第9話 領地にて
すみません、「対F」という単語が「化物退治」に変更されています。読みにくいかもしれませんが、ご容赦ください。
葵は、後方で鳴り響き始めた銃声に、びくりと肩を震わせた。
黒江が戦いを始めたのだ。あの数の屍人たちを相手に、警棒を持たず、銃一丁だけで。
大丈夫だろうか。葵は黒江の身を案じた。
黒江はただの拳銃一つで、何十もの化物と戦っている。現実的な問題として、それはどう考えても、不利すぎる戦いだった。
第一に、黒江は射撃があまり得意では無い。
射撃訓練でも、的への命中率は五割ほどだった。なぜだか黒江は、動体射撃の方が得意だったが、しかし、実戦で百パーセント命中させることが、いくらなんでも出来るはずがない。
弾切れの危険性が大きいというのに、この条件では無理もいいところだ。
第二に、あの拳銃は隙が大きすぎる。
リボルバー型拳銃の弱点は、自動拳銃と違って、一回一回弾倉を外して、弾を込めなければならないことだ。
つまり、リロードに時間がかかる。それも、そのリロードは六発ごとに必ず行わなければならない。数十の敵が、遅い動きとはいえ、絶え間なく襲いかかってくる中でだ。
自殺行為なんてものじゃない。まるっきり、自殺そのものだ——しかし。
『俺を、信じてくれ』
今ここだけでいいからと、黒江は前置きしてそう言った。今だけで構わないから、自分のことを信用して、身を預けてくれと。
そして、その結果黒江の考えたことは上手くいったのだ。寸分の失敗もなく、おそらくは彼の思い通りに、完璧な結果を生み出した。
黒江には力がある。彼自身の強い意志で思い描いたことを、彼自身の強い意志で実現し得る力を持っている。
それは筋力でもなく、走力でも、腕力でも、脚力でも、聴力でも、視力でも、まして精神力でもない。
自分が何をしたいのか、明確に思い描く力だ。
自分が何を望んでいるのか。これから何をしたいのか。それがはっきりと分かる人間は、強い。
(それは……私には、無い力だけど)
黒江は言った。「俺は人間だから、化け物を倒さなきゃいけない」と。
あの時点での彼の望みは、「人間として化け物と戦いたい」ことだった。
そして、黒江は今戦っている。人間として、化け物と戦っている。
葵のところに、屍人が到達しないように。役割を背負って戦っている。自分の望みが叶う形で。
(あの場限りじゃなくて——)
そう願ったのなら。そう願って、自分が望んで戦っているのなら、黒江は負けないのだろう。
理屈ではなく。彼は、自分の願いの中で負けない強さを持っている。
(もう少しの間、信じます。まだ、あなたのことを信じます。あなたはきっと、この階段を死守してくれるって)
「今だけで」という、黒江自身に設定された信用の期間を、葵が「この戦いの間」に更新する。
「彼を信じれるなら、私もきっと戦える」。
葵は、今ひょっとすると、人生で初めて自分の願いを決めたのかもしれなかった。
「黒江を信じて、一緒に戦う」。それが、それこそが、今の自分の思いなのだと自覚して——決意し。
そうして、葵は地下二階に降り立った。
(暗い……)
この階は、まだ明かりの残っていた地下一階とは違った。一つの明かりも残らず、全て電力の供給が途切れている。
老朽化の問題もあるのだろうが、しかしこれはおそらく人為的なものだ。昨日まで、曲がりなりにもきちんと使われていた駐輪場が、この日この時に突然使えなくなるなんて偶然はありはしない。
——つまり。
(いるって、こと……ですよね。黒江さんの言う、『吸血鬼』が)
この暗闇の中に、何かがいる。
それはおそらく、何かの手段を使って葵たちをおびき寄せた者で。
それはおそらく、あの屍人たちを生み出し、操っている者で。
そしてそれはおそらく——双葉を連れ去ったものだ。
この暗闇の中に、敵がいる。葵は頬を伝う冷汗の感触に唾を飲み、そして腰元から拳銃を取り出し、両手で構えた。
——そして。その化け物は、なんの前触れも、前置きさえも無しに現れる。
「ようこそ、お嬢さん?」
「——っ、!」
闇の中から、それは突然語りかけてきた。しかしそれ以外にはわからない。何が話しているのか、だから話しているのかさえも。
それが、この闇の中で話されていることだけは、葵にもわかった。
「ようこそお嬢さん——この俺の、小さな領地に」
「だ——誰、ですか!」
咄嗟に葵は叫んだ——気弱な性格などを覆す勢いで、大声を出した。そうしなければ、強い誘惑に持っていかれそうだったからだ。
この囁き声に、なぜだか惹かれる。強く意識を引っ張られている感覚がある。
それは人の声だった。優しく、魅惑するように語りかける声だった。
それは——男の、囁くような声だ。
ざわざわと。そして、それは闇の中の全てから聞こえ始めた。
「怖がることはない。ここに貴様の仲間も寝ているんだ」
闇の中の、全ての方向から同じ声が聞こえる。
「ここには俺しかいない」
どこからでも。それは、遠くから叫ばれているようにも、耳元で囁かれているようにも聞こえる。
「俺と」
「ここで寝ている貴様の仲間と貴様だけしかいない」
「怖がることはない。恐れることはない」
「屍人などここにはいない」
「ここには俺一人だ。貴様の敵は俺一人だけ——」
そこで。その声が、そこで一旦途切れたその瞬間だった——眼前の景色の四隅に、巨大な炎が灯ったのは。
葵の目を、突然に増大した光量が襲う。闇に包まれていたはずの空間は、すでに妖しく火が揺れる化け物の空間になっていた。
「——ぁ、」
目の前の、あまりに現実離れした現実に、葵は掠れた声を漏らす。
そこに人はいなかった。人——というか、「人の形をしたもの」は。
ただしそこに、無数のそれは蠢いていた。無数の黒い、キィキィと鳴き声を上げながら、その羽を空気に叩きつける。
黒く蠢く、その一つ一つは、群れとなって空間を覆い尽くしていた。四つの炎の周りを、耳障りな音を奏でて飛び回るそれ——黒い、数千の蝙蝠が。
蝙蝠。吸血蝙蝠——その、赤く光る瞳が、ここが化け物の空間なのだと物語っている。
「ようこそ——」
声が聞こえた。すぐ近くで。
そして、いつのまにか蝙蝠たちが自分の目の前で、竜巻のように渦巻いて飛び回っていることに葵は気付く。
「我が領地へ!」
叫ぶように、演説をするような口調で、それがそう言って——その直後。
葵の目の前で、その蝙蝠たちが姿を変えた。
人の姿に。無数の蝙蝠は、人の姿をした怪物に——正しい形の、吸血鬼へと姿を変えた。
「っ——!」
「——まあ待てよ」
葵は咄嗟に、条件反射のように銃の引き金に指をかけた。引き金を引こうとした。
目の前の恐ろしい化け物を、一刻も早く殺そうと——しかし。
葵は、そもそも自分が、銃など握っていないことに気づく。
「え——」
「——こんなものは捨てておけ」
葵は目を見張る。今の今まで自分の手で、発砲寸前という状態で保っていた拳銃は、いつのまにか目の前の男の手に握られている。奪われていた。
(いつ、のまに……?)
驚きを隠すこともできずに、葵は目の前に立っている「もの」を見上げた。
目の前で、葵を見下ろし嗤っているのは、真っ黒のコートに身を包んだ長身の男だった。ボサボサに伸びた髪と、手入れなされていない口髭は、浮浪者のようでもある。
蝙蝠のような男だ。蝙蝠が集まって姿を現した、蝙蝠のように妖しく、卑しい男。そしてその男の口元には、鋭く尖った牙が光っている。
「吸、血鬼……」
「そうだ小娘。俺は不死者だよ」
言って、その吸血鬼は目を細めて、口角を釣り上げた。
武器を失った葵の手は、恐怖に震えていた。恐ろしい化け物が——正真正銘の吸血鬼が、この目の前にまで迫っているというのに、自分は今、完全に無防備だ。
武器は失くした。銃は取り上げられた——なら?
(警棒を……!)
葵はその一瞬、自分の腰元にもう一本の武器が残っていることを思い出し、機敏に腕を動かした。
が、しかし。
「……あ……」
「そんな無粋なものを振るうな。小娘」
その言葉が耳に届いた時、葵は自分の腕がピクリとも動かないことに恐怖していた。
警棒を、腰から掴み上げようとして、その途中から腕がピクリとも動かない。警棒は掴んだ。だが、目の前の化物に向かって振るうことが出来ない。
そして、警棒を握っている右手には、ひやりとする感触がある。
目の前の吸血鬼は、警棒に触れないよう、葵の手首を掴んで止めていた。
「それを捨てろ小娘。俺はそれを使われると消えてしまう——」
「っ、く!」
「捨てなければ」
吸血鬼は、背筋の凍るような声で、
「俺は貴様の手首ごと、捨ててしまうぞ?」
葵はそれを聞いて、耳を疑った。
この男は、武器を捨てなければ、葵の手首を切り落とすと、平然と言ってのけたーーいや。
いや。葵は思い出す。この目の前の男は、人間ではないのだ。
化け物、なのだ。人間の敵そのものなのだ。
簡単にやる。簡単に、そんなことはやる。この男は——、
「——それで良い。良いんだよ小娘」
目の前で震えながら警棒を下に落とした葵を見て、吸血鬼はにやりと笑った。
そして、その声を聞きながら、葵は床に崩れ落ちていた。恐怖と、そして不安が、もはや葵の足に力を入れることを許していない。
「そうやって大人しくしていれば良いんだ。俺はどちらにしろ、なるべく貴様らを無傷にしておきたいんだよ。あの方のご命令だからな」
「……何、を」
「見ろよ。あれはお前の仲間だろ?あんまりにうるさいから、手荒に大人しくさせざるを得なかった」
吸血鬼はそう言いながら、くい、と親指で自分の後方を指差した。
葵はその方向に目を向ける。そこは、一際炎の明かりに照らされた一帯で、何があるのかは葵にもよく見えた。
そこには、人が倒れていた。見覚えのある銀髪のツインテール——、
「白石班長——!」
「あの女口うるさかった。やれ触るなだの、喋るなだの、な。もう敵わんから、強引に頭を殴って気絶してもらったのさ」
葵の目には、双葉の頭部からわずかに流れ出た血液が映った。彼の、化け物の腕力で殴ったということだろう。
「なんて……酷い」
葵は、目の前の男への嫌悪感を露わにした。
女性の頭を殴って気絶させるだなんて。なんて、そんな、酷いことを——と。
そこで葵は、巨大な違和感にぶち当たる。
(『酷い』……って?)
葵は、意識を失って床に倒れ伏す双葉をもう一度見る。
頭から血が出ている。頭部を強く殴られて気絶させられたのだろう。それはわかった。
分かったが。しかし、それの——それの、何が酷い?
目の前の男は化け物だ。人間の倫理など通用しない、人間の道徳の相反を歩く存在だ。
『——吸血鬼なんてもんと一緒にいたら、何されるか分かったもんじゃない!』
黒江は、通信相手のヒラタ主任にそう怒鳴っていた。
その通りだ。吸血鬼なんて化け物と一緒にいれば、何をされるか分かったものじゃない。捕まって、この地下に引きずり込まれた段階で、血を吸い尽くされていてもおかしくないはずだ。
なのに——殴って気絶させた?
(それだけ……?)
葵は再三、双葉に目を向ける。やはり、頭の傷以外には変わったところはない。服の乱れすらも大して見当たらない。
酷いって、何が?
考えてみればさっきもそうだ。この吸血鬼は、葵に武器を捨てさせたが、それ以上は今の所何もしてこない。
わざわざ、「捨てなければ手首を切り落とすぞ」とまで言って、葵の方から武器を捨てるように仕向けた。
化け物の彼が、なぜそんな事を?本当に自分の身の危険を案じていたのなら、問答無用で、首をへし折ってしまえばいいのに。
今もそうだ。目の前の吸血鬼は、にやにやと笑うだけで、丸腰の葵に何もしようとはしない。
「あ、なたは……何を」
「何を?とは?」
「ど、どうして、私たちを殺さないの。私たちは、もう武器もない……のに」
葵は黒江の言葉をを思い出す。
『吸血鬼に二人とも殺されないようにしておいてくれ』と、彼は言っていた。
葵と双葉が、助けが来るまで死なないようにしておいてくれと、彼に頼まれた。そして、葵はそれを、すでに失敗したと思っていた。
すぐに二人とも殺されてしまうと、恐れていたのに。
そして、その疑問に吸血鬼は、嬉々として答える。
「命令されているからだよ、ご主人様に。人質を取ったら、可能な限り無傷のままにしてろと」
「ご主人様……って、どういうこと」
「ふ、クフフ。貴様いいな、小娘。お前は話が通じそうだ。やっぱり女は素直なやつに限る。俺にこんなに質問をしてくれるなんて」
吸血鬼は、そう言って高らかに笑う。「クフフ」と、特徴的な笑い方だ。
しかし、葵はこの状況を悪いようには思わなかった。何しろ、今この吸血鬼は自分で、言外に「葵たちを殺すつもりはない」と断言したのだ。
少なくとも、この数分で殺されてしまうなんてことは、なさそうになってきた。ならば、黒江が言ったことも守れるかもしれない。
『二人とも殺されないようにしておいてくれ』という、その頼みは、聞けるのかもしれない。
この吸血鬼は、葵との会話を拒まない。むしろ、無力化した人質との会話を楽しんでいる節がある。
それなら、応援が来る十五分までの間くらい、時間を稼げるはずだ。
(黒江さんの助けは……多分、来ない)
黒江自身が、ここに降りて助けに来てくれる可能性は、おそらくゼロだ。
射撃の得意ではない黒江が、四十八の弾を切らさずに三十以上の屍人を全て倒せるとは思えない。
例え弾切れになったとしても、そこで彼は、自らの拳だけで残った屍人を殴り続けそうなものだが——それに関しては、黒江が屍人に負けて殺されはしないだろうということだけは、心から信じているが。
しかし、彼が屍人を全て打ち倒し、ここに駆けつけてくれることを期待してはいけない。
時間を稼がなければ。応援が来るまでの間、せめて。葵は、そう覚悟を決めた。
——そして、葵の思惑通りに、吸血鬼は自ら楽しんで、会話を続ける。
「お嬢さん、処女か?」
「……なっ!な、な、何を……⁉︎」
「処女だな。その反応は」
本当に会話を楽しんでる、この化け物。葵は、素直な屈辱に顔を赤くした。
「さっきの女も多分処女だろう。出来るなら俺は、貴様らの血を吸ってしまいたいさ。処女の血は美味いからな」
「っ……、な、なら……どうして、そうしないんですか」
動揺は隠しきれていないものの、葵はなんとか頭を冷静に戻し、会話を取り繋ぐ。これがこの場の命綱だ。
「言ったろ。命令なんだ、人質を殺すなと。可能なら、無傷で人質をとれとな。あの方から——ー
「無傷で……って。でも……兼村さんは、屍人に怪我を負わされて……」
「ああ。失敗したな、それは」
そう言って、吸血鬼は表情を苦々しいものにし、
「やっぱり屍人なんて使うんじゃなかった。あいつら頭は悪いし、命令もろくに聞けない木偶の坊ばかりだ」
「……どういう、ことですか?」
「俺が最初に、あの口うるさい女を攫ったろう。その後も、本当なら暗闇と屍人どもを使って貴様らを混乱させ、一気に攫ってしまうつもりだったんだよ」
吸血鬼の口は、信じられないほどに饒舌だった。喋るのが好きなのだろうか。
そもそも、化物に「喋り好き」だとか、そんな性質が存在するのだろうか、疑問ではあったが。
そんな葵の疑問は置いてきぼりに、なおのこと吸血鬼は喋り続けた。
「それがまあ、屍人の使えないことと言ったら。結局小娘の一人に傷を負わせるわ、しかもあれだけの数で取り囲んでおきながら、貴様らには逃げられた」
吸血鬼は心から忌々しそうに、
「貴様らが地上に出てしまった時には本当にどうしようかと思ったよ。何しろ、まだ微かに日の光が残ってる。俺は外には出れない」
「日の光……って。吸血鬼は、確か」
「日に当たると死んでしまうからなあ。それがまさか、お前らの方から戻って来てくれるとは」
つまり、その話を聞く限りは、黒江の予想はいくらか外れていたのだ。
あのまま十五分外で応援を待っていても、双葉が特に何をされるというわけでは無かったのだろう。それを悪いように考え、わざわざ化け物の巣食う死地に舞い降りて来てしまったのは、黒江のミスだ。
「ク、フフ……あの小僧を恨んでいるか、なあ小娘。ここに降りてこようと言ったのは、あの小僧だったからなあ」
「……なん、ですって?」
「そうだろう。知っているさ、そんなことは」
葵の頭は混乱に支配されていた。
確かに、地下にもう一度戻ることをを言い出したのは黒江だ。それは間違いない。
だが、あの会話は日の当たる場所で行われていたのだ。
太陽の光を恐れ、地下で頭を抱えていたはずのこの化け物が、それを知るはずがない。
しかし、吸血鬼は葵が尋ねるまでもなく、上機嫌に説明を始める。
「俺はさっき見せたように、体を蝙蝠に変えられるんだよ。そしてその一匹一匹が俺の目であり耳でもあるんだ)
「あの……蝙蝠が、あなたの目——?」
「その一匹を、屋根に隠れてぎりぎり太陽の光が届かないところまで遣わしていた。地上に逃れた貴様らがどうするのか、とりあえず観察するためにな」
それが本当なら、あの黒江と葵の言い合いを見ている時、さぞこの吸血鬼は興奮していたものだろう。
趣味の悪いものだと、葵はあからさまに、嫌悪の目で吸血鬼を見た。
それに気付き、吸血鬼は「ふん」と鼻で笑う。
「別に悪趣味なのは俺ばかりではない。貴様だって、あの小僧が今どうやって戦っているのか、気にならんはずがなかろう」
「……え?」
「俺は今すぐにでも、上で小僧と屍人がどう戦っているのか見れるんだよ。そら、蝙蝠を一匹遣わそう」
吸血鬼がそう言うと、突然その肩の一部分がもごもごと蠢き始めた。葵はその不気味な様子に、眉をひそめる。
しかし、そんな目線を気にもとめず、吸血鬼はさらに自身の肉体を変化させる。蠢いていた肩は、やがて盛り上がり、一匹の蝙蝠の形を作り出した。
そして、そうして吸血鬼の体から離れた蝙蝠は、葵が降りて来た階段の上へ飛んで行った。
「どうせだ。屍人たちには、前にも増して小僧を殺さないように厳命した。あの小僧が捕まるまでの攻防を見物しよう」
そう言って、吸血鬼は片目を瞑り、その上に左手を添えた。
葵はというと、少しの安心と、そして不安が入り混じったような精神状態だった。
黒江を、少なくとも屍人たちの主人であるこの吸血鬼は、殺そうと思っていないらしい安心。
そして、その上でも、やはり屍人の制御は完全ではないのだ。主人の命令を守らずに、いつ黒江を殺そうとするか分かったものではない。
少しの安心と、変わらない不安。しかしその二つは、目の前の吸血鬼が「蝙蝠」を使った実況を開始した時点で、どちらかに完全に傾くはずだ。
葵の後ろから、絶え間ない銃声が鳴り響いている。戦いはまだ続いている——そして。
その戦いを唯一傍観できるその吸血鬼は、少し間をおいて、呟くように言った。
「……人間か?」
「え……?」
「あの小僧、本当に人間ごときか?あれが人間ごときの動きなのか?」
そうやって早口にまくし立てる吸血鬼は、さっきまでの笑みをもう浮かべていない。歯と歯を合わせ、その目は信じられないものを見る目だ。
葵は、その目の先に何が映っているのか知ることはできない——ただ。
ただ、感情は不安の方向へ傾いた。
「何が……上で何が、起きてるんですか?」
「あの小僧が——思ったよりも善戦しているように見えるな……、くそ、動きが早くて、蝙蝠じゃ——ん、何だ⁉︎」
突然、吸血鬼が今までに聞かなかった驚きの声を出す。その様子に、敵であるはずのその男が動揺する姿に、葵は共感して焦りを感じた。
「な、にが……あなたは何を⁉︎」
何が、上で起こっているのか。黒江の周りで何が起こっているのか?
葵は、不安を叫んだ。
「——俺の蝙蝠が殺された。何かに叩き潰された、ような——、⁉︎」
「——っ、!」
吸血鬼の言葉がそこで途切れる。葵はそれと同時に、肩を震わせる。
そこで鳴り響いたのは、今までの銃声よりも一回り大きい爆音だった。なぜ同じ銃を使って、ここまで違う銃声が出るのだろう、と葵は一瞬思案するが、すぐにあることに気付いて首を振った。
今まで喧しく鳴り響いていた、戦いの音が——足音が、掛け声が、呻き声が、死体が倒れる音が——消えた。
雑音が消えている。その、雑音の消えたその段階での最後の銃声だったから、あれだけ嫌に大きく聞こえたのだ。
——そして、足音が響く。
「……!」
こつこつと、ゆっくり階段を降りてくる、その足音が聞こえる。
それは、今の今まであんな激しい物音を演じていた張本人とは思えないほどに、静かで落ち着いた足音だった。
こつこつと、一定のリズムで鳴る。ただ一人の足音が——、
「終わったぞ、こっちは」
彼が、喋った。
葵はその声に耳を傾け、そして心を溶かすような安堵と、信じられないという驚愕に同時に支配された。
信じられない——どうやって。
「——ふん」
吸血鬼が、彼を見据えて鼻を鳴らす。
見ると、葵が落とした警棒と銃を、両手で粉々に砕いているところだった。
それらの武器を使えなくしたいのだろう。実際のところ、化物である吸血鬼にとって、その二つの武器は驚異のままだ。戦意のある敵が現れた時点で、その二つは驚異に戻った。
「武器は無くなっちまったのか——それをアテにしてたのに」
彼は——黒江は。不敵に、そしてどこか不機嫌そうに笑いながら、そう言った。
そして、その声を聞いて、葵は安堵を全て押し出して、声を出す。
「黒江さん……!」
「小村……無事で良かった。班長も、今のところは——無事だよな?」
遠目に、部屋の奥に倒れている双葉の姿を確認しながら、黒江はそう聞く。確かに彼の目からは、ただ気を失っているだけなのか、不安は感じるだろう。
「無事です。今のところは……」
「そうか、なら良かった。これで、ヒラタ主任にも面目が保てるな」
そう言いながら、黒江は自分の手に持っていた拳銃を、脇に投げ捨てた。物理法則に従い、それはからから、と音を立てて転がっていく。
「もう弾は切れちまったよ。結構ギリギリだったな……」
そう言いながら、黒江は手をはたき、そしてまっすぐ前へ視線を向ける。そこには、いつの間に移動したのか、あの吸血鬼が立っていた。
「——小僧!ここにいた屍人どもをどうした?」
吸血鬼が、声を上げてそう尋ねる。蝙蝠が殺されてしまったので、彼自身も、黒江の戦いの顛末は確認できていないのだ。
しかし、その尋ねた声には、嘲笑のようなものが含まれているように葵は感じた。
弾切れの銃を投げ捨てた、その様を見て。まるで、お前はあんな薄汚い屍たちのために、武器を失くしてしまったのかと——そんな風に、葵には感じられた。
しかし、それは間違いだ。
吸血鬼のその声に含まれているのは、自分を殺し得るかもしれないという、目の前の人間の小僧への敬意だった。蝙蝠の目を通して一瞬見えた、あの小僧ならば、もしかすると吸血鬼をも殺し得るのでは無いかという——畏敬。
「始末した」
そして黒江は、なんでもないかのように、一言で答えてみせた。
葵の心の中は、それを聞いて疑問符で埋め尽くされる。葵は、黒江はきっと全ての屍人を、殺し切ることは出来ないだろうと予測していたのだから当然だ。
葵の考えの範疇では。
彼がここに立っていることは、あり得ないことだ。
「どうやって……どうやって、あんな数の屍人を……?」
疑問は、気付くと口をついて出ていた。
黒江はそれを聞き、「そんなに難しいことは考えなかったよ」、と前置きし、
「出来れば一発も弾を無駄にしたくなかったからな——全部の屍人の頭に、直接銃口突きつけて、ゼロ距離で撃ちまくってた」
「——っ⁉︎」
葵はその答えを聞き、驚きに目を見張る。
簡単に言ってみせたが、黒江が説明したことを実際にやってのけるには、屍人の群れに単身飛び込まなければならない。
飛び込んだ上で、四方八方から雪崩れ込む屍人の頭に、一々銃口を突きつける——一切の逃げが無い、一歩間違えずとも勝手に道が崩れていくような、そんな行為。
しかも、黒江は六発ごとに手動のリロードをしなければならないのだ。
屍人の群れにそのまま入り込んだ状態で、等間隔おきにそんな隙を生み出さざるを得ないことが、どれだけ阿呆らしいことなのか——仮にそんな状態に自ら身を置く人間がいたなら、狂っていると言っても遜色ないだろう。
殿だとか、防衛戦だとか、そういうことではない桁違いの危険度だ。それを実行するのに、どれだけの身体能力が必要になることか。
「——人間業じゃあ、無いな」
葵のその率直な感想は、吸血鬼が代弁した。
「人間業じゃない。相当に疲れただろう。満身創痍じゃないのか、え?小僧」
「そうでもないさ」
黒江は言いながら、一歩前に足を踏み出した。
「飛んだ雑魚どもだったよ。楽しむ間もありゃしない——お前は違うんだろうな?」
不敵に——例えそれが、ただの挑発なのだとしても、あまりにも傲岸不遜な言葉を、さも当然というように黒江は言い放った。
それを聞き、吸血鬼は笑いを漏らす。
「楽しむ?」
そう聞き返し、
「楽しむ、か。ク、フフフ、クハハハッ!こいつは傑作だ。たかだか人間の小僧が、天下の吸血鬼相手に楽しむだと⁉︎」
そうして、吸血鬼は声高に笑った。
嗤った。嘲笑した。今度こそ、十割の見下しを以って、目の前の人間の小僧を嘲笑した。百パーセントの見下しで、高笑いした。
自由のない、ただの化物は。そうして、人間の小僧を嘲笑った。
「武器はない!生きて帰れる保証もないんだぞ!」
吸血鬼は、指をさして笑いながらそう叫ぶ。
葵は嘘だ、と思った。さっきこの吸血鬼は、なるべくなら黒江を含めた全員を無傷にしておきたいと言っていたはずだ。
これは嘘だ。「生きて帰れる」保証は、確かに無いが、しかしこの吸血鬼は、今すぐ黒江を殺そうとはしないはずだ——と。
しかし、葵がそれを口にする前に、吸血鬼はさらに言葉を続けた。
「頼もしい味方たちは、ここで役立たずの人形と化しているぞ?」
その言葉は。
次の言葉を口にする前に、葵の心を掻き乱した。
役立たずの人形という言葉は——葵の、心に。心の上に、ずしんとのしかかる。
役立たずなのだ、と。黒江にとって確かに、今の自分は足手まといでしかないはずだ。
任されたのに。任されて、二手に分かれて、私はここに来たのに。黒江は、屍人を全て倒してきたというのに、と——そして。
そして、黒江はそれを肯定する。対して表情を変えることもなく、葵の方をちらりと見て、
「んなことは……見りゃわかるが」
「——、ぁ……」
葵は、容赦なく聞かされたその言葉に、唇を噛んだ。
当然の言葉だ。浴びせられて当然だった、言葉だ。
葵はこの様なのだから、役立たずなのだと、はっきりとなじられても仕方のない状況なのだ、今は。
そんなことは、分かっていた。分かっていた、のに、黒江本人の口から、それを示されることが——こんなにも辛いとは、思わなかった。
「けどな、勘違いをするなよ」
——そして。
黒江の放つ言葉は、それでも、また葵を救い上げる。
「俺は小村に『生きていてくれ』って頼んだんだ。化物なんか相手にしろって言ってない。班長と一緒に、きちんと殺されないでおいてくれって頼んだ」
その言葉に、その言葉の中の単語が意味する一つ一つに、葵は目を見開いた。
「小村は頼みごとをちゃんと聞いてくれた。そもそも俺は、小村に頼もしく化物どもをなぎ倒す事なんか求めてねえよ」
黒江はそこで言葉を切り、そして目の前の吸血鬼を睨んだ。
「無事でいてくれりゃ、それで良い」
それだけで十分だ——と。
そんな出来すぎたセリフを、黒江はさらりと言ってみせた。
それを聞いた葵は、黒江の言葉の、その一つ一つに温められた涙が、零れ落ちそうになるのを、止めようとしていた——単純な話ではあるが。
出来過ぎなセリフに、出来すぎた感涙を覚えたというだけの、単純な話で。
「——ふん」
その単純な話は、化け物にとってはなんの感動にも値しないものだった。
人間たちの想いをよそに、吸血鬼はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「なら小僧、なぜお前は俺に向かってくる?見栄か?くだらない誇りか?」
「……誇りだ?何言ってやがる」
今度は、黒江が聞き返した。
それも、まるっきり的外れな答えを侮蔑するようにだ。その態度に、吸血鬼は怪訝な顔をした。
「違うのか小僧?貴様ら人間というのは、無辜の民の為に戦う自分らの姿に酔うものだろう」
「いつの時代の騎士様話だよ、それは。俺は別に、『化物退治』って仕事に誇りなんか持ってねえよ」
黒江は言いながら、不機嫌そうに首を振って、
「覚えておけよ化け物。人間ってのは化物の存在を認めない。そこに理由なんか必要ないんだ。『人間に嫌われて、認められない』奴らを化け物って呼ぶんだからな」
人間は、必ず化け物を倒そうとする。化け物の存在を認めない。
化け物は、人の手で倒されなければならない。人間が化け物を倒すから、化け物の存在には意味があるのだ。
「俺は人々を守る為なんて理由でこの仕事をやってねえよ。ただ、お前ら化け物を俺が倒すためにだ。理由があるんならそれだけだ——」
そこまで言って、黒江は明確な敵意を以って、目の前の化物を見定めた。次の瞬間には、もう目の前の化物と戦えるように、体に力を入れる。
「——話が済んだらさっさと死ね、糞化物が」
その言葉が、宣戦布告となる。化物と人間は、次の瞬間、もう元いた場所から、相手の方へ、全速力で足を進めていた。
そうして、一匹の吸血鬼と、「化物退治」は、拳を交える。この夜最後の戦いが幕を上げた。