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化物退治の黒一点  作者: オセロット
第1章 化物退治の黒一点
7/28

第7話 非日常の化け物


 最初の顔合わせイベントさえ済んでしまうと、時間というものは進むのが異様に早くなる。


 黒江たち十三班は、黒江が通信機を受け取って以来、基本的には訓練のみの代わり映えのない生活を送っていた。そうなるとーー同じサイクルの繰り返しになると早いもので、今や黒江らが化物退治(フリークスハント)に入局してから一ヶ月が経とうとしている。


 五月一日。新年度の新しい毎日が、そろそろパターン化されて、慣れがダレ(・・)を呼ぶ季節だ。


「早いよな……もうそんなにか」


 そう感慨深く呟く黒江が床に腰を下ろしているのは、地下四階、「警棒」取扱訓練所ーー通称、「剣道場」である。


 フロアの広さは他と同じでかなり広い。そして、その広大な面積の全てが模擬訓練用の畳張りになっていた。

 通常は班ごとか、もしくは二名以上の個人同士が使う。模擬戦場は約五十に区分けされており、普通なら使用待ちをすることもない。


 この場所では名前の通り、化物フリークスに対抗するための基本的な武器である警棒の訓練が、白石双葉班長主導のもとで行われていた。


 といっても、双葉は特に何を教えるわけではない。ペアを組んで警棒を使った模擬戦を行い、時にはちょっとしたアドバイスを行い、そして時には黒江たち班員の相手をする。


(つっても、俺はまったく相手してもらえないけど……)


 黒江はそれを考えて、肩を落とす。

 十三班の人間関係事情は、この一ヶ月の間、まったくの進展を見せていなかった。


 双葉は相変わらず黒江を毛嫌いしているし。

 兼村はあれからずっと班内孤立状態だし。

 一切進展なしである。むしろ、悪化していないことが救いに思えてくるくらいだった。


「まあ、小村とは仲良く出来てるから、まだ良かったけど」


 そう、それがもう一つの救いだ。葵とそのまま、友好的な関係を保てているのは、黒江にとっては紛うことなき安心ポイントの一つだった。


 朝は、特に示し合わせもしないが、だいたいの場合部屋の前で待ち合わせている。食事の時は、入局二日目のことがあってからは別々だが、しかしそれ以外の場合はほとんど二人一緒に行動していた。


 はっきり言って、傍目から見るとヒラタ主任の言っていた通り、「親密な」関係にしか見えないが。しかし、黒江の感覚は少なくとも、頼れる(?)友達というところである。


 というのも、黒江は黒江で、化物退治(フリークスハント)内では孤立状態だからだ。

 「男嫌い」の双葉と、仲違い中の兼村に関してはどうしようもないが、他に関しても。


 実際、局内で黒江が気軽に話すことができるのは、葵、ヒラタ主任、それと気軽ではないものの、よく話すのは双葉くらいのもの。

 一ヶ月間基礎訓練しか行っていない現状では、先輩方とも、他の班の新入りたちとも、黒江はなんの接点も持っていなかった。


(それは……でもまあ、十三班全員に言えることか?)


 例外は、そもそも一年前から化物退治(フリークスハント)にいる双葉だけだ。他と接点がないという意味では、十三班の葵も兼村も同じことだった。


 ——と。黒江が、ここ一ヶ月のことを思い返していると、葵が歩いてきて、話しかけてくる。


「あの、黒江さん。班長が、休んでないで訓練しろって……」


「もう休憩終わりかよ……ったく。んで?次のペアは兼村か」


「はい。その、頑張ってください」


 模擬戦が一試合終わると、だいたいの場合は休憩が入る。通常は五分ほど続くのだが、双葉の機嫌が悪い時は、黒江の休憩時間は理不尽に縮められる。

 パターン化されている。まあ、縮められるとはいえ、せいぜい一分程度のものだ。そこまで不満があるわけでもない。


 ともかく、そうして休憩時間が終わると、次のペアに相手を変更し、再び模擬戦を行う。この場合は、黒江の次の相手は兼村だった。


「じゃあ、やるか……さっさと」


 黒江はそう言って立ち上がった。右手には、一ヶ月前にヒラタ主任から渡された警棒が握られている。


 休憩中ならばいざ知らず、訓練、それも模擬戦になれば、黒江も真剣になる。決して不良学生というわけでは無いので、仕事中ならば真面目にやるのだ。

 そこがヒラタ主任と違ってイケてるところだと、黒江本人は勝手に思っていたが。


 と、そうして黒江は、すぐ隣の模擬戦場へ歩く。そこにはすでに、兼村が腕を組んで待っていた。ついでに、審判役の双葉もイライラオーラを醸し出していたが。


「えっと……待たせました」


「さっさとしなさい。警棒を構えて」


 相変わらずの、非常に淡白な対応である。黒江はもはや、慣れたが。


 ちなみに、黒江たちは全員、制服のままで靴下まで脱ぎ、畳の上を歩いていた。

 畳の上は裸足で、というのはまあ一般的なマナーだが、せめて道着くらいは用意されていないのかと、黒江は最初不満に思った。が、これに関しては一応理由があるらしい。


 その理由というのが、「化物フリークスとは制服のままで戦うから」というものである。

 訓練は出来る限り実戦に近い状況で、という桜酒局長の方針から来ているらしい。が、これに関しては、実際のところ経費削減が目的なのでは、と黒江は疑っていた。


 閑話休題。


 ともかく、黒江らは全員、裸足に制服という格好で剣道場に立っていた。


(そんなことより、いい加減こいつとの関係を修復したいもんだけど……)


 目の前で、こちらを睨みながら警棒を構えている兼村を見て、黒江はそう思う。


 この一ヶ月、黒江と兼村はほとんど口をきいていない。はじめのうちは、黒江から日常的な挨拶くらいはしていたのだが、それも無意味だと、一週間もしないうちに悟った。

 兼村は本当に頑なに、黒江と、それから葵ともだが、言葉を交わそうとしなかった。


 一ヶ月でこの様である。正直言って、実戦での共闘になれば、命取りにすらなる弊害だ。


 なんでここまで拗れたんだろうな、と黒江は心の中で嘆きながら、そして兼村と対峙した。


「えーっと……準備出来ました。合図お願いします」


 黒江は位置に立つと、双葉にそう言った。


 模擬戦は、審判の合図によって開始される。といっても、勝敗の基準はかなり曖昧だ。

 基本的には、どちらかが降参するか、もしくは審判の止め(ストップ)が入るかで試合は終わる。

 何しろどちらも、硬い警棒を使って試合をする。しかも防具は無しだ。試合がヒートアップすると、怪我人が出ることも、化物退治(フリークスハント)内では多々あった。


 ルールに関しては、これまたかなり曖昧になっている。急所突きや目潰し、相手を過度に痛めつける行為などは禁止されているが、その程度だ。あとは武器である警棒を投げつけようが、最初から警棒を捨てて素手で取っ組み合おうが勝手。


 ただ、上記のルール違反と、加虐行為が確認されなければ、審判は試合を止める権限を持たない。正確に試合が終了するのは、「警棒が相手の頭部に直撃した場合」だけである。


 というのも、化物(フリークス)への共通した決定打が「頭部に魔力(マナ)を流すこと」だからだ。「対化物(フリークス)戦」の模擬戦である以上、まあ当然のルールではあった。


(まあ建前(ルールブック)上の話だけどな……実際のところ、小村や兼村の頭を殴るなんてことは出来ねえし)


 と、だいたいの局員はこの黒江のように、正しい決着のつけ方を嫌う。

 しかし、それ以外の決着に頼るなら、例えば負けを認めようとしない強情者などがいると、試合自体が迂遠なものになってしまう。そのジレンマから、はっきり言って、この訓練自体は化物退治(フリークスハント)内でも廃れつつあるものだった。


 にも関わらず、一定数の訓練者がいるのは、この訓練がもっともシンプルで、かつ対化物(フリークス)の戦闘に則しているからなのだが。


(だからって、こればっかやんなくても良いと思うが……)


 十三班では、特にこの訓練を多くやっている。その理由は、十三班の面々が、全員共通して特に高い魔力(マナ)適性を持っているからだ。


 魔力(マナ)適性が高い——つまり、「武器に魔力(マナ)を流しやすい」彼らならば、例えば警棒ならば、化物(フリークス)をそれで撫でてやるだけで、簡単に駆逐することができる。


 わざわざ銃などを使うよりも、よほど簡単にだ。そのため、ここ一ヶ月では他の訓練も並行して行われていたものの、十三班は結構な頻度でこの剣道場に通っていた。 


 今日で通算、剣道場に訪れた十五回目である。目の前の兼村と対峙するのは、二十回目。


 それだけの回数をこなして来たのだから、黒江はもうこの光景も見慣れていた。睨むようにこちらを見る兼村の顔も、それから、双葉が不機嫌そうに審判を務める様子も。


 もはや、いつものパターン(・・・・・・・・)である。


「それでは……模擬戦、始め!」


 そして、双葉の声が訓練所に響いた。

 しかし、それを合図に二人は動き出すことをしなかった。厳密には、兼村に関して言えば、それが出来なかった。


 開始を合図に突撃すれば、「また負ける」のだと、兼村には分かっていた。それはもう既に「いつものパターン」になっている。

 「負け続き」から「勝ち」を拾うのなら、何かを変えなければいけない。それは自明の理だ。


 そして、黒江は黒江で、最初から自分から攻め込むことはしなかった。

 とはいえ、攻め込むことが出来なかった、というわけではない。黒江の身体能力は、兼村よりも優れている。その気でかかれば、さっさと兼村の頭に警棒を叩き込んで、終わらせることができる。


 それをしない理由は、単純に兼村の頭をぶん殴りたくないから。それともう一つ、動く化物(フリークス)を駆逐するための訓練なのだから、なるべく相手には動いてもらわないと、訓練にならないと思っていたからだ。


(つーわけで、さっさと攻め込んで来てもらいたいんだが……今日は慎重だな、兼村のやつ)


 兼村は、性格的はともかく、愚かではない。一か八かの賭けに出るようなこともしないし、感情に任せて負け勝負に出ることもなかった。


 だからこそ、その兼村と二十回も試合をした経験が、黒江には鬱陶しくさえ思える。

 その経験のおかげで、黒江は「このままじゃ、そもそも試合が始まらない」と分かってしまっている。パターンだ。これも。


(そのパターンってのも、いい加減に変えるべきだよ——な!)


 黒江はそう心の中で叫び、前方へ踏み出した。牽制なんてあったものではない。ただの直線的な先制攻撃だ。


 黒江は兼村との勝負に、一度も負けていない。この一ヶ月、一度もだ。


 黒江は別に、幼い頃に紛争地域を渡り歩いていただとか、実は名のある剣豪の生まれ変わりだとか、そんなものではない。剣道だって中学生の必修過程止まりの、普通の十六歳の少年だ。


 今だって、警棒を片手に持って、突くようにして兼村を攻撃しようとしているだけだ。戦闘訓練なんて仰々しい呼び方をされてはいるものの、この訓練だって、やっていることは実質、子供の喧嘩と変わりはない。


 にも関わらず、黒江は一度も負けていない。葵と違い、兼村は誰かと争うことに向いていないわけでもないのに、だ。


 論理的に考えてみれば——それこそ、二人の力の差なんて、あって無いようなものなのに。経験の差なんてものは、あったものじゃ無いのに。

 兼村は黒江に、一度も勝てない。それもまた、パターンになっていた。まるでジンクスのように。


「ふッ!」


「っ、あぁ!」


 黒江が真っ直ぐに伸ばした警棒の先端を、兼村は左手で払った。

 警棒は鈍器だ。素手で対処すれば、それなりに危険である。兼村は、左手に与えられた衝撃に顔をしかめた。


 しかし、それだけだ。左手を痛みに痺れさせながら、しかし兼村は、右手に握った警棒で、真っ直ぐに黒江の頭を狙う。

 その狙いに躊躇いはない。さっさと、一発で、勝負を決めに行く——だが。


「っ、くっ⁉︎」


 今の今まで体を支えていた安定感を突如失い、兼村は前に大きくバランスを崩した。突然のことに、焦りの声を漏らしながら、かろうじて兼村は自分の足元を確認する。


 見ると、警棒を振るい、前かがみの姿勢になっていた兼村の体を支える軸になっていた右足が、黒江の左足によって払われていた。

 黒江は咄嗟に足払いをしたいたのだ。それによって、あるべきバランスを失った兼村は、前面へと倒れこむ。


(どうして——ッ)


 どうして、咄嗟にそんなことが出来る、と兼村は唇を噛んだ。


 攻撃に対処され、反撃をくらいそうになり、どうしてそんな状況で、冷静に次の行動に移れるのか。黒江だって兼村と同じ、なんの経験もないひよっこのはずなのに。


 忸怩たる思いで、兼村は自らが床へ身を傾げたことにより出来た身長差を見上げる。そして、はっとした。


「っ、く……!」


 すぐそこの位置で、黒江は警棒を振り上げている。その目が見据えているのは、兼村の頭部だ。

 力を入れているようには見えない。極力、兼村には痛みも怪我も負わせないつもりなだろう。


「ふざ、けんな……!」


「——!」


 兼村はそう叫び、自ら上半身に体重を加えて畳に倒れこむ。そして、そのまま畳の上を転がり、辛うじて窮地を脱した。

 黒江はそれを見て、一歩後ろに下がる。


 攻防がひと段落ついたのだ。試合はこれで一旦、仕切り直しになる。


 しかし、兼村はもう試合が始まった時のように、冷静ではいなかった。

 癪に触ったのだ。さっさと試合を終わらせようと、警棒を振るっておきながら、相手への配慮まできちんと頭の中で処理している、その黒江の様子が。


 そこまでに、本当に何故なのか、差が開いてしまっていることに。


(なん、で……私たちなんか、同じはずでしょ……⁉︎)


 言ってしまえば、黒江と兼村の差は、ただの才能によるものだ。

 二人とも、経験の無い十六歳の子供で。特別な生まれでもない、ただ言ってみれば、偶然でここで巡り合っただけの二人を分けているのは、その才能だけだ。


 生まれ持った才能が。この、「戦う」ということに関する、偶然生まれた時に持ち合わせた「感覚(センス)」が。


 その差が、兼村に、仕切り直しという局面での冷静さを欠かせる。


「はあぁぁ!」


「っ、なんだよ、急にやる気になって——」


 黒江は、もはや慎重も何もなく、こちらに突っ込んでくる兼村を見て、多少の動揺を心に生み出した。

 しかし、それだけだ。その動揺はやはり、差を埋めるには至らない。


 兼村はもう、ほとんど何の思慮も無しに、がむしゃらに警棒を振っているだけだ。黒江はその激しい動きに、しかし冷静に、自分の武器で対応していく。


 一度、二度、三度。兼村は不規則に警棒を振るい、黒江はそれを警棒で受け止める。

 その攻防が、短い秒数の間に、何度も続く。


 何度も。「才能の差」とは言っても、男に女のその攻防では、力のある黒江の方がまだ有利だ。兼村は、冷静さを欠いた攻撃の中で、それを理解した。

 このままでは、いずれ押し負けると。


 決定打が——必要だと。


「——ッ、ああぁぁっ!」


「……!」


 次の一手に、兼村は万力の力を込めた。何度も続いた、その不毛な、均一の攻防の次の一手に。


 防がれると分かっていながらも、例えるならばこれで撲殺してしまえるくらいの力を、警棒に込めた。そして、突然強まった衝撃をもろに受けた黒江は、体を後ろによろけさせた。


(今だ——)


 その隙を、兼村は見逃さない。黒江のよろけた隙に、全力を尽くせる体制に移行し——そして。


 両の手で警棒を握り、真上から、黒江の前頭部を狙い、迷いなく警棒を振り下ろした。


 刹那、パン!と乾いた音が響く。


「っ、な……」


 兼村は小さく、しかし驚愕というレベルの声を漏らす。


 全力を以って振ったその警棒を、黒江は左手で——素手の左手で受け止めていた。本気で、本気の力を込めたその一振りを、素手で、表情も変えずに。


 そして次の瞬間、勝敗が決する。黒江は動きを止めた兼村に、一抹の迷いなく、右手に持った警棒を突きつけた。


「ま……参っ、た」


 背筋にぞくりとしたものを感じ、冷や汗を畳の上に落としながら、兼村は押し出すようにそう言う。

 黒江が突き出した警棒の先端は、兼村の喉元寸前で、ピタリと止まっていた。


 その降参の声を聞き、黒江は強張らせていた表情を氷解させる。そして警棒を下ろし、額に僅かにかいた汗をぬぐった。


「その……お疲れ」


 さっぱりとそう言って、黒江は後ろを向き、さっさとその場から去った。なんでもない風に。何も思っていないように。


 後に残された兼村は、緊張が解け、体勢を崩して座り込む。そして、わなわなと震える左手を拳に固め、衝動的に畳に叩きつけた。






 ——と。そんな、若者たちの心理的な諸々などは知らずに、双葉はただ苛々としていた。


 相変わらず、双葉自らが監督する十三班の中の人間関係は歪なままだ。たった今も、兼村は連敗記録を更新し、拳を畳に叩きつけている。


(あの黒江は……!ほんっとうに、扱いづらい!)


 表情にはあまり出さないものの、双葉も心中は穏やかではない。

 人間関係のこともあるが、何より双葉の精神不安定剤となっているのは、やはり黒江だ。


 白石双葉は男嫌いである。それはもう、どうしようもない、説明不要の生まれ持っての性質のようなものだ。

 とはいえ、双葉は理性のある社会人。ヒラタ主任という例外はいるものの、基本的に、その厄介な性質をなんとか抑制しようとはしていた。


 なんとか抑制しようとはしているのだ。黒江にだって、本当なら、きちんと一部下、一後輩として接したい。別に彼は悪いやつじゃない。


 しかしもう、これは双葉にとっては条件反射のようなものだ。それに、あくまで双葉にとって男は「ガサツで不潔で思慮も足りない馬鹿な集団」のままでもある。


 おまけに、黒江は何故だか双葉を苛立たせる。

 本人に悪気はないのだし、実際悪意を持って何かをやることはないのだが、星の巡り合わせとでも言うか、彼は双葉の癪に触ることをいつもする。

 というか、黒江が原因で、双葉にとって癪に触る出来事が頻繁に起こる。


(そのせいで、結局毎回毎回……チッ!)


 双葉は男が嫌いだ。どうしようもなく、嫌いだ。

 その中でも特に、この化物退治(フリークスハント)の中にいる男は、みんな最悪だった。


 ——そして、何事もなくいつものように、この日の訓練予定(カリキュラム)が終わった。







 公務終了時間、午後五時。黒江たち化物退治(フリークスハント)局員に、通常の会社などと同じように用意された、労働基準法による基準時間である。


 この一日の終わりというものも、黒江はすでに、三十回と同じものを経験してきた。双葉の解散という言葉に従って、班員はそれぞれの家に帰っていく。

 黒江はいつも、双葉と兼村とは別れ、葵と共に直通エレベーターに乗り、部屋に戻る。それが形骸化した、「いつものパターン」の一つだ。


 が、しかし。今日に限って、黒江はそのパターンから外れて行動していた。いつもなら解散の十分後には部屋に戻れているものを、今は別の場所にいる。


 男性用トイレの個室の中だった。


(なんか変なもん食ったかな……?)


 黒江はそんなことを考えて、肩を落とす。


 猛烈な腹痛を体が訴え始めて、それでもなんとか訓練終了まで持ち堪えたのがつい五分ほど前の話だ。

 黒江は双葉の「今日は解散」の言葉を確認するや、全速力で駆け出した。葵には、「悪い俺ちょっとトイレ!」と、女性に対していささか配慮に欠ける一言を残した。


 そして、緊急のモノ(・・)を勢いに任せて出し切ったのが、たった今のことである。黒江はようやく治った腹痛と不快感に、安堵の息を漏らしたところだった。


(また白石班長には睨まれてた気がするけど……まあ、やっちまったもんは仕方ねえか)


 あの班長は、解散の号令を出して即トイレに走った後輩を見て、果たしてどんな感情を抱いたものか。明日また顔を合わせるのが、非常に不安になる。


 ——と。黒江が、そんな平和的とも言える悩みに肩を落としていると、プルルルル、と耳に電子音が響く。


「通信機の呼び出し(コール)……?誰だ、こんな時に」


 黒江が自分の胸ポケットを見ると、そこにある通信機が、「着信」を表すライプを点滅させている。あまりにも、なんというか、間の悪いことに文句を言いながら、黒江は着信ボタンを押した。


「もしもし?」


『あ……黒江さん。私です』


「ん?小村……?」


 通信の相手は、葵だった。ついさっき別れたばかりだが、なんだろう、と黒江は訝しむ。


「どうしたんだよ、通信機なんか使って?」


『いえ……その、班長が、すぐに再集合しろって。さっきのところにいますの』


「再集合って……ち、ちょっと待ってくれ」


 葵の話した内容の、あまりの唐突さに黒江は口ごもる。今までに再集合なんてことはなかったはずだ。要件も知らずに、「はいそうですか」と頷くには、納得出来ないことが多すぎた。


「その、何の用事なんだ?伝達ミスとかなら、後でメールで……」


『いえ、そういうのじゃないんです。私もよく分かりませんけど』


 葵はそこで言葉を切り、


『実戦への出動命令が出た……だそうです』


「実戦っ、て……は?どういうこと?」


『私もよく分からないんです。あの、とにかく、班長がイライラしてます。すごく。早めに来てもらった方がいいかも……」


 実戦という言葉の意味はともかく、葵のその言葉は、黒江を急がせるに十分なものだった。

 所定の勤務時間は終わっているものの、班長が集まれと言っているのだ。黒江はおそらく人生最速でトイレットペーパーを消費し、トイレを飛び出した。


 そうして、再び全速力でついさっき解散した場所まで走る。二、三回廊下を曲がると、ただの今まで一緒に訓練をしていた三人の姿が見える。

 黒江は双葉からイライラオーラが漏れていることを確認し、気を落としながら三人の前に滑り込んだ。


「遅い!」


「いや、俺今トイレに……って、そんなことは良くて。実戦ってどういうことなんです?」


 双葉の怒号を軽くスルーし、黒江は疑問を口にする。そのことに双葉は片目をピクリと動かしたが、今はそれどころではないと思い直し、


「言葉の通りよ。都内の公園で、ポルターガイストが確認された。私たち十三班は、その鎮圧命令を出された」


「ポルターガイスト……って?なんです、それ」


「詳しくは移動中に説明する。さっさと行くわよ」


 そう言うや、双葉はさっさと小走りに移動を始めてしまう。兼村は迷いなくそれに追走し、葵も慌てて走り出した。

 黒江はため息をつき、それから急いで三人を追いかける。


 そうして三人は、そのままエレベーターに乗り、一階ロビーに上がった。


 このロビーフロアまでは、化物退治(フリークスハント)局員以外でも入ることが出来る。もっとも、この本局にわざわざ足を運ぶような人間は少ない。

 主に、警棒や拳銃などに使われる資材や物品の運搬業者や、資金提供者スポンサー達の応接、一般人の情報提供者などだ。


 もう日が西に沈む時間帯だ。そんな部外者たちの姿はほとんどない。

 黒江たちは、そのロビーを突っ切った。


 先を歩く双葉は、正面玄関を出るのかと思いきや、その前でくるりと左へ曲がった。黒江がその先を見ると、「staff only」と書かれた扉が見える。


「裏口から出るんですか?」


「ええ。その先で車が待ってる」


 双葉の言った通り、裏口を出るとそこは、屋内駐車場だった。

 といっても、そこにあるのは全て同じ型の車だ。


 車体をグレーと白のペンキで塗られた、五人乗り乗用車。パトカーのようなものだ。化物退治(フリークスハント)版のパトカー。


 そして、そのパトカーが一台、すでにエンジンのかかった状態で黒江たちの前に停まっている。


「後ろに乗って」


 双葉は短くそう言って、自分はさっさと助手席に乗り込んだ。

 それを見て、慌てて黒江たちも後部座席に乗り込む。


 運転席には、すでに誰かが座っていた。化物退治(フリークスハント)の制服を着ているわけではない。というか、中年の男だ。

 ただ、見てみると、化物退治(フリークスハント)の紋章が入った腕章をしている。魔力(マナ)適性検査を通ってきた正式な局員ではないようだが、専属の運転手か何かなのだろうか、と黒江は思った。


 と、そんなことを考えている間に、その運転手は全員が乗ったのを確認し、アクセルを踏んでいた。


「……で。班長、説明お願いします。ポルターガイストっていうのは、あの(・・)心霊現象のことですか?」


「『あの』がどれなのか知らないけど、それで合ってるわ」


 ポルターガイスト。誰も手を触れていないのに、物体が動き、空中を浮遊する。そんな「心霊現象」の一つ。

 世界で最もポピュラーな、「現象」としての怪奇だ。


 黒江が想像したそれが、どこかの公園で起こっているらしい。


「それで?なんで化物退治(俺ら)が、それに駆り出されるんです?」


「それは……」


 双葉は口を開こうとして、それから急に押し黙った。

 どうしたんだろうかと、黒江が「班長?」と聞く。すると、


「……面倒。説明するのが」


「…….は?」


「ヒラタ主任に連絡して聞いて。あの人どうせ暇でしょう」


「ええぇ……?」


 唐突な放置である。黒江はさすがに、不満の声を漏らした。


「うるさいわね。私が知ってることを知らない人に説明するのは苦手なのよ。ヒラタ主任との方が話しやすいでしょ、あなたも」


「いや、そりゃあ……ああもう、分かりましたよ」


 もはやただのわがままのようだが、双葉の言う通り、ヒラタ主任との方がスムーズに話が進みそうなのは事実だ。

 結局、黒江は渋々通信機に手を伸ばした。


『……はいはい?もしもし、ヒラタです』


「あ、主任。黒江です」


『黒江くん?嬉しいねえ、君から連絡くれるなんて』


「野郎同士で気持ち悪いこと言わないでください?」


 開口一番にボケを挟んでくる、いつもと変わらないヒラタ主任に、黒江も冷めたツッコミを入れる。

 スムーズに話が進むと思ったのは間違いだったかも知れない。これはこれで、話が長くなる。黒江は肩を落とした。


『で?黒江くんたちは今、初の実戦に出動したって聞いたけど。何の用だい?』


「ああ、いや。その初実戦のことを説明してもらいたいんです。白石班長が、面倒だからヒラタ主任に聞けって」


『僕の使い方を心得てるねえ、彼女』


 ヒラタ主任はそう言って笑った。相変わらず心が広いというか、そもそも心が鉄で出来ているのか、はたまたそういう扱いに慣れきっているのか。

 嬉々として年下の部下にいいように扱われている研究室主任の姿を、黒江は胸に刻みつけた。「こうはならないようにしよう」、と。


『で?まず、君らがこれからポルターガイストの鎮圧に向かうってのは聞いたのかい?』


「はい、そこまでは。でも、それが化物(フリークス)となんの関係があるんです?」


『うーんとねえ。ポルターガイストってのは、いわゆる化物(フリークス)が生まれる前兆なんだよ』


 そう言って、ヒラタ主任は説明を始めた。


化物(フリークス)が最初に現れて四十年経つけど、未だに化物(フリークス)は新しく誕生し続けている。で、そういう場所には色々な前兆が確認されるんだ』


「前兆ってのは……その、今回でいう『ポルターガイスト』みたいな?」


『そうだね。他にはラップ音だったり、空間の歪みだったり。まあともかく、そういう前兆の通報を受けると、化物退治(フリークスハント)は対処に出かける。化物(フリークス)なんて、出来るなら生れる前に処理しちまう方がいいに決まってるからね』


「生まれる前に処理って……いや、細かいことは良いんですけど、つまり俺らは具体的に何をやるんですか?」


 それが、黒江の疑問の中心だった。一口に「化物(フリークス)が生まれそうだから対処しに行く」と言われても、具体的に何をすれば良いのかさっぱり分からない。

 そのポルターガイストをどうにかして止めれば良いのか。それとも、他の何かをする必要があるのか。


『えっとねえ。君らがこれからやるのは、化物の子(チャイルド)を見つけ出して、退治するってことだ』


「チャイルド……?」


 聞き慣れない単語に、黒江は首を傾げる。


「なんです、それ?」


『簡単に言えば化物(フリークス)の幼体みたいなもんだね。なんの力もない、ただそこに存在し始めた(・・・・・・)だけの、そうだな、幽霊みたいなもんだ』


「それを退治すれば、ポルターガイストは止まるんですか?」


『うん。化物の子(チャイルド)化物(フリークス)と同じで、魔力(マナ)を使って消滅させられるから』


 つまり、通報のあった公園の中から幽霊一匹を見つけ出し、退治する。

 なるほど、いかにも初心者向けの任務だ。入局して一ヶ月の黒江たちにでも、容易にクリアできそうだった。


 と、ここまで聞いて、黒江は隣に座る葵に、ヒラタ主任の言ったことを噛み砕いて説明する。

 双葉が説明を放棄して困っていたのは何も黒江だけではない。新入りで、これから何をするのか全くわからないというのは、他二人の班員も同じことだ。


 兼村も、何も聞きはしなかったが、聞き耳を立てているのは分かった。


「……と、いうわけらしい」


「えっと……その、『化物の子(チャイルド)』っていうのは、化物(フリークス)なんですよね……?」


「ん、ああ。幼体みたいなもんらしいけど」


「それでも、やっぱり化物(フリークス)、なんですよね……」


 葵はそう呟いて、不安そうに右手を握った。いくら簡単な任務でも、やはり初めての化物(フリークス)との戦いには緊張するらしい。

 その様子を見て、黒江は、


「あー、ヒラタ主任。小村が緊張してます。なんか安心すること言ってください」


『緊張って、別に何も心配することはないのに。魔力(マナ)を使える人間が化物の子(チャイルド)を倒しに行くってのは、ファイアーマリオでクリボーに挑むようなもんだよ』


「……だそうだ、小村。心配することないってさ」


 ヒラタ主任の言葉を聞いて、黒江はそれをそのまま葵に伝えた。すると、葵はいくらか表情を柔らかくする。

 化物の子(チャイルド)の弱さに安心したというよりは、ヒラタ主任の言ったユニークな言葉に和んだらしい。


『まあ、さっさと終わらせて帰って来なよ。何しろまだ実戦経験が無いのは、君ら十三班だけだ』


「……は?俺らだけ?他はみんな、実地任務終わってるんですか?」


 通信機から聞こえて来た聞き捨てならない言葉を、黒江は見逃さずに追求した。

 この一ヶ月、黒江たちは同じことの繰り返しをして来たのだ。局から出ることもなく、ひたすら五つの訓練所をたらい回しにされていた。


 それを今、ヒラタ主任は、他の班はそんなことやっていないと言ったのだ。


「どういうことです、それ?」


『いや、うん。君らの班って、みんな魔力(マナ)適性が高いじゃない。それで、下手な任務に出すんじゃ意味が無いってことになって……』


「……それで、結局与えられたのは、幽霊一匹始末するって任務?」


『結局ね。文句は局長に言って。僕は関与してないから』


 黒江はその返事に肩を落とす。いくらなんでも、そんな文句を局長に言いにいけるわけがない。


『まあ……任務は任務だから、頑張りなよ。僕も暇だったし、通信機でサポートするからさ』


「はあ……まあ、よろしくお願いします」


 と、そうしてヒラタ主任の説明がひと段落ついた頃、車が止まった。着いたのか、と黒江は窓の外を見る。


 そこは、閑静な住宅街だった。まばらに家が建っているだけで、人っ子一人見当たらない。


「周辺の封鎖は終わっているみたい。その辺りの家にも、今は誰もいないはずよ。車もここから先には入れないから、さっさと降りなさい」


「へえ……分かりました」


 双葉の言葉に従って、黒江たち三人は後部座席の扉を開け、車外へ足を踏み出す。

 

 と、そこで気付いた。黒江は、すでに自分が、かなり根本的なミスを犯していたことに、ようやく気が付いた。


「あっ……」


「……何よ、その『あっ』って?」


「警棒忘れました……」


「……はあ⁉︎」


 黒江のあまりに緊張感の無い言葉に、双葉は声を荒げる。

 確かに、黒江の腰元には、そこにあるべき武器が存在していなかった。


「忘れたって、どういうこと?あなたさっきまで、その警棒使って訓練してたんでしょう⁉︎」


「た、多分、トイレに忘れたんだと……ほら、便器に座るんなら、あれ腰から外さなきゃでしょ?」


 黒江は冷や汗をかきながら、早口に弁明する。

 いや、弁明の余地など無いが。言い訳の余地なく、全面的に黒江のミスだ。


「……チッ!この償いは、任務が終わってからきちんとやってもらうわよ」


 双葉は今が任務中であることを思い出し、本当にギリギリ、怒りを抑えて、そう言った。心底下らない言い合いにかまけている時間はないのだと。

 黒江は黒江で、とりあえず危機が去ったことに胸を撫で下ろすが、どちらにしろこの任務が終われば説教は再開されることに思い当たり、ため息をついた。


 と、そんな黒江に、葵が心配そうに話しかけてくる。


「あの、黒江さん、大丈夫なんですか……?」


「ああ……今は。いや、後で大変になりそうだけど」


「いえ、そうじゃなくて」


 葵は首を横に振り、


「これから私たち、化物(フリークス)と戦うんですよ?警棒が無いと……」


「……あ」


 そうだった。警棒が無いと、化物(フリークス)魔力(マナ)を流すことが出来ない。

 というのも、化物(フリークス)には生身から直接魔力(マナ)を流すことが出来ないのだ。


 ヒラタ主任に教わったことだが、化物(フリークス)魔力(マナ)を使って対抗するには、あくまで無機物を使って間接的に攻撃する必要があるという。

 詳しいことを言うと、「化物(フリークス)」という星の意思の概念に「魔力(マナ)」という概念で干渉するには、生身の人間の体から直接は不可能でウンタラカンタラ……と、黒江にはいまいち理解はできなかったが。


 ともかく、警棒が無いと、魔力(マナ)を以って化物(フリークス)を消滅させることは出来ないのだ。


「ちょ、ど、どうにかなりませんか?ヒラタ主任、聞いてたでしょ?」


 黒江は焦って、通信が保たれたままのヒラタ主任にそう尋ねる。すると、彼は機嫌よく笑って、


化物(フリークス)も一応実体のあるものだから、殴ることは出来るよ。仕留めるっていうか、トドメを刺すには魔力(マナ)が必要だけど』


「ってことは……俺はその、素手でみんなをサポートすれば?」


「そうだね。あとは、当然銃を使えば化物(フリークス)を殺せるけど……それは最後の手段にしてね。日本のマスコミは銃の扱いにうるさいから」


 ヒラタ主任のその言葉を聞いて、そうだ、銃はあったんだと黒江は思い出す。


「分かりました。銃は最後にしときます」


「そうしてくれ。それじゃ、頑張ってきなよ。通信はオンにしておくから、何かあったら聞いてくれ」


 黒江は、そんな頼りになるんだかならないんだか未だによく分からないヒラタ主任との会話を一旦終えた。そして、すでに先を歩いている双葉たちの方へ小走りで進み出した。


 そうして一分も歩いていると、黒江たちは小さな公園に到着した。看板には「せせらぎ公園」と書かれている。


「ここが……?」


「そうよ。正確には、ここの地下」


「地下?公園に地下ですか?」


 黒江の疑問には答えずに、双葉は自分の腰から警棒を掴み、右手で構える。


「小さな地下駐輪場があるの。そこで、一時間ほど前から誰もいないのに自転車がカタカタと動いたり……それから、怪しい人影が目撃されてる」


 言いながら、双葉は公園の中に進んでいく。黒江たち三人もそれに続いた。

 あたりはすでに暗くなっている。時刻は六時を回ろうとしていた。太陽はほとんど沈んでいる。


 黒江は、いよいよホラー映画じみてきたな、と感じていた。暗くなり始める時間に、化物退治に地下へ潜る。おまけに黒江は武器を忘れてしまっている。

 勇敢な男たちが吸血鬼退治に城へ乗り込むのは、いつだって夕方だ。


 そうして、四人は公園の中ほどの、地下への入り口前に進み出た。


「ここね。行くわよ」


 双葉は短くそう言って、階段を下って行く。兼村は迷わず、それを追いかけた。


 黒江は隣で不安そうな表情を浮かべている葵を見た。太陽の沈んだこの状況と、地下へ進まなかねばならないということが、怖いらしい。


「ほら、行くぞ小村。どうせホラー映画見る方が怖い」


「は……はい」


 そして、二人も地下へ続く階段を降りて行った。


 駐輪場の中は、薄暗かった。電気は来ているのだが、だいたい三つに一つの割合で、明かりが機能していない。

 相当古い場所のようだ。壁や床も、ススやらサビやらで汚れていた。


 ふと黒江は、壁に設置された場内案内図に目をやった。そこには、二つの同じような形の小さな見取り図が描かれている。

 驚いたことに、この古くて小さい駐輪場は、地下二階があるらしい。なんというか、無駄に思える設計だ。


 と、そんなことを考えている間に、黒江たちは階段を降り切って、地下一階に足を踏み入れた。


「えっと……どっち行きます?班長」


 黒江はそう尋ねる。この駐輪場は狭いが、進める方向は前、左、右に別れていた。


「……前に進みましょう」


 双葉はそう答えた。前方は、特に機能していない電球の多いエリアだ。他よりも目立って薄暗い。

 おまけに、そちらには地下二階への階段まである。


 確かに、ここに得体の知れない化け物が潜んでいるなら、そっちだろうな、と黒江も思った。


 そうして進行方向を決定した黒江たちは、また歩き始める。ただし、もうここからは、いわば敵地だ。どこに化物の子(チャイルド)が潜んでいるのか分からない。

 次第に、自然と出てきた緊張感に従って、黒江たちは口を開くことをあまりしなくなった。


「……でも、ここに入ってきてから、一度もポルターガイストなんて起ってないよな」


 黒江はそう呟いた。葵もそれを聞いて、確かに、と思う。

 そこらには大量の自転車が置かれているが、ピクリとも動くような様子はなかった。それを不審に思い、黒江は双葉に尋ねる。


「あの、班長?本当にここに、化物(フリークス)の幼体なんているんですか……?」


 しかし、その声は明かりの消えた空間を素通りして、消えただけだった。なんの返事も返ってこない。


「……?班長?」


 黒江は再度声を出すが、しかしその声もまた、虚ろに響いて消えた。黒江は眉をひそめ、あたりを見回す。

 周辺には、ほとんど明かりがなかった。唯一、いま黒江たちが歩いて来た後方からの光で、ぼんやりと周囲が確認できるだけの、半端な暗闇だ。


 いよいよ不穏な空気が実体に思えて来る。黒江は、なんの返事も寄越さない双葉に、もう一度、今度は叫んだ。


「班長!聞いてますか?」


 答えは——返ってこない。

 隣を歩く葵の、すでに極限まで不安の増大した表情を確認して、黒江は足を止めた。


「兼村、お前も止まれ。何か……何かおかしいぞ」


「……班長は?どこにいったの?」


「分からない。分からないけど……っ、⁉︎」


 そこで黒江は、言葉を詰まらせた。

 相変わらず周りは暗闇で、ほとんど何も見えない——が。


 何者かが、すでに黒江たちを取り囲んでいる。暗闇の中で、ぞろぞろと、ゆっくりと、たくさんの影たちが、黒江たちの前方を塞いでいた。

 それを、まるでネズミが猫の気配を感じるように、黒江は察知した。


 息遣い(・・・)が。ひゅう、ひゅう、というあまりにも、生きた人間には不自然なその呼吸音が、黒江たちの恐怖を煽る。


「っ……!くそ、なんなんだ!」


 黒江が心の焦燥を言葉にした、その時だった。 不安定にパチパチ、と音を立てていた真上の電球が、光を放つ。

 いまこの瞬間に、一つの明かりが復活したのだ。そしてその明かりが、黒江たちの敵を照らす。


 その姿を、明らかにした。


「ひっ……!」


 葵が、明確な恐怖の声を上げた。黒江も、悲鳴のような声こそあげなかったものの、焦りを明確に表情に出し、後ずさりする。


 そこにいたのは。そこで、黒江たちの目の前に立ち塞がっていた、何()ものそれは——、


「ゾンビ——⁉︎」


 三人のすぐ目の前まで迫ったそれ(・・)は、服を着て歩いていた。服を着て、靴を履き、二足歩行で歩き、迫ってくる。

 近付いてくるその顔は、しかし。左の眼球はあるべき場所に無く、皮膚は剥がれ、唇を失って歯茎をむき出しにしている。


 命を失くし、腐った体を、外法を以って動かし、そして人を喰らう。それは人間の形をしながら、すでに化け物だった。

 屍肉喰らい(・・・・・)。数十匹の不死者(アンデッド)が、おぞましいゾンビたちが、黒江たちの道を塞いでいた。


「っ、くそ……!白石班長は⁉︎」


「い、いない。どこにも——」


 ただの一瞬に、黒江たちは恐慌に支配される。日常は、化物(フリークス)の登場により、瞬く間に非日常へ変貌を遂げた。

 化け物が人間の平穏を喰らうのは、いつだって突然にだ。それを分かっている必要が、黒江たちにはあった。


 不測の、こういう日常の突然の変換に、対応し得る能力が必要だった。


 あまりにも唐突すぎる窮地に、葵は恐怖に膝を震わせ、黒江は焦りを叫ぶ。そして兼村は——、そして。


 そして。次の瞬間、黒江の顔に、生暖かい鮮血が飛び散った。

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