第26話 圧倒的本物
鈍重、というのだろうか。鉛玉という異物を、とんでもない速さと勢いで体内に埋め込まれるというのは、まさしく「鈍く」「重い」苦痛を伴うものだった。
「ぐ、ぁ——」
あまりに突然な攻撃だ。いかに吸血鬼の体があっても、突拍子もないタイミングでいきなり与えられた衝撃には耐えかねる——黒江は小さく声を漏らし、そのまま膝をついた。
「なん、で……!」
黒江は周囲を取り囲む赤黒い影に向かって叫んだ。
「なんで化物が、銃を使ってやがる——⁉︎」
「——それは心外な言い分だ。私とて銃くらいは使えるさ。よく見ろ人間、私にはこんなことも出来る」
と。
まるでヴラドは、子供を相手に遊ぶように語りかける。諭すようであって、それでいて酷く楽しげな声だ。
そのまま。
こんなことも出来ると言った通りに、ヴラドはそんなことをしてみせた。
「っ——⁉︎」
黒江を取り囲む影が突然変化し、各方向から突出する——それも、先端を鋭く尖らせてだ。つまり、有り体にその状況を表現するならば、黒江の四方を取り囲む影から大量の槍が突き出てきたということになる。
さながら。
四方から串刺しにするように。
前からも。
右からも。
左からも。
後ろにも。
四つの方向から、黒江を取り囲む形で槍が迫ってくる。これに全て貫かれれば、いかに吸血鬼の体でも致命傷は避けられない——当たり前。
だからこそ、黒江はさっさと避けなくてはならなかった。四方が塞がれていてもどこかに避けなければならない。
「なら——上!」
黒江は脇腹をずきずきと貫く苦痛に顔をしかめながらも、すんでのところで今取るべき最善の行動に身を移すことが出来た。
膝を折り曲げ、持て余す力を全て使い飛び上がる。
それしかない——とはいえ、この局面で応急的にでも避難を成功させるには、最低でも自分の身長以上の高さの跳躍が必要だ。吸血鬼の力を持つ黒江でなければ不可能な話であり、それはつまり、黒江でなければ死んでいたということだ。
実際。黒江が下を見れば、そこは赤黒い大量の槍が入り組み混ざり合う地獄と化していた。
「クソが……!」
黒江は背中にひやりとしたものを感じて、そう毒づいた。
もっとも、その寒気の正体は明らかだ。危機一髪で逃れなければ、黒江はあの大量の槍に貫かれていたのだから——吸血鬼だから即死には至らないとしても、最低でも致命傷に限りなく近い傷を負うことにはなっていただろう。
それに、あんな本数の槍に貫かれたのでは身動きが取れなくなってしまう。関節ごと完全に固められて、磔のようになってしまっていただろう。
なんの躊躇もないのだ。
黒江の命をこの場で消し去ることを、この化け物が一切躊躇していない——それはもちろん今までに戦った化物も同じことではあるが、しかしこのヴラドと名乗る化物だけはそれらとは違う。
ゾンビの群れも。
ただの吸血鬼も。
猛威の鎌鼬でも。
黒江を殺し得るほどに驚異的なわけではなかった。
ゾンビには勝った。
吸血鬼は、痛み分け。
鎌鼬には——勝った、ということでいいのだろう。
いずれにせよその全てが、吸血鬼の力を扱う黒江を殺し得るほどに強力だったわけではない。
だが、目の前の化け物は違う。吸血鬼の原点を名乗るこの化物だけは——簡単に黒江を殺せる。
そんな存在が、黒江を殺すことに対して微塵もない躊躇を覚えていないという事実だけがあるのだ。これを恐ろしいと思わないほど、黒江はまだ人間を捨ててない。
そして、そんな黒江の感情を読み取っているのか——ヴラドは笑う。
「小手調べだ——黒衣の者よ」
と、そう言った。
それを聞いて、黒江は眉をひそめる。
「くろご、だって……?」
疑問を口にしながら、黒江は重力に従って、影の包囲網の外に降り立つ——正確にはきちんと着地できたわけではなく、膝をついてしまったが。
外から見てみると、あの包囲網はまるで繭のようだった。うねうねと波のようにのたうっているからなのか、まるで影の包囲網自体が回転しているように見える。もっとも、黒江がそこから脱出出来たことによって、もはやあの影は「包囲網」とは呼べないが。
実際、そんなことを思って見ていれば、ヴラドは影を縮小させた。包囲としての意味を失った以上、無駄に拡張した体積は必要ないと判断したのだろう——そうして影は、ひとまずヴラドの範囲一メートルほどに縮小する。
「……くろご……ってのは、何だよ。聞き覚えもねえぞ」
「知らないのならばお前の祖先にでも聞いてみろ。お前の本家の者にな」
「本家……?」
黒江はヴラドの答えに、やはり首を傾げる。と言っても、「他人に聞け」という答えなのだから、実際には回答されたとは言い難いが。
本家に聞け。
本家——というのが何を指しているのかは、黒江には大方予想がつく。
「本家」という単語で想起される人物が、確かに黒江にはいる。だがしかし、彼女がこんな化け物と知り合っているなどという話は聞いたことがない。
ヴラドの言った「本家」が、黒江の思い出した人物と同一なら——なぜよりによってこの化け物が彼女を認知しているのだ?
(……いや、うじうじ疑問に思うのは後にしろ。さっきもそう決めただろうが)
黒江はひとまずのところそう思い直した。こんな状況で疑問を追求せずに冷静に戻れたのは、案外脇腹に残る痛みのおかげかもしれない。
黒江は、銃弾に貫かれた脇腹を確認した——血は滲んでいるものの、弾は貫通しているようで、傷そのものはすでに塞がりかけている。このズキズキとした痛みも、後数秒もしないうちに治るはずだ。
そのまま隣を確認すると、そこには葵が立っている。
葵は赤黒い繭の包囲のギリギリ外側に立っていたので、その包囲網の中から後方に脱出すれば、当然黒江は彼女のすぐ横に並ぶことになる。
「く、黒江さん……」
「……もうちょい下がってろ、小村」
黒江は目線を前方に固定したままそう言う。葵は一瞬何かを言いかけたようだったが、しかしこの状況の上で黒江を少しでも困らせるべきではないと判断したのだろう。こくりと頷いて、そのまま門扉の隙間から教会の敷地外に後退した。
門扉の閉まる音を聞いて、黒江はようやく立ち上がる。そして、腰元から警棒を抜いて片手で構えた。
右手に警棒を構えて、それから黒江は左手で鼻の頭までを覆っていたネックウォーマーを、首元にまで下げる。
これから激しく動くことになる。このままでは呼吸がしにくくなって、弊害が生まれると考えたのだ。
「……このクソ化物が。今すぐに消してやるから覚悟しろよ」
「お前には出来んよ——そんなことは。お前にはどうやっても出来ない」
「っ——、黙れ!」
黒江は叫んだ。それと同時に、足に万力のような力を込め、全速力での疾走を始める。
馬鹿みたいに拡大された影が引っ込んだ以上、もはやヴラドと黒江との間を隔てるものはない。教会の敷地は多少広くても、黒江の全速力ならば突っ切るのに三秒とかからない。
黒江の右手に握られた警棒は、白い残像を描きながらヴラドの頭頂目掛けて振り下ろされ——そして。
がきん、と鈍い音がする。
「——逸るな、人間」
「……!」
黒江の全力の一撃は、しかしヴラドの周りをうねうねと漂う影を殴打するに留まった——影が独立した意思を持つように動き、本人はピクリとも動いていないヴラドを守ったのだ。影を殴打というのも表現がおかしい気がするが、しかし事実としてそうなのだから仕方ない。
「私はもう少し遊びたい。だから逸るな」
言いながら、ヴラドは警棒と接触した部分の影を動かし、警棒を跳ね除けた。
ただし、その力は半端ではない。ただ警棒を振り払うだけでは済まなかった——具体的なことを言えば、全体重を警棒に預る形になっていた黒江が、体ごと後方へ吹っ飛んだくらいだ。
黒江は空中でくるりと一回転して、それから辛うじて着地する。
「くそ……」
「短絡的に倒せるほどに甘くはない。もう少し遊ぼうか」
ヴラドは依然凶相を顔面に貼り付けたままそう言う。
かと思えば、またも突然に、ヴラドの周辺に留まっていた影が肥大した。今度はこの敷地内を覆うほどではないが、しかしそれでも五メートルほどに伸びた巨腕と化している。
何より奇妙なのは、その影の形が階段状になっていることだ。
ヴラドの両隣に変動し、上に伸びた影はさながら両腕での万歳のようだったが、しかし真上にまっすぐ伸びているわけではない。奥の方へ、五段ほどの段を作っている。
「なんだ……?」
と、黒江が素直な疑問を口に出したその瞬間だった。
巨大な二柱が、ヴラドの前方に——つまりは黒江の立っている方向へ、雪崩れるように倒れこんできた。
巨大なハンマーが地面に叩きつけられる。
それも二つだ。あんな質量のものに叩きつけられればひとたまりもない。
しかも、この場合最悪なことに、左右から挟み撃ちをされる形になっている。つまりは逃げ場がない——黒江も流石に、この時ばかりは覚悟をせざるを得なかった。
——そしてそのコンマ一秒後、教会の庭を凄まじい轟音が包み込んだ。
「——!」
伸びっぱなしの雑草と、その下の地面が深く抉られる。その勢いで、教会の敷地はほぼ全域が濃い砂埃に包まれた。
そして、その中で黒江は無傷で生きている。
左右両側から振り下ろされた影は、しかし黒江の体には掠りもしなかったのだ。なぜか黒江より一メートルほど横の地面を叩き、大量の砂埃を舞わせるに留まった。
「どういうつもりだ……⁉︎」
と。黒江は危機を脱したことに胸をなでおろす暇もなく、前方を——ヴラドの方向を睨みながらそう口にする。
とはいえ、実際のところこの行為には意味がなかった。前方に目を向けたところで、ヴラドの姿を捉えることなどできなかったのだから。
二つの影が地面に叩きつけられたことによって生じた砂埃が、黒江の視界を完全に塞いでいる。これではまるで、あの影による包囲の再現だ。
(しかも、相当濃い……しばらくは落ち着かねえぞ、これ)
これほどまでに濃い砂埃が生まれたのは、おそらくあの階段状の形のせいだろう。
各階段の出っ張り部分。それが五段だから五つ分。ただ地面を叩くのではなく、形状を利用して計五回以上の回数を実現したのだ。
そんなことをすれば、単純に考えても地面に対する衝撃は五倍になる。砂埃がこれだけ舞うことになるのも頷ける。
そして——この砂埃は。
ヴラドの言う、遊びのための場所作りだった。
「——!」
黒江は、黙って警棒を握りしめた。言い換えるのなら、敵に対する臨戦体勢を整えた。
警棒が白い淡い光を発す。
この砂埃の中を。
すでにヴラドは動いている——ゆらゆらと揺れ動く化け物の気配がそれを教えてくれる。
黒江にはこの状況になってやっと、ヴラドが言った「遊び」の意味を理解した。
つまりは、この視界状況の中で闇討ち勝負をしようと言うのだろう。視界に頼らずに敵を捕捉して、攻撃を避け、攻撃を当て——まるでゲームだ。
「舐め、やがって……」
黒江はそう言いながら、全神経を周囲一帯に向けた。
この濁った闇の中で、ヴラドに先手を取られることは死を意味する——さっきから死と隣り合わせばかりだ。
ともかく、索敵勝負だ。敵の遊びにそのまま乗っかるのは気に入らないものの、こんな状況にまで誘い込まれてしまっては仕方がない。
ヴラドは、一日どころか何百年もの長を有するように思えるような化け物だが——しかし、黒江にも勝機はある。
なにせ、相手は化物なのだ。魔力を流すことにさえ成功すれば、それで終わる。
「————」
訓練ではよく使ったが、考えてみると、実戦で警棒をまともに使うのは初めてかもしれない。
ゾンビの時には無かったし、吸血鬼の時は銃すら使えなかった。鎌鼬に関しては、一応使いはしたが、あれを実戦での使用と考えるのは無理があるだろう。
長さ八十センチほどの真っ白い鈍器。材質は大理石——とはいえ、実際この棒そのものが大理石で作られているわけではないらしい。
大理石で警棒そのものが作られているのなら、そもそも化物との戦闘に使えるような重さではないはずだ。魔力を流すのなら表面だけで事足りるのだから、コーティングのような形になっているのだろう。
そもそもの話、大理石を惜しみなく使ってこの警棒一本一本を作っているのなら、費用がとんでもないことになる。
——と。
「——!」
ゆらゆらとゆっくり揺れ動くだけだった化け物の気配がら突然に色濃く、そして激しくなったのを黒江は感じた。
激しく。
そしてそれは——敵意も含めて。
ざわざわざわ、という感覚が背筋を駆け上る。黒江は足を踏ん張り、警棒をぎゅっと握り直す。
これからの一挙一動だ。どうあっても、どんな手であっても、ヴラドを先に見つけなければ——死。
冷や汗が黒江の頬を流れ、地面に落ちた。
この土壇場において、自分の手元に武器があるのだけはありがたかった。前回のように「まあ勝てるだろう」なんて状況ではないのだ。
そもそもの話、黒江はここから今すぐにでも逃げることを考えていた——今だって、出来るならそうしたい。
だが、化け物がすでに目の前にまで迫ってしまったのだから、もはや遅い。最低でもあの吸血鬼にしたように、足でも砕かなければ逃げ切れはしないだろう。
いや。
そうではなく、魔力さえ流せば——それで終われる。
この警棒を一度当てさえすればそれで良い。こうなった以上、逃げることではなく倒すことを考えるべ——
「っ——らあぁッ‼︎」
思考は途端に中断された。
黒江のすぐ目の前に、ヴラド等身大の人影が現れた。
黒江は警棒を振る時に、何も考えていなかった。無心で攻撃に移ったと言えば聞こえはいいが、しかし実際のところは「何も考えられなかった」ということだ。
目の前に出現したその存在感に、脳から神経へ直接電気信号が繋がったかのように、警棒を握る右手が勝手に動いていたのだ。それは身体的な反射に近かった——近づく天敵から、なんとか逃れようという生物的な反射行動。
そして——淡く光る、その魔力の武器は。
確かにそこにいた人影に直撃した。
(やったか——⁉︎)
黒江の手に伝わる、確かな感触。めりめりと、自分の手によって振るわれている警棒が敵の体に押し付けられていく感覚——これは、手応えと形容するべき感覚だ。
警棒に魔力は十分すぎるほど流れていた。これならば、確実に仕留められているはずだ。
何よりも、現在進行形で右手に伝わる確かな手応えが、それを証明している——と。
概ねそんな思考過程で、黒江は自分の勝利を確信に近いレベルで信じたが、しかし。
その証明であった手応えが、次の瞬間唐突に消え去った。
確かに今、警棒はそこにある何かにめり込んでいたはずなのに、その感覚が突如消えたのだ。
「——残念、それは本物だ」
「——⁉︎」
前方の人影が突然消えた、と思えば、今度は真後ろからそんな声がする。
黒江は警棒を振った勢いで前方に倒れこみそうになるのをなんとか踏みとどまった。そして体を支える形で地面についた左足を軸に、くるりと百八十度回転し——つまりはそのまま体の向く方向を後方に転換し——再び警棒を振るった。
今度も、当たりだ。
確かに警棒を掴む右手には、手応えが伝わった——なのに。
「残念、それも本物だ」
「——ッ!」
同じことが繰り返された。手応えは一瞬で消え、そして今度は右から声が聞こえる。
今度こそ黒江はゾッとした。
これは別に、幻覚やら幻聴やらに惑わされているわけではないはずだ。最初の影の包囲網の時に、全方位からヴラドの声がしたが——あれはつまり、影を拡声器の代わりにしていたということなのだろうが、しかし今回はそれとは違う。
影で声を囁き、黒江を惑わしているのではない。
囁いているのは、ヴラド自身の口だ。
その声に誘われて警棒を振って——黒江は、確かに一度攻撃を当てているのだから。
残像とか、そういう類のものではない。
そんな思考を行いながらも、黒江の手足はもはや止まらない。再び、今度は右足を軸に向きを九十度変えて、警棒を振るう——また当たり。
そして消える。
「残念、それも本物だ」
次。また右。
「残念、それも本物だ」
次。後方だ。
「残念、それも本物だ」
次、左。
「残念、それも本物だ」
数々の「手応え」と、それが消え去る感覚。同じことを繰り返した回数が二桁を超える頃には、手応えが消えるのと次の声が聞こえるタイミングとのラグがほとんど無くなっていた。
感触が消えると同時に、次の声がする。
そして次の声の方向に警棒を振るい——そして当てて。今度は、その瞬間に声がする。
何度も繰り返す。
繰り返し、繰り出して、また繰り返す。
回数が三十を帰る頃には、もはや順序というものがでたらめになっていた。黒江は感触が消えるのすらも待たず、ただ声に耳を傾けて一心不乱に警棒を振るっていた。
もちろんそれだけの動きが、同一の点上だけで収まるはずもない。黒江は右に左に、前に後ろに、終いには上へ下へと、縦横関係なく動き回る——それも、吸血鬼の力を完全に使ってだ。
側から見れば、それこそ人間業ではないだろう。映画のワンシーンのようだ——さながら、ダース・シディアスがヨーダを相手に立ち回る、そんな様子。
ただし、黒江の周りに緑色の賢者はいない。砂埃の中を、そこにいるかもわからない人影相手に一人戦っているだけだ。
それはまるで、舞踊のように見える様だった。
「残念、それは本物だ「残念、それは「残念、それは本「残念、それは本物だ「残念、「残念、それ「残念、そ「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念「残念——————全て、本物だ」
「——ッ、クソがァ‼︎」
と。
大量の嘲笑と、黒江の罵声が重なったそのタイミングだった。
舞っていた砂埃が、ようやく晴れてきたのである。それは至極当然な現象ではあったけれど、しかし黒江にとっては数ヶ月以上ぶりに見る晴れ間のように思える光だ。
砂埃が晴れ。
そして、曖昧な人影を映すだけだった黒江の周辺が、確かな景色として蘇る。
それはつまり、曖昧だった人影が曖昧でなくなるということだった。
「————‼︎」
黒江は、無我夢中で腰元に手を伸ばし、そこにあった武器をがっちりと掴んだ。
今、曖昧でなくなった化け物は。
黒江の目の前にいる。
砂埃が晴れて——その凶相が、目の前に。
「死ね——‼︎」
黒江は片手で(しかも利き手ではない左手で)器用にも安全装置を外し、そして瞬時に引き金に指をかけた。
咄嗟に銃を取ったことも含めて、なぜ理性からとことん外れて混乱したような精神状態で、ここまで器用なことができたのかは黒江にも分からない。人間の底力ということなのだろうか——ともかく。
ようやく視界が晴れて。
そして、ヴラドは目の前で笑っている。その距離は五十センチもない。
黒江は迷いなく、一切の余計な思考すら頭の中から消して、銃口をヴラドの眉間に突きつけ——そして、引き金を引いた。
「————」
ガァン!と、聞きこぼしようのない巨大な音が響き渡る。それと同時に、ヴラドの頭部が銃の衝撃により思い切り後ろへと押された。
がくん、と。そして、漆黒の頭髪が後ろに垂れる。
ヴラドのその眉間からは、硝煙が確かに昇っていた——確実に、魔力が化物を打ち砕いた証拠だ。
「やった——」
黒江はようやく、安らかと呼べるような感情を抱いた——別に、それは良い。
この状況だ。文字通りの濁った空間に閉じ込められ、姿の見えない化け物との戦いを余儀なくされていたのだ。その闇が晴れて、化け物は姿を現し、そして銃弾を化け物の頭部に埋め込むことに成功した。
安堵。
その感情は、大いに抱いて構わない。
ただし、口にするべきではなかった。
なぜなら、その安堵の言葉は敵を喜ばせるからだ——「目論見通り」だと。
「——と、思ったか。人間」
目論見通りに、目の前の弱小な人間を弄んでやったという満足感を敵に与えてしまうからだ。
見ろ。まるでゾンビのように、首から上を起き上がらせる化け物の顔を。
完全に満悦じゃあないか。
「私を殺せたと、思ったか——人間」
どうして、と黒江は自問する。
魔力は確かに流れていたはずだ。拳銃を握った時に、目端にだが淡い光を確認した。
どんな奴でも、化物ならば魔力によって殺せるはずだ——そして今確かに、この目の前の化け物に魔力は流れていたはずだ。
なのに。
なぜ——、
「化け、物……!」
「よく言われる。だがしかし、ならばお前は何だ?」
言いながら。
その、もはやありえない角度にまで吊り上がった目と口端を見せながら。
ヴラドは、黒江の口の中に冷えた鉄の塊を押し入れ——そして、引き金を引いた。
次の瞬間、口内と喉という部位を突き破り、黒江の後ろ首から焼けるような銃弾が飛び出す。
「ぐっ……が、かは——ぁ、あ、あああああぁぁぁぁぁぁッ‼︎⁉︎」
ヴラドが、銃を黒江の口の中に押し込みそのまま発砲したのだ。
本来ならば、確実に人間を殺す行為である。
黒江は、焼きついた口で、全くもって声という状態になっていない悲鳴を上げた。それと同時に、黒く焦げ付いた口内の粘膜と血液が吐き出され、ヴラドの顔に付着する。
「焼け付く鉛玉の味はどうだ、人間」
「ぃ、か……ぁ、あ、が」
声にならない声。
という表現が、ここまで似合う状況もそう無いだろう。
黒江は、口と首元から全身に伝播する訳の分からない痛みに支配されていた。
吸血鬼の再生力がある以上、決して死ぬことは無いし、傷は塞がり始めている。しかしそれだけではどうにもならない痛みというものも、この世に存在した。
喉が——体の内側が燃えて、焼きついて、蹂躙される。
激痛などという言葉でも、表現は不可能な筆舌にし難い確かな「痛み」に支配されている。
「く、ほ……が」
しかし、黒江の目には黒々しい炎が宿っていた。
目の前の化け物に対する、あまりにも直接的な憎しみだ。
「こ、ご……ぐほ、はけほほ——‼︎」
この、くそ化け物。
ぶち殺してやる——までは、口から出なかったが。
しかし黒江は、その言葉通りにやってみせた。
自分の左手に握られたままの拳銃を、何も分からないままにそれでも握り直し、再度引き金に指をかけたのだ。
喉が焼けて、言葉も吐けなくなり。
痛みに支配されても、それでも。
「ころす——‼︎」
その呪詛のような言葉とともに、黒江は再びヴラドに銃を向け、引き金を引いた。それと同時に、この戦いで三度目となる重苦しい銃声が響く。
今度は頭では無かったものの、しかし胸部の中央あたりに命中する。
至近距離での銃撃なのだから、その衝撃は半端では無い。ただの一般装備のリボルバーでもだ。
ヴラドはその衝撃に体を揺らした。物理法則にはとりあえず従うようだが、しかし——、
「そうだ」
ヴラドは、言った。
掠れもしない声で言った。
「それが吸血鬼同士の戦いというものだ——人間よ」
言いながら、ヴラドの顔面。
この化け物の顔に貼り付いた凶相は、未だ崩れない。




