学習環境が与えられており、最低限の情報は収集しているはずである。そして中にはオレのように彼の者の意図を察するなり精神世界の特性を理解するなりして魔法習得や戦闘訓練を積んでいる者もいるはずである。もしかしたら、オレ以上の知識や力を得ている可能性もある。
「集まれば不和、不満が渦巻くだろうなぁ」
あらゆる問題が想定される。とてもではないが、地権者の息子、学園OBといった肩書で問題に対処できるとは思えない。かろうじて対処できるとすれば、圧倒的な力や知識を背景とした仲裁程度だろう。知識的にはそれなりに自信があるし、それを周囲に説く話術にもそれなりに自負がある。だが、力が足りない。具体的には魔力が足りない。だからそれを得ることを最優先にする。それは自身の安全にも繋がるから。
「まずは警邏中のはぐれオークから狩らねば」