第8話 屍人たちの踊り
自分の顔面に突如降りかかった、その液体の感触に、黒江は逆に正気を取り戻した。
生暖かい、液体だ。暖かく、人の生が感じられる。それは、赤く燃える生命の鼓動そのものだった。
「——!」
その感触に、焦燥に陥っていた黒江の意識が浮上する。
生命の鼓動に。その生命の鼓動を、取りこぼした者がいることに。
「っ、ぁ、ああああぁぁ⁉︎」
その黒江の耳に、つんざくような叫び声が届く。悲鳴と呼ぶには、悲しい鳴き声というには、あまりにも荒々しく、生存本能の根源の含まれた叫びが。
そちらに目をやると、兼村が腕から大量の血を落とし、激痛に泣いているところだった。
「かに——」
「あぁ、あ、ああぁぁっ!私の、私の手がぁ……⁉︎」
「っ、兼村!落ち着け‼︎」
見てみると、兼村の左腕はもはや、肩ときちんと繋がってはいなかった。千切れてはいないものの、二の腕の肉はぐちゃぐちゃに乱れ、その頼りないつなぎ目だけに支えられた腕は今にも落ちそうだ。
ぶらぶらと。そして、その隙間から、驚くほどに煌めく赤い血が噴出している。
「くそ……なんだ⁉︎何をされたんだ⁉︎」
兼村の左腕は、見るも無残に、まるで無理矢理に引きちぎった紙のように、ボロボロとした形に壊れている。いったいどんな力で何をすれば、あんな傷が付くのか見当もつかない。
だが、今はそんな考察をしている場合ではない。現在進行形で、兼村には大量のゾンビが群がろうとしていた。
普通ならば、逃げるなり防ぐならできるのだろうが、今の兼村は激痛に正気を奪われている。
誰かが助けなければならない。それを理解した黒江の行動は早かった。
「クソ化け物どもが——そこを退け‼︎」
叫びながら、黒江は迷いなく腰から拳銃を取り出し、真上に向けて引き金を引いた。迷わずに、最後の手段を使用した。
銃弾が天井にぶつかり、爆音を奏でる。その銃声に気を取られ、ゾンビたちは一瞬動きを止めた。
そして、黒江はその隙を見逃さない。
呻き声を上げ、群れを成したゾンビたちは、しかし動きを止めている。その一瞬で、黒江は強引に、兼村の無事な右腕の方を引っ張り、最も危険な地帯から辛うじて救出した。
「っ、はあ!」
そうして黒江は、兼村を葵が立ち尽くしている場所まで引っ張り下げた。
しかし安心することは全く出来ない。「最も危険な地帯」は脱しても、目の前には、数メートル先には何十匹ものゾンビが蠢いている。
迷っている暇はない。黒江は後ろを振り向いた。そこには、地上への出口がある。
「くっそ……落ちるなよ兼村。小村!」
「え、あ……は、はい!」
「逃げるぞ!早く来い!」
そう言いながら、黒江は未だに痛みに喘ぐ兼村を、自分の背中におぶった。
そして、恐怖で表情を歪ませたままの葵の手を掴み、全速力で走り出した。
「く、黒江さっ……!」
「喋んな、走れ!」
幸いにも、後ろはゾンビどもに塞がれてはいない。黒江は足に入れた力を緩めず、階段を駆け上がる。
後ろに背負った怪我人への配慮も、無理やり手を引いた葵への配慮も、そんなものを考えている暇はなかったが、黒江たちは一応は、無事に地上へ逃れた。
「はっ、はあ……くそ……」
息を切らしながら、黒江はおぶったままの兼村を、ゆっくりと地面に降ろす。
下は芝生だが、その緑色は、すぐに赤黒く染められていった。明らかに血が出過ぎている。
黒江は焦って、通信中のままの無線機に呼びかけた。
「ヒラタ主任!聞いてますか⁉︎」
『さっきから聞いてる!いったい何があったんだ、黒江くん⁉︎』
「白石班長が消えました。それに、兼村が怪我を……左腕が千切れそうになってて、くそ!どういうことなんです⁉︎話が違う‼︎」
未だに心を満たし続けている焦燥に支配されるまま、黒江は叫ぶ。
「ここにいるのは、雑魚みたいな幽霊一匹じゃなかったんですか⁉︎」
『落ち着いてくれ黒江くん。地下にはいったい何がいたんだ?』
「ゾンビ、ですよ‼︎腐った死体が大量に歩いてた!」
『ゾンビ……?だって?どういうことだ、そりゃあ……』
通信に耳を傾けながら、黒江は今もどんどん生命の源を外に流し続けている兼村を見下ろす。
ともかく、血を止めなければならない。こんな場所では応急処置も満足に出来ないが、止血だけはしなければ。
黒江は少し逡巡し、それから自分の制服の右腕部分の布を引きちぎった。
そして、その布を手に持ち、不安定にぶら下がっている兼村の左腕に持っていき、傷に押し当てる。
「っ、あ……」
「我慢しろ、兼村。止血しないとマジで死ぬやつだぞ、コレ」
痛みに声を漏らす兼村にそう声をかけ、黒江は慎重に、その左腕の切れ込みに布を当てがい、くるくると巻いた。
そして二周させると、腕の繋がっている側で結び、固定した。
「これで……」
『もしもし、黒江くん!聞いてるかい⁉︎』
止血がとりあえずは終わり、安堵の息を漏らす黒江の耳に、その声が届いた。
「ヒラタ主任。兼村は——とりあえず荒っぽいですけど、止血はしました」
『よし、いいぞ。とりあえず僕の方から、手の空いてる局員に応援要請を出したから、十五分もすればきちんと治療のできる設備が整う。これで兼村ちゃんは、とりあえず大丈夫だろ』
「良かった……いや。クソ、それで、俺らはどうすれば良いですか」
『白石ちゃんが消えたって言ったね?』
ヒラタ主任は、緊迫した口調のままそう聞いた。黒江は話し相手には見えないが、すぐに頷いた。
「地下に入っても、ポルターガイストなんて起こってませんでした。それで、気づいたら班長が消えていて——」
『……ふむ。そいつらが連れ去ったのか?いや、ゾンビなんて化物にはそんな知能はないはずだ』
「その。何か、目的があって連れ去られたんなら」
黒江はそこで一拍おき、
「ゾンビどもの『親』がいるはずでしょ。吸血鬼が、どこかに」
『……!そうか。吸血鬼か!』
黒江はまた頷いた。
屍人というものは、単体で自然発生することはあり得ない。
例えば映画などでは、ウイルスによって人々がゾンビ化するのが定番だ。しかしそれは、今回のケースでは違うだろう。何しろ今黒江たちが対峙しているのは「化物」だ。
「星の意思」が生み出した、「人間の恐怖の対象」を具現化することによって生じる、それで一つの概念だ。それならば、人工的なウイルスが原因ということはあり得ない——まあ、ウイルスごと再現されたというのならあり得るが、それならばこの辺り一帯がバイオハザードになっているだろう。
ならば、残る可能性で一番高いのは、「吸血鬼」という化け物だ。
吸血鬼という化け物は、人の生き血を啜る。生きた人間の首元に牙を突き立て、そのまま血を吸う、そういう化け物だ。
そして、吸血鬼に吸われた人間は、同じく化け物に姿を変える。
血を吸われた童貞は、吸血男爵に。血を吸われたのが処女ならば、女吸血鬼へと。
そういう化け物に、人間は変貌する。
そして——非童貞・非処女は、屍肉を食らう屍人へと。
「星の意思」によって生み出された化物「吸血鬼」。そして、黒江が見たのはおそらく、その吸血鬼が生み出した「出来損ない」だ。
「班長が本当に、目的を持つ何かに連れ去られたんなら、それをやった奴は少なくとも知能があるはずだし……なら、一番可能性が高いのは吸血鬼の類でしょ」
『ああ……そうだ。しかし、よくそんなことを知っていたな、黒江くん』
「……吸血鬼ってのには、少し興味があって。調べたことがあるんですよ。いや、それより班長を助けに行かないと」
黒江はそう言いながら、銃を掴んで立ち上がった。これからすぐに、双葉を探し出さなければならない——と。
そう心を決めた黒江に、ヒラタ主任が冷静な声をかける。
『待ってくれ黒江くん。君は警棒を持っていないはずだ。応援を待つべきじゃないのか?』
「っ、何を……何悠長なこと言ってるんです!」
黒江は声を荒げた。今は一刻の猶予もないかもしれないのに、この人は何を言っているんだ、と。
「応援が来るには十五分もかかるんでしょ⁉︎その間に、吸血鬼なんてもんと一緒にいて、何されるか分かったもんじゃない!」
『だが君は今、警棒を持っていない。いいか、銃があるからって君は無敵じゃないぞ。銃には弾切れってものがある』
黒江はその現実的な言葉に歯噛みした。
ヒラタ主任の言う通りだ。確認してみると、黒江は今、6×8の弾しか持っていなかった。
あの屍人たちは、見ただけでも三十匹はいたはずだ。黒江の射撃精度は完璧ではない。弾切れ前に全て殺せる保証は、どこにもないのだ。
だが、それでも。
それでも、黒江はここで足踏みをしているわけには行かない。
「……必ず殺し切ります。今ある弾で。必ず」
『……』
ヒラタ主任は、数秒の間押し黙った。黒江の言葉を聞いて、どう判断を下すべきか、逡巡しているような、そんな間だ。
しかしやがて、ふう、と息を吐くと、
『分かったよ。黒江くんの自信を信じよう』
「……!」
『なら、アドバイスだ。よく聞きなよ』
ヒラタ主任は、そう言って言葉を続けた。
『屍人は普通の化物と違って、魔力を流すだけじゃ多分殺せない。そいつらは、化物が何かの原理で操ってる人間なんだから、魔力では打ち消せないんだ』
「魔力で打ち消せない、って……それなら、どうすれば良いんですか?」
『屍人たちの体の中で、生命活動を失った人間を無理やり動かしているエネルギーがあるはずなんだ。化物のエネルギー……反魔力とでも言おうか。その集積体が』
つまり、それを破壊すれば、ゾンビは活動を停止する。黒江は、はっとして叫んだ。
「頭か!」
『ああ。ゾンビ映画の定番だけど、実際あり合わせのエネルギーで全身を操るんなら、それを置くべき場所は脳のはずだ』
頭を撃てば、ゾンビは倒せる。実に分かりやすいルールだ。
『ただ、逆に言えば頭以外に弾を当てても意味がない。もう一度聞くが、それでも行くんだね?』
「行きますよ。行くに決まってる」
『……分かった。健闘を祈ってる。無理だけはするなよ』
そう言って、ヒラタ主任は通信を切った。ここからは繋げていても意味がないと判断したらしい。
そしてその判断は、おそらく正しい。これからは激しい戦闘になる。耳に雑音が流れ込むだけで、かなり気を散らすことになってしまう。
「……よし」
「く、ろえさん……何を」
おもむろに立ち上がった黒江を見て、先ほどから恐怖の残り香に震えていた葵が、そう尋ねる。
「地下に戻るぞ。白石班長を助けなきゃだろ」
「……っ、か、兼村さんは……?」
「……置いて行く。止血はしたし、十五分もすれば応援が来るらしいから」
そう言いながら、黒江は先ほど威嚇射撃に消費してしまった一発を装填し直す。これで準備は完了だ。
黒江はそうして、六発全ての弾を込めた拳銃を握り直し、足を進めようとした。
「ま、って……待って、ください」
しかし、それを葵は呼び止めた。それは自分のための防衛だったのかは分からないが、反射的に制止の声が出ていた。
「黒江さん、は……わかってるんですか。あなたは、武器を……」
「警棒は、確かに忘れたけど……でも弾はある。足りるかわからないけど、今のところは十分なはずだ」
「それがもし無くなったら!黒江さんは——黒江さんは、死ぬんですよ⁉︎」
葵は声を張り上げる。あらん限りの感情を——多くのそれは、化け物への恐慌から押し出されたものだったが。
その、今まで聞いたことのない大声に、黒江は苦笑する。
「なあ……小村。行きたくないんならここで待っててくれ。確かに俺は、お前の命を保証できないから、お前が無理に来ることもない」
「そうじゃ、なくて……だったら、黒江さんも一緒に」
「……そりゃ駄目だ。それは駄目だ。化け物どもがこの下にいるんだから」
化け物が蠢くあの地下に、黒江は進まなければならない。
人間として。あの場に進まなければならない。
「化け物は倒さなきゃならないんだよ。俺は多分、それをしないと人間でいられないから——」
そう言って、黒江はそれから、今までに無い悲痛な眼差しを真っ直ぐ前に向けた。
「俺は人間だから——化け物を倒さないと」
葵は、ああ、と悲しげに俯いた。
黒江は、もう決意しているんだと。双葉を救出するためなのか、それとも他の思想のためなのかは——今のところ、分からなくなったが。
黒江は決意している。死ぬかもしれないことも分かって、化け物と戦うつもりでいる。
彼が、彼のような人がそうやって決意を固めてしまったんなら、もう自分の意思ごときじゃ、どうにもできないのだろう。葵はそれを、すとんと理解していた。
「……待って、ください」
「……小村、もう——」
「私も」
葵は黒江の言葉を遮って、口にした。
意思で止められないならば、せめて自分の意思で。
自分の意思が望む形で。
「私も一緒に、戦わせてください」
「————」
「私も、人間として。化物退治の、局員だから——化物を倒します」
共に待つことが出来ないのなら。それを彼が拒否するのなら。
それならば、共に戦わせて欲しい。一緒に、協力して、化け物を倒しにいくことを、許して欲しい。
「——ああ、分かった」
黒江はそう言って頷いた。その願いだけは、自分にだって保証できると、そう頷いた。
人間として、共に化け物を倒すことなら。ただの人間にだって、挑むことは出来るものだ。
——そして、その様子を兼村は、命が喪失していく感覚に耐えながら見上げていた。
*
『私を失望させるなよ』
父親は、そう言って自分を殴った。
『あなたは本当に私たちの子供なの?』
母親は、そう言って自分を睨んだ。
兼村洋子の両親は、二人ともが名門大学に勤める教師だった。学歴主義の両親だった。頭脳序列主義の、頑なな親たちだった。
彼らは繰り返して言っていた。「人の価値は頭の価値だ。頭の才能がない人間に価値なんてない」、と。
繰り返し繰り返し。幼い、まだ外を駆け回るべき年齢だった兼村にも、何度も何度も。
七歳の子供が、公園から帰ると白い目で見られた。
十歳の子供が、友達の誕生日パーティーから帰ると睨まれた。
十三歳の子供が、カラオケから帰ると頭を叩かれた。
そうして、その環境で作り上げられた「兼村洋子」という人格は、いつしか劣等感の塊と化していた。
当然のことだが、そんな家庭で育て上げられた兼村は優秀だ。ほぼ間違いなく、同年代の誰にも負けないほどに優秀だった。
しかし完璧ではなかった。必ずどこにも、自分より上の人間は、ほんの一掴み以下の数存在した。
そして、その極少数の人間を、兼村は見過ごすことが出来なかった。
探さなければ見つからないような、どこにいるとも知れない「自分よりも上」の人間を目ざとく見つけては、その人間を恨み抜いた。恨み、憎み——そしてそれは、自分に跳ね返る感情で。
他人への劣等感は、そのまま自分への侮蔑に変貌する。
いつしか兼村は、自分より優れた他人を許せなくなっていた。
そしてその度に、跳ね返ったような「自分を許せない」という感情を増大させていった。
そうした地獄のようなループの中で、月日は流れ、時間は終わりへと進んでいく。
二ヶ月前、兼村は高校受験に失敗した。
『お前には価値なんてなかった』
『あなたは失敗作』
『我が家の埃だな、お前は』
『価値のない人間は必要ない』
両親から浴びせられたその言葉に、耳を塞ぐこともできずに兼村は逃げ出した。
その頃に行われたのが、魔力適性検査だ。そこで兼村は、抜群の魔力の才能が自分に眠っていたことを知る。化物退治に入れば、かなりの優遇を受けられるほどだと。
そして、逃げた。文字通り、親の求めることから完全に逃避した。兼村はその化物退治で、自らの劣等感に始末をつけられるのだと、そう心を躍らせていた——しかし。
そこにもやはり、上はいた。
(分、かって……る)
絶え間なく脳を揺らす激痛の波の中で、兼村は思った。
(全部、私が悪い……なんて、ことは。そんなのは、分かってる——)
小村葵。そして黒江亮。化物退治に入ってからは、劣等感の対象は二人に変わった。
言い方を変えるならば、二人だけに絞られて——その二人に関してだけは、本当にどうにもできなくなってしまっていた。
最初には、小村葵に馬鹿のような嫌がらせを行った。
馬鹿で。頭の悪く、餓鬼のような、卑劣な蛮行を。
その時点でも、兼村はまた逃避を行なっていた。化物退治とは、人々を化物から守るために戦う、誇るべき場所なのだと。
自分は誇り高いんだと——その才能が自分にはあったんだと、そう逃避した。
親の思想からの逃避だった。
そうして、劣等感は虚飾と虚栄にまみれた自分自身は、今。
劣等感の対象によって、命を助けられていた。
(私、が悪いの……全部、私が)
心の中では分かっていた。分からないはずがない。
悪いのは全て自分だ。疑いの余地もなく、全て自分のせいだ。
しかし化物退治で過ごすその間に、黒江への劣等感はどうしようもないほどに増していく。言い負かされ、模擬戦で負け、それは積み重なって——、
「ご……めん、なさい」
——その感情は、化け物に壊された。
化け物が与えた、大きな傷と、その激痛のショックが、一時でも、兼村に劣等感を忘れさせた。
そして、壊れたその感情の中から漏れ出したモノは、口から言葉になって外に出ていく。
「ご、めんなさい……ごめんなさい」
二人が私を見下ろしている。
二人が、今もう一度化け物の渦中に飛び込もうとする二人が、私の言葉を聞き取って足を止めた。
二人は化け物を倒しに行き。
自分はここに倒れている——しかし、劣等感はなかった。
「ごめんって、そう言うんなら」
黒江は言った。
「ここでちゃんと生きてろ。応援が来るまで、死ぬ気で息をしてろよ」
右目から涙が零れ落ちた。
それが痛みによるものだったのか、他のものがそうさせたのかは分からない。
*
黒江と葵は、ゆっくり階段を降りていく。
地下の屍人たちの気配は、消えていない。あの屍人たちは、なぜかこの地上への出口に近付こうとはしなかったが、しかしまだ奥に大量に蠢いていることは、気配で分かった。
そうして、二人は階段を降りる。と、そこで黒江は唐突に口を開いた。
「……小村、一緒に戦うなんて口上で付いてきてもらって、こんなこと言うのは悪いんだけどさ」
「……はい?」
「二手に分かれようと思う」
「……。えっ?」
葵は、一瞬疑問符を浮かべた。
が、一瞬で黒江の言ったことの意味を呑み込み、「どういうことですか?」と聞き返す。
「俺たちがここにまた降りて来たのは、白石班長を見つけ出すためだろ。この地下一階だけだったら、二人で探してるのもアリだったんだけど……」
「じゃあ……どうして?」
「地下二階があるんだ、ここ。まっすぐ前に進んで……丁度屍人たちが群がってた辺りに、階段がある」
それを聞いて、葵は顔を青くする。
あんな大量のゾンビが守るその先に、さらに地下への階段がある。そして、双葉を攫ったのはその屍人たちを操る、おそらくは「吸血鬼」だ。
それはつまり、その先には——、
「俺は、白石班長はそこにいると思う」
「……私は、何をすれば?」
葵は、黒江の言ったことを聞いて、「二手に分かれる」というのがどういう意味なのかすでに理解していた。
つまりは、ここで屍人の相手をするか。
地下二階で、双葉を探すかだ。
「小村は班長を探して欲しい。俺は、ここの屍人を全部ぶち殺す」
「……でも、階段はその、屍人に守られているんですよね。それは、どうやって突破するんですか?」
「そりゃ大丈夫だ。考えがあるからな」
「考え……?」
葵がそう聞き返すと、黒江はにやりと笑った。そして、おもむろに葵の前に出て、膝を曲げて姿勢を低くした。
何をやっているのだろう、と葵が首を傾げると、黒江は、
「ほら。俺の背中に乗れ」
「……。…………。えっ……?」
数秒の間、葵の思考がフリーズする。
何を言ってるんだろう、この人は。というか何をしているんだろう、この人は。
葵はひょっとしたら、出会って初めて黒江に対して不信というものを感じたかもしれない。
そんな葵の心の動揺を感じたのか、黒江は慌てて弁明した。
「いや、変な目で見るな。真面目に言ってるんだよ」
「真面目にって……えっと。私をおぶって、どうするんですか……?」
「このまま奴らの中を突っ切る。階段のところまで」
至って真面目な口調で、黒江はそう言ってみせた。
あの、身の毛もよだつような屍人の群れの中に。突入すると言ったのだ。
「別にヤケクソで考えたわけじゃないからな?」
黒江はさらにそう続けて、
「あいつら、少なくとも動きは馬鹿みたいに遅い。俺一人なら、捕まることなく絶対にあそこまで行けるんだ」
「黒江さん一人ならって……いや、でも、それじゃあ私は?」
「だからおぶるんだよ。手を引くよりも確実だろ、その方が」
つまりは、黒江は葵を背に乗せて、動きを自分の一人の時と可能な限り同じにし、そのまま屍人の群れを突っ切るつもりらしい。
葵は、それを素直にうんと頷くわけにはいかなかった。いくら体制は一人の時に近いとはいえ、背中に葵という足手まといを背負っているのだ。
体重は倍近くなるし、後方への注意はより一層必要になる。
危険が大きすぎた。黒江にとっても葵にとってもだ。
——しかし。
「小村」
黒江は、まっすぐに葵の目を見て言う。
「とりあえずは、今だけでいい。俺を信じてくれ」
そうやって、そういう風に、力強く言ってみせた。強い眼差しと、強い言葉で、黒江は葵に訴える。
今だけでも。たった今この瞬間だけでも、信じてくれと。
葵には、その強い言葉に背く理由はなかった。
「分かりました——信じてます」
そう答えた。力強く、そう言って、葵もまた答える。
そして、葵は目の前で膝をつく黒江の背に、全体重を預けた。
不思議と不安定な感じはない。黒江の背中は、とても安定している。葵はしっかりと、黒江の肩から腕を回した。
それを確認し、黒江は膝に力を入れて立ち上がった。
「っし……行くぞ」
「は、はい」
前方は、まだ薄暗い。しかし、目を凝らせば、闇に蠢くたくさんの影を視認することができた。
黒江は、左手で葵の臀部を支える。その感触に葵は、くすぐったがるような声を出したが、すぐに今はそんな時ではないと思い直す。
そして黒江は、右手に持った拳銃の安全装置が外れていることを確認し、引き金に人差し指をかけた。
「……!」
不意に、さっきも明かりを取り戻したあの電球が、再度光を放った。それに照らされ、階段前にたむろしている屍人たちの姿が露わになる。
相変わらずの、おぞましい化け物たちだった。
「クソ化け物どもが——」
黒江は、吐き出すようにそう呟く。
そして次の瞬間、全速力で駆け出した。
「——退いてろ!」
階段まで、約三十メートル。
屍人たちは、自分らに向かって走ってくる「獲物」を見て、威嚇とも知れない呻き声を一斉に上げた。そして、バラバラの方向に向いていたそれぞれの頭を、黒江たちの方向へ向ける。
その様は、あまりに醜く、おぞましく——化け物じみていた。葵は、「ひっ」と声を出す。
「小村、絶対落ちるなよ——!」
その間にも、黒江は迷いなく足を進めていた。
階段まで、約十五メートル。
屍人たちは、黒江たちを餌としか思っていない。餌としか、認識できていない。そのままに、一様にぞろぞろと、ゆっくりと黒江たちに近付いていく。
その「餌」が、一体何を手にしているのか、もはや彼らは生前の判断力を失っている。
屍人の一匹が、黒江のすぐ目の前に立った。
「邪魔だ——」
黒江は迷わない。迷わずに、右手に持ったその銃を、かつて人間だったはずの化け物に突きつけた。
「——死ねよ」
刹那、銃声が地下の空間に響き渡る。そして、屍人の頭が、生の輝きを失った脳漿とともに吹っ飛んだ。
かくして屍は動くことをやめ。あるべき姿に戻る。
そして、その屍人が倒れ、床に伏すまでの僅かな時間にも、黒江は足を止めずに進み続ける。その間に、爆音に怯んだ屍人たちの隙間をすり抜ける。
階段まで、残り五メートル。
「く、黒江さん!前に!」
葵が、焦って大声を出す。
顔面のすぐ近くで、気色の悪い鳴き声を聞いた。黒江は機敏に、そこへ銃口を突きつけて引き金を引く。
それが二度、一瞬のうちに続いた。
そして——それが、二度目の銃声が響き終わる、その時に。
黒江と葵は、階段の前に立っていた。
「す……ごい」
やっとの思いで、葵はそれだけ呟く。
今までの間、まだ五秒ほどしか経っていない。その間に黒江は、三匹の屍人を倒し、そして目的地に歩を進めたのだ。
しかも、葵を背負ったままで。
「休んでる暇はねえぞ、小村」
「……!」
黒江はすぐに葵を背から下ろし、そう言った。
見ると、目の前にはまだ何十匹という屍人が蠢いている。
そうだ。まだ終わってなどいない。今は本当に、ようやく魔王城への階段に辿り着いただけだ。
「行け小村。班長を見つけて——それで、吸血鬼に、二人とも殺されないようにしておいてくれ」
「——はい!」
葵は、強く頷き、強く答えた。そして振り向き、下へと続く階段を駆け下りて行く。
それを確認し、黒江は息を吐いた。
「さあて……これで第一関門は突破だ」
思いながら、黒江は目の前にまで迫った屍人の頭に直接銃口を突きつけ、撃つ。
その屍人は倒れた。しかしまだ大量に残っている。
この階段は死守しなければならない。下にまだ屍人がいるのか、親玉の吸血鬼だけがいるのか、その吸血鬼がどれほどに強いのかも分からないが。
この大量の敵たちを、葵がいる場所に行かせるわけにはいかない。
この大量の化け物どもを、一匹残らず殺してしまわなければならない。必ず皆殺しにしてしまわなければならない。
逆に言えば。この化け物どもを、必ず殺してしまえばそれで良い。
大量に。大量の、倒されるべき、倒すべき化け物が動いている。
黒江は、不意に口角を釣り上げた——不敵に。
「——やろうぜ、思い切り」
そこには、その表情にはもう、焦燥も迷いも、仲間への心配も無い。あるのは、ただ一つの意思だった。
やろうぜ、と。やろうぜ、化け物ども。
思い切り——踊ろう。思い切り、全力で、この死体たちを哀れな死人に還してやろう。
「楽しもうぜ——せっかくのクソみたいな状況だ」
吐き出したその言葉は、確かな黒江自身の意思だった。黒江の、黒江が思うその全てを、正確に言葉として形取られたものだった。
「踊ろうや——」
口の端を歪めて、そう嘯く。
「——化物ども」
黒江は、その言葉を虚空に残して最後、自ら屍人の群れの中に飛び込んだ。