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色覚障害について、調べ得た情報で書いております。
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前髪を伸ばし始めたのは、いつの頃からだろう。
切掛けは、人とのコミュニケーションを出来るだけ少なくするためで、要は目を合わせない為のカーテンのようなものだった。
高校に入学したばかりの私、『水無月みしろ』はあるハンデを生まれながらに背負っている。
先天性の色覚異常、その中でも稀な一色覚(色が濃淡でしか判断できない)と言われる目の障害だ。色覚異常と言っても、大半の人は赤系統や緑系統で色の差が判らなかったりするらしいが、色と言えば濃淡しか知らない私には、その感覚さえも理解できない。
そんなだから、幼い頃から「こんな違いも……」みたいにからかわれる事もあったし、そんな事をしない子達とでさえも、会話の中に含まれる【色】と言う情報が理解できず、気を使わせてしまったりした。だから、なんとなく居場所が無いように感じてしまって、積極的になれないでいた。
『だから私は前髪を伸ばし、一人で居ることを望んだ』
それは高校に上がった今でも続いていて、休み時間ともなれば一人で本を読んで時間をつぶしている。もっとも、そうしていれば話しかけられないからであって、とりわけ読書が好きなわけでもない。なぜなら、言葉として出て来る色が判らないのだから、普通の人が思い描くそのイメージより、色褪せた世界しか私には描けないと思うからだ。
好きなのは音楽を聴く事と歌う事だけれど、学校では携帯プレーヤーの持ち込みは禁止されていて聞けないし、歌っている事で話しかけられるのも困るので、知り合いの前でそれらをすることは無い。
それでも完全にクラスから浮いている訳ではなく、女友達と最低限の会話はしているし、気にかけてくれる友人も何人かはいる。
学校にも慣れてきた六月のある日。
珍しく寝坊をして、お昼を買えずに学校に滑り込むことになってしまった。私のお昼は決まってコロッケパンと甘いパンの組み合わせで、学校の真ん前にあるパン屋さん『アルプス』で買っているのだ。
今日はそれを買えなかった訳だけれど、幸いにも学食も有るし購買でパンも買えるので、昼抜きとはならない。ならないのだけど、どちらも結構な込み具合で私には少しハードルが高い。
パン争奪戦の事を考え、憂鬱な気分で午前の授業を受けていたのだけど、それに追い打ちを掛けるように、四時限目の社会科の授業が珍しく五分も延長されてしまい、購買に着いた頃には大半のパンが売り切れていた。
それでも手前に有った卵サンドを手に取り、大好きなコロッケパンに手を伸ばすと、タッチの差で最後の一つを取られてしまった。仕方がないので卵サンドとジャムパンを買って校庭に向かう。この分だと、憂鬱な気分は放課後まで続くかも知れない。
(敗戦の原因は、真っ先にコロッケパンに手を出さなかった事かな?)
憂鬱な気分を引きずりながら、外履きに履き替えて校庭の端まで歩いて行く。
そこには戦前から残っていると言われる椎の木が植わっていて、その木陰でお昼を食べるのが最近の楽しみになっていた。暖かな木漏れ日の下は、心を落ち着ける事の出来る数少ない場所だった。
いつもは誰も来ないベンチに腰を下ろして溜め息をつくと、突然「水無月さん」と声を掛けられたてビックリする。入学からずっと誰も来ない場所だったので、誰かが来る事など考えてもいなかったのだ。
軽く顔をあげて前髪越しに見上げると、同じクラスの宗方君が立っていた。
「あの……、なにか?」
出席番号が続きではあるが、話したことも無い男子から声を掛けられたせいで少し戸惑いが混じり、お気に入りの場所にやって来た侵入者への警戒もあって、そんな言い方になってしまった。
けれども宗方君は気にした風も無く、「隣に座っても良いかな」と返事も待たずに一人分の間を開けて座ってしまう。
(返事を聞くつもりが無いのなら、聞く事ないじゃない。それに、ここは私のお気に入りの場所なのに)
なんて考えを口に出してしまえるほどの勇気は無く、仕方がないので別の場所に移動しようかとレジ袋の口を閉じる。すると宗方君は持っていたレジ袋の口を開いて、コロッケパンを取り出し私に見せ付けるようにする。
(買えなかった事を知っていて、見せびらかしに来たのだろうか)
そんな事を思って視線を切ると、意外な言葉が聞こえてくる。
「卵サンドと交換しない? 水無月さんコロッケパン好きでしょ」
聞き間違いかと思ったけれど、思わず振り向いてしまって目が合ってしまう。それでも答えが口から出ないでいると、ニコッと笑ってパンをさらに突き出してくる。
「さっき買い損ねていたし、毎日コロッケパンを食べていた様だからさ。僕は好きな物を他にも買えたから、良かったら交換しないかなって」
「どうして、知っているの?」
私は毎朝、空のランチバッグを持って家を出て、買ったパンをレジで入れてもらって椎の木の下に来ていた。ただレジ袋を無駄にしたくなかっただけだけれど、だからこそ私がコロッケパンを食べている事を、他の誰も知るはずがないのだ。
いや、もしかすると気付いていなかっただけで、毎朝パン屋さんで会っていたのかもしれない。それとも、からかう為にストーカーでもしていたのだろうか。そんな思いが表情に出てしまっていたのだろう、彼が慌てたように言い訳を口にする。
「あ、気を悪くしたらごめんね。僕は部室で食べることが多くて、部室からだと椎の木の下が良く見えるんだよ。だから、いつも来ている事を知っていたし、コロッケパンを食べているのも見ていたんだ」
確かに部室棟はすぐそこに在るから、窓を開ければ見えるとは理解できるけど、部室でお昼を食べている彼が、今日に限ってここに来たのは何故なのかが分らない。
「あの。もしかして僕の事を知らない、とか?」
「宗方君が同じクラスなのは知っている。けど、そこまでしてくれる理由が解らないので」
「いや、君に興味が有るからなんて言うと軟派に聞こえてしまうよね。えっと、目の事を聞いていたんで、その事で少し話をしたいと前から思っていたんだ」
ちょっと照れたような表情でそんな事を言い出した彼の本心が、全く解らなくて戸惑ってしまって口調が強くなる。
「聞いている通りよ。色は判らないわ。解ったら私にかまわないで」
そう言い切って顔を背けると彼が立ち上がる気配がして、膝の上に何かを置かれてビックリする。下を向いて確認する間に、彼は早足で立ち去ってしまった。
「ちょ、ちょっと」
置き去られたコロッケパンを返そうと思って声を出したけれど、宗方君は振り向きも立ち止まりもしなかった。
(どうしよう、これ)
結局はコロッケパンには手を付ける事ができず、自分で買ったパンを完食する。
食事を済ませて教室に戻ったものの、クラスメイトがいる所で返すのは宗方君に迷惑を掛けそうで、迷っている内に放課後になってしまった。
ホームルームが終わって教室を出て行く人の流れに宗方君を見つけ、後を付ける様に彼を追って慌てて教室を出る。
宗方君は私に気付く事も無く、真っ直ぐに部室棟に向かって一階の角部屋へと入って行った。その前に立つと扉には【写真部】のプレートが付けられていて、中から複数人の声が聞こえてきた。
「遅かったな宗方。お前、昼飯の時に不思議ちゃんをナンパしたって?」
「それで玉砕だって?」
「根暗の女子にも避けられるオタクの宗方って、どんだけなんだろうねぇ」
「ほっといてくださいよ。ナンパとか告白とかじゃなくって、クラスメイトに話を聞きたかっただけです。まぁ、一人の時を見計らって警戒されたのは確かですけどね」
お昼のアレを誰かが見ていた様で、宗方君がからかわれている。そう言えば部室から見えると言ってなかっただろうか。だったら尚更、あのタイミングで私に声など掛けなければよかったのだ。
嫌な思いでいるはずなのに、ここで私が出て行ったら余計に拗れるだろう事も想像できた。しかたが無いのでパンに手紙を添えてレジ袋に入れ、ノブに引掛けると少し強めに扉をノックしてその場を離れた。
建物の角を曲がって様子を見ると、宗方君が顔を出してキョロキョロした後、パンに気付いて袋ごと持って部室に引っ込むのが見える。他の人が出なくて良かったと思ったけど、宗方君には更に嫌な思いをさせてしまっただろう。
『パンは受け取れません。私に近づくと、今みたいに嫌な思いをする事になります。だから、ごめんなさい』
手紙にそう書いたので、もう声をかけてくることは無いと思う。私の態度も厚意を無にした事も、きつい言い方も全てひっくるめての「ごめんなさい」だった。